その3

それから数日後。

 弘美は結構な土砂降りの雨の中、傘にレインコートにレインブーツという雨の日の完璧装備で、研究棟へと向かっていた。

 分厚い雨雲のせいで、昼間だというのに外は薄暗い。

 それでも鼻歌交じりに雨水を蹴飛ばしながら歩く弘美の姿は、小学生じみて見えるだろう。

 だが幸いなことにこの雨脚のせいで、目撃者は誰もいなかった。

「ふんふんふ~ぅん?」

結構な音量で鼻歌を歌っていた弘美の視界に、白っぽいなにかが入り込んだ。

 ――研究棟の人かな?

 白と言えば研究者の着る白衣だ。

 だとすると、弘美の鼻歌演歌を聞かれた上、それを徳海にチクられるかもしれない。

 弘美は慌てて身なりをチェックしつつそちらを見た。

 すると、そこにいたのは白衣の人ではなかった。

 いや、正確には人でもなかった。

「なんだ、幽霊か……」

無駄にビビらせないでほしいと、弘美は肩を落とす。

 弘美の視線の先にいる白っぽい影を浮かべた幽霊は、じっとどこかを見つめていた。

 長髪なので女性かなと思ったが、案外ビジュアル系の男かもしれない。

 レイスともゴーストともいわれる存在の幽霊は、モンスターという扱いで吸血鬼や狼人間などと同輩として扱われがちだ。

 だが弘美たちからすれば大きく違う。

 あれらは生物ではなく残留思念的なもので、強烈な「願い」をこの世に残して死んでしまった人間の残滓だ。

 吸血鬼が光に弱いというのはデマだが、幽霊が夜というか、暗い空間を好むことは事実である。

 本来ならば、こんな真昼間から目にするものではないのだが、雨ゆえのこの暗さに誘われたのだろう。

 ――あんなの、今まで見なかったけどなぁ?

 弘美は首を傾げる。

 幽霊が見える人を霊感持ちという言い方をするが、それは幽霊の残留思念を読み取る感受性の持ち主を指している。

 そしてその感受性が、弘美たち吸血鬼は高かった。

「誰にくっついてるのか知らないけど、早くどっかに行ってね」

その時の弘美はさして気にせずに、傘をくるくる回しながらさっさと通り過ぎた。


 しかし、その一週間後。

「またいるし……」

雨が上がって薄日が射す中、木陰に陣取っている幽霊がいた。

 幽霊の視線が向いているのは、どうやら研究棟のようだ。

 あの中に、幽霊のお目当ての人物がいるのだろうか。

 その「願い」がどういった執着心によるものなのか知らないが、相当根深いと思われた。

 それから幽霊は、弘美が通るといつも同じ場所で見かけた。

 ひょっとして毎日いるのだろうか。

 今日も雨上がりの天気の中、研究棟へと向かっている弘美の視線の先に幽霊はいる。

「なんかこう、通るたびに目の端にチラチラするのが気になるっていうか」

相変わらず、じっと研究棟の方を見ている。

 ――ストーカーするのなら、どこか遠くでやって欲しいんだけど。

 そんなげんなりした気持ちで歩いていると、研究棟の方から歩いてくる人影があった。

 弘美がその気配を察知するのと同時に、幽霊の白い影がゆらゆらと揺らめき出した。

 これがどういった現象なのか弘美にも定かではないが、雰囲気からすると興奮しているように見える。

 幽霊が興奮できるのかは知らないけれども。

 幽霊のお相手は誰だと、弘美が半ば野次馬根性でその気配を追っていると。

「徳海さん!?」

そう、向こうから歩いて来ている姿は、白衣を着た徳海のものだった。

 研究員仲間らしい男と会話をしながら、こちらに近付いてくる。

 幽霊は徳海に向かって白い影を伸ばそうとするも、雨上がりの日差しに遮られてかなわない。

 ――こいつっ、徳海さん狙いなのか!

 弘美が許せんとばかりに、幽霊に向かって畳んだ傘を振り回すが、幽霊はそれをすいっと避ける。

「幽霊のくせに!」

弘美は怒りに震えた。


 この時、弘美は幽霊しか見ていなかった。

 だが弘美が徳海に気付いたということは、徳海だって弘美に気付くわけで。

「おい、但野……」

弘美は傘を上段に構えた姿を、徳海に見つかった。

「お前なにしてるんだ?」

徳海の顔の大部分がもさい前髪に隠れていても、呆れているようであるのはわかる。

「や、ちょっと幽霊退治とか……」

弘美が傘をそろりと降ろしながらそう零すと、徳海は大きくため息をついた。

「お前、童心に帰って遊ぶのも、ほどほどにしとけよ?」

弘美は掛け値なしの本当のことを言ったのだが、徳海には冗談だと捉えられたようで、そんなお説教じみた忠告をされる。

「遊んでないし、真面目だし!」

弘美が反論すると、徳海がジトリとした視線を向ける。

「この間は、小学生が入り込んでるって通報されたそうじゃないか」

「あれは……、通報者の見る目がなかっただけだし!」

博美は一瞬言葉に詰まるが、ムキになって言い返す。

 中学生と間違われるのもどうかと思っているのに、小学生にまで格下げされたとか、康平に知られると腹を抱えて笑われそうだ。

「なにをしてもいいが、いちいち草野から面白おかしく聞かされる俺の立場にもなれ」

「但野弘美は立派な淑女だと、反論しておいてください」

弘美が徳海とそんなアホな言い合いをしていると、連れである男が離れた場所から窺っているのが見えた。

「どっか行くの?」

「事務局に用事だ、すぐ戻る」

弘美の疑問に徳海は簡潔に答えると、待っている連れを追いかけて去っていく。

 そんな徳海を、幽霊がじっと見送っている。

 ――この幽霊と徳海さん、どんな関係だろう?

 とても気になるところだが、いつまでもここにいたら、戻って来た徳海にまた遊んでいると思われるのがオチだ。

 弘美は幽霊の件は一旦置いておくことにして、いつものコンビニスイーツ入りの保冷バッグを持って、研究棟へと向かった。

「あ、研究棟にどうやって入ろう。草野さんいるかな?」

そう呟きつつ、傘で地面を叩きながら歩く弘美は、この傘の使い方が小学生じみているのだと気付いていなかった。

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