その2
こうして結局研究棟までやってきた弘美は、いつも徳海がいる資料室の近くまでやって来たのだが。
――臭っ!!
廊下を強烈な臭いが漂っていた。
狼女を母に持つ弘美は常人よりも臭いに敏感なので、鼻が曲がりそうになる。
――これって香水!?
臭いの元は、恐らくドアが開けっぱなしになっている徳海の研究室だ。
ちなみに弘美を連れて来た草野はというと、研究棟へ入るとすぐに姿をくらましていた。
――一体なにがあったの!?
この異常事態に、弘美がちょっとした好奇心を抱きつつ中を覗くと、徳海はなにやらあちらこちらをガサガサと漁っている。
「どーも」
弘美は中に入る気にならず、ドアの外から中にいた徳海に話しかけた。
極力臭いを吸わないように、鼻声である。
「但野か」
弘美の存在に気付いた徳海が、こちらを振り向いた。
「なんか臭いよ?」
「まだ臭いが残っているとは、なんと迷惑な」
弘美の指摘にしかめっ面をした徳海が、窓を全開にした。
クーラーのきいた室内に、外の湿気を含んだ風が入って来る。
とたんに空気がじめっとするのだが、臭いが流れて気分がすっとする。
しばらくしてようやく臭いが薄れたので、弘美は室内に入った。
「お客さんだったんだね」
研究棟であんな濃い香水の匂いを嗅いだことがない。
いい香りも、過ぎれば悪臭になるといういい例である。
それにしても、妙に資料室がすっきりしている。
いつも本などが敷いてあるソファの上になにも物がない。
「片付けたの?」
弘美の他意のない質問に、徳海はギリッと歯ぎしりをした。
「ちょっと席を外した隙に、勝手にあの女がまとめて行ったんだ! おかげで資料が見つからない。もう少しで研究がひと段落するから、その後片付けるつもりだったというのに、余計なことを!」
あの女という言い方からすると、やはり客がいたようである。
だがあちらこちらを捜索する徳海は、ずいぶん怒っている様子である。
弘美が推理するに、ここに香水の主である女性がやってきて、徳海の許可なく室内の物に手を入れていったのだということで合っているだろうか。
――確かに散らかってたと思うけど、小さな親切大きなお世話という奴なのかな?
散らかしているかどうかという判断は、人によって分かれるとはよく聞く話だ。
乱雑に積んである本も、人によってはちゃんと場所を把握しているので、勝手に動かされると困るそうだ。
「入られて困るなら、鍵かけとけばいいのに」
弘美は以前も思ったことを言ってみた。それに徳海はピクリと眉を上げる。
「研究室ならともかく、資料室で在室中は鍵を開けておくのが慣例だ。本当に触られて困るものは、棚に入れて鍵をかけてあるしな。だが今後、仮眠中は考える。」
どうやら徳海は以前の弘美の時同様に、仮眠中の襲撃を受けたらしい。
あれだけ頭まで毛布に包まれていると、物音に鈍くなるのかもしれない。
それで起きた徳海がトイレに立った間に、このような状態になっていたのだとか。
「で、お前は何の用だ」
怒りが落ち着いたらしい徳海が、弘美に話を振ってきた。
「あ、私? コーヒー買いに購買に行ったら草野さんにつかまって、ここまで引っ張ってこられた」
「あいつめ……」
弘美の説明を聞いて、徳海のこめかみに筋が浮いた。
どうやら草野がこの不機嫌の原因の一端を担っているらしい。
たしか草野は以前も、弘美を勝手に徳海のいる資料室へ入れたのだったか。
今回も同様のことをやらかして、弘美が巻き込まれているらしい。
――なんという大迷惑!
「怒っている時は甘いものがいいよ? けど今日は差し入れないんだよね、なにせ突然連れてこられたから。ごめんね?」
弘美はなんだか甘味を持っていないことが申し訳なく思い、思わず謝った。
謝られた徳海は、深く息を吐いた。
「……お前に当たるのも大人げないな。気分転換に出るか」
徳海は肩を落として、財布を取って白衣のポケットに入れた。
「来い、今日は俺がおごってやろう」
「え、やった!」
おごりと聞いて、弘美は喜んで徳海について行った。
こうして弘美と徳海が二人連れだって傘をさして外を歩く姿を、草野が研究棟から窓越しに眺めていた。
「やーよかった。あのままだと俺、徳海になにされたか」
草野はホッと胸を撫でおろした。
徳海に研究に協力しないと言われるのが、一番つらい。
弘美が徳海にコンビニスイーツを奢ってもらい、満足顔で家に帰ると、但野家の玄関にデカい犬っころが寝ていた。
弘美は思わずその背中を蹴り飛ばす。
「暑苦しいから、玄関で寝るのを止めれ」
どうして梅雨の湿気で蒸し暑い中で帰宅直後に、毛むくじゃらを見なければならないのだ。
拷問でしかない。
「だって一番涼しいし」
そう言いつつ、廊下に身体を擦りつける康平。
後で掃除しなければ、玄関が毛だらけだ。
「暑いというなら、毛皮を脱いで人型になればいいじゃんか」
湿気で毛皮が重くなるこの時期は、康平が一番嫌な季節らしい。
犬っころ姿だから、余計に湿気るし暑いのだと弘美は思う。
黒毛の毛皮はさぞ熱や湿気を溜め込むに違いない。
「だって、人型って窮屈じゃんか」
お姉さまはいつだって人型だというのに、窮屈とぬかす康平。
こいつはもう獣寄りの思考回路をしているに違いない。
「ほれ、注文のやつだ」
「サンキュー、アネキ!」
弘美が放り投げた袋を器用に口でキャッチした康平は、自分の部屋へと持っていく。
ちなみに康平の部屋のドアは、ペットの出入りが出来るドアになっている。
取り付けた業者も、まさか部屋の主が出入りに使っているとは思うまい。
リビングで冷たいジュースを飲んでいると、康平がやってきた。
そして弘美の臭いをフンフンと嗅ぎだす。
「アネキ、なんか臭いぞ」
康平にそう言われ、弘美も自分の臭いを嗅いでみた。
「本当? 私にもうつったかな?」
あれだけ強烈な香水の匂いだ、移り香があってもおかしくない。
あれを直で嗅いだ徳海はご愁傷様である。
あれは人間であっても臭いレベルだろう。
弘美よりもさらに嗅覚の鋭い康平の前で、臭い身体でいるのはなんだかイジメみたいだ。
弘美はすぐにシャワーを浴びた。
さっぱりしたところで、弘美は康平にこの臭いの元の話を語ってやった。
弘美が資料室へ行ってみると、香水臭い室内が勝手に片付けられ、徳海が探し物が見つからないと怒っていたと簡単に説明する。
「うわぁ、部屋の中を勝手に掃除とか、かーちゃんかよ」
康平が耳の裏を後ろ足で掻きながら言った。
康平にとってもこの行為はアウトのようだ。
「その人に直接会ってはいないんだけど、徳海さんマジ切れしてた」
弘美はあの部屋に通い始めて一月経つが、悪い態度を取られても、あんなにマジ切れで怒られたことはない。
徳海もよほど腹に据えかねたのだろうか。
だが康平は、違うところが気になったようだ。
「アネキの男は他に女がいたのか」
「その言い方はやめれ」
弘美は康平の頭の上の三角耳を引っ張った。
その言い方はまるで、昼ドラの三角関係のようではないか。
「で、何物だったのその女」
康平が引っ張られた耳を前足で撫でながら、弘美に聞いてきた。
「なんかね、ヘッドハンティングの会社の人なんだって」
弘美とて詳しくは知らないが、大学近くのコンビニに行く道がてら、徳海が話してくれた内容によると。
徳海は結構な数の論文を書いており、それらはそこそこ有名であるのだとか。
――今度図書館で検索をかけてみよう。
ともかく、徳海はその論文のおかげで、あちらこちらの研究機関などから勧誘の声がかかっているらしい。
だが徳海は今の研究環境で満足しており、どこかに移動するつもりはないのだとか。
それがわかっている者は無理強いをせず、「気が変わったときにはぜひ」という論調であるのだとか。
「ふーん、そんなに有名人なんだ。もさいのに」
確かに弘美だって徳海はもさいと思うが、面と向かって言われるとなんとなく腹が立つ。
徳海に情がわいたのだろうか。確かに研究棟で徳海に時折食べさせてもらう昼食は美味しい。
――情というより、食欲か。
話が逸れたようだ。
ともかくそんな中、妙に食い下がっているのが、そのヘッドハンティング会社の女エージェントなのだとか。
「あんまり徳海さんが無反応なんで、あちらさんも意地になってるんだって。絶対に落としてやるって」
それでだんだんと行動が派手になり、最近では頻繁に研究棟まで出向くようになったらしい。
確か徳海と会ったばかりの時、誰かを避けているような発言をしていた気がする。
それがこの女エージェントだったのかもしれない。
徳海も難儀なことである。
「アネキの男は人気者なんだな」
「だからその言い方やめろ」
どうしてもその方向で発言したいらしい康平の尻尾を、弘美は編み込んでやった。
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