その3

改めて康平にコーヒーを催促された翌日、弘美は再び理学部の敷地に足を踏み入れていた。

 今度はちゃんと購買でコーヒー豆を買った。自宅用と弟用の二つを。

 購買の袋を振り回しつつ、弘美はずんずんと敷地の奥へと進んでいく。

 よくよく周囲を見ていれば、ちゃんと立て看板があちらこちらにあるのだ。

 ――どうして昨日迷子になった、自分。

 弘美が立て看板にしたがって研究棟へと向かうにつれて、だんだんと周囲に白衣を着た姿が増えてくる。

 そうなると自然、弘美の姿が目立ってしまう。

 「誰だあれ?」という視線をビンビンに感じながらも、弘美はざくざく進んでいく。

 そうしてついに、昨日行き倒れた場所まで辿りついた。

「えーと、入り口はこっち」

昨日帰りに通った扉から、ガラス越しに中を覗く。

 ここまで来て、弘美は重大な問題に気付いた。

 ――どうやって会おう?

 そもそも研究棟という場所は、弘美のような一般ピーポーが入っても許される場所なのだろうか?

 怪しい実験の真っ最中で、目撃した罰として改造されたりしないのだろうか?

 ガラス扉を前に、弘美が悩んでいると。

「おぉい、どうしたお嬢ちゃん?」

背後から声をかけられた。弘美が振り向くと、白衣を着た茶髪の青年が立っていた。


 どうやら弘美が扉の前で仁王立ちをしているので、青年は中に入れないでいるようだ。

「すみません、邪魔ですね」

弘美が横にずれると、男性はカードのようなものを扉の横の機械に挿していた。

 やはりすんなりと入れるわけではなさそうだ。

「研究棟に、なんか用?」

機械からカードを戻しながら、青年が弘美に尋ねてくる。

「用というか、人に会いに」

弘美が簡単に要件を伝えると。

「へぇ誰?呼んであげるよ」

青年が爽やか笑顔で言ってきた。

 ここで弘美は、そういえば研究棟に入らずとも、呼んでもらうという手があったのだと気付く。

 早速お願いしようとしたのだが、弘美がどんなに記憶を検索しても、相手の名前が出てこない。

 そうしてうんうんと唸っていた末に、弘美はあることに気付いた。

「……そういえば名前聞いていない」

弘美は昨日の男性と、お互いに名乗りあってすらいなかった。

 ――これでは、お礼のしようがないではないか!

 己の間抜けっぷりに絶望したあまり、弘美が一人壁に腕をついて打ちひしがれていると、爽やか青年が困った顔をした。

「一緒に入ったのはどんな人? わかったら呼んであげられるかも」

青年の親切な申し出に、弘美は昨日の男性を頭の中に描く。

「えっと、もさもさ頭のよれよれ白衣の人です」

その瞬間、弘美の後頭部に衝撃があった。

 脳が揺れた気がする弘美の背後で声がした。

「悪かったな、もさもさのよれよれで」

不機嫌な声が、弘美の衝撃覚めやらぬ脳に響く。

 ――脳細胞が、私の貴重な脳細胞が死んだ……!

 頭を抑えてうずくまる弘美をよそに、青年が驚きの声を上げた。

「徳海(とくうみ)! 外にいたのか、藤沢さんに捜されてたぞ」

「ああ、そのまま行方不明にしといてくれないか?」

心底面倒そうな顔で男性は青年に返事をする。

「で? お前はまた迷子か?」

いまだ蹲ったままの弘美に、男性が視線を向けてきた。

「違うし! 助かったお礼をしに来たのに!」

ピシッと手に持つ小さな保冷バッグを掲げる。

 この中に、コーヒーに合うコンビニスイーツと保冷剤が入っているのだ。

 せっかくのスイーツを冷たいまま食してもらおうという、弘美の心遣いである。

 ――こうまで気をつかったのに、この仕打ちはなんだ!

 それにしても、弘美は近くに寄って来られた気配を感じなかった。

 吸血鬼は気配に敏感であるはずなのに、己の危機管理能力はダメダメなのではなかろうか。

 頭と精神のダメージでちょっぴり涙目の弘美を、男性がひょいっと小脇に抱えた。

「そう、じゃあ行くぞ」

男性は機械にカードを刺して扉を開くと、足早に研究棟に入っていく。

 ――え、なにこの扱い。

 お姫様抱っこを所望するとまでは言わないが、もうちょっとマシな運び方があるのではなかろうか。

 弘美と男性が去った後、一人取り残された青年はしばらく唖然としていた。

「え、徳海の隠し子?」

その呟きは、幸いなことに二人の耳に入らなかった。


 こうして弘美はまたもや、昨日の部屋へお邪魔することになった。

「そこいらに座ってろ」

そう言って男性がコーヒーメーカーをセットしている間に、弘美はソファの上に散乱した本を隅に寄せていた。

 本の上に座るのはお尻が痛いことは、昨日のうちに実感済みだ。

「捜されてるんじゃないの?」

そのようなことを、先ほどの爽やか青年が言っていた気がする。

 しかしそんな弘美の気遣いを、男性は鼻で笑った。

「いいんだよ、どうせろくな用事じゃない」

どうやら男性は、捜している人と会いたくないらしい。

 その口実として、弘美が訪ねてきたことはうってつけというわけだ。

 だとすると、弘美が申し訳なく思う義理もない。

 さっさと本日の訪問理由を果たすことにした。

「昨日は命拾いをしました。これはお礼の品です」

弘美が保冷バッグを開けると、そこには冷えたプリンが二つあった。

 何故二つかというと、弘美も食べたいからだ。

 他人が食べているのをじっと眺めるなんていうことは、弘美の辞書には載ってない。

「ふぅん、プリンか」

「あ、甘いもの苦手とか?」

今の時点でその可能性に気付くとは、我ながらまったくのダメダメぶりである。

「いいや、甘いのも辛いのも得意だ」

しかし弘美の心配は無用だったようで、男性はそう言って保冷バッグの中からプリンを一つ手に取り、簡素な作りのデスクのイスに座った。

「じゃあ私も!」

弘美がいそいそと自分のプリンを手にすると、男性がコーヒーを渡してきた。

 こうして二人、コーヒーを飲みながらプリンを食べていると、男性の白衣にネームプレートがつけられているのが見えた。

 それに書いてある名前は、徳海京谷(とくうみきょうや)だった。

「徳海さん、ていうんですか?」

弘美の言葉に、男性はプリンから顔を上げた。

「ああ、一応理学部の研究員。そういやお前名前は?」

相手も弘美の名前を聞いてないことに、今気付いたようだ。

「但野です、但野弘美」

「中学生みたいな大学生だよね」

弘美が名乗ると、いらぬ注釈をつけてきた。

 むっとした顔で徳海を見ると、口元をゆがめて笑っている。

 目元が前髪で隠れているので、そんな笑い方をされるとものすごく怪しい。

 ――もさもさのよれよれのくせに!

 弘美が目力を強めて睨んでも全く通じていないようで、徳海はまたプリンに視線を落とすのだった。


 プリンを食べ終えた弘美がコーヒーをまったりと味わう中、徳海はコーヒーを飲みながら、手に持った用紙に目を通している。

 そして手探りしながらなにかを探るようにデスクを漁っていると、ガシャン、となにかが割れた音がした。

「散らかりすぎだと思う」

その様子を見ていた弘美がツッコむ。

 弘美の座るソファだけでなく、デスクの上も乱雑に物が置かれている。

 床にも様々な荷物が散乱しており、はっきり言って汚い。

「うるさいな、掃除する暇がないんだよ」

徳海が言い返しながら、落ちたものを拾い出す。

 どうやらビーカーを割ったらしい。

「痛っ、切ったじゃないか」

徳海の手の、ビーカーの破片で切ったらしい傷口から血が滴り落ちる。

 その血の芳しさに、弘美はくらりと意識が揺れ、今まで感じたことない衝動に襲われる。

 ――なにこれ、いい匂い!

 それは弘美の今までの吸血鬼人生で、経験したことのない美味しそうな匂いのする血であった。

 ――臭くない、いい匂い、美味しそう!!

 こんな弘美の内心の絶叫も知らず、徳海は血を垂れ流す。

「ああくそ、止まらないし」

そう言って徳海は、部屋に備え付けてある小さな水道で傷口を洗う。

 だが水道水で洗ったくらいで、この芳しい匂いは薄れない。

 ――ああ飲みたい、あれを飲みたい、新鮮なままぐっとあおって、いや、直吸いしたい!

 弘美はその欲望に任せるままにふらりとソファから立ち上がった。

 その時、徳海がこちらを振り向いた。

「おいお前絆創膏かなにか……大丈夫か?」

「ふぇい?」

徳海がなにを言っているのか、弘美にはわからない。

 ただトロンとした目で、目の前の芳しい血の持ち主を見つめていた。

 ――ああ、その血を飲ませてえぇぇ!!

 その瞬間、弘美はきゅうっと頭に血が上っと感覚がしたかと思ったら、そのままバタンと後ろに倒れた。

「おい!?」

なんのことはない。弘美は初めての美味しそうな血に興奮して、意識が振りきれてしまったのだ。

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