その2

 それでも目の前の男性に保護されたことは事実である。

「ありがとうございますコーヒーください」

弘美はお礼を述べたつもりが、願望までが駄々漏れた。

 仕方ないのだ。先ほどからコーヒーのいい香りが、弘美の狼女譲りの無駄にいい鼻を刺激しているのだから。

「……ほらよ」

コーヒーメーカーから、もう一杯コーヒーを注いで弘美に渡してくれる。

「うーんいい香り」

香りを楽しんで口をつける。美味しい。

「おーいしーい!」

「そりゃよかった」

男性はコーヒーメーカーを片付けながら、おざなりに返事を返す。

 しかし、男性が手に持つコーヒー豆の袋に、見覚えがある。

 あれは弟がしつこくパソコンで見せていた、本日購入予定のコーヒー豆の袋ではないだろうか。

「ひょっとしてこれが、噂の理学部購買のコーヒー……!」

あれほどに求めていたものが、今弘美の手の中のカップにある。偶然の出会いに感動していると。

「なんだその、噂って」

男性がいぶかしげに聞いてきたので、弘美はごちそうになった礼に答えてやった。

「弟に頼まれたんですよ、理学部の購買で売られているオリジナルブレンドのコーヒーが、巷で人気だからって」

巷というより、クラスの女子に人気らしい。

『お姉さんの大学ってぇ、理学部でコーヒー売ってるんだよぉ。それが美味しいらしいんだぁ』

とか言われてスマホで情報を見せられた弟が、自慢するために欲しがったのだ。

 弟の自尊心のためにお姉ちゃんは行き倒れたのだぞと、帰ってから小一時間説教をしてやりたい。

 ちなみに女子の会話は弘美の勝手な妄想である。


 そんな話を語ってやると、男性はとても嫌そうな顔をした。

 結果だけ見れば女にいいようにパシらされている弟は、確かにどうかと思う。

 ちょっと休憩して美味しいコーヒーを飲んで活力が沸いた弘美は、活力があるうちに帰ることにした。

 そしてそのためには、問題がある。

「帰り道がわかりません」

なにせフラフラとここまで歩いてきたのだ、道順など憶えているはずもない。

「……面倒なの拾ったな」

愚痴る男性を拝んで、なんとか敷地の入り口まで送ってもらった。

 そして教えてもらった理学部購買だという場所は、確かに入り口すぐの校舎にデカデカと看板が建っていた。

 ――何故ここをスルーした、自分。

 弘美はちょっと前の自身に説教をしてやりたい。

「お世話になりました」

「もう来なくていいから」

深々と頭を下げる弘美に、男性はしっしっと追い払うように手を振った。

 弘美はこうして、無事に帰宅の途についたのだった。

 ――あ、結局コーヒー買ってない


それから弘美は無事に二度も行き倒れることなく、自宅まで帰り着くことができた。

 大学から自宅まで、最寄駅で電車で十五分の距離である。

「ただいまぁ」

弘美が玄関を開けると、そこには黒い毛皮が敷いてあった。

 弘美は迷うことなく、その毛皮を踏みつける。

「ぎゃん!なにすんだよアネキ!」

毛皮が文句を言ってきた。かと思えば、すっくと立ち上がった。

 毛皮ではなく、中身もちゃんとあったらしい。

 毛皮の形は全長が人間ほどの大きさの、見た目獰猛な犬である。

「おねーさまが大冒険を繰り広げたというのに、ずいぶん暢気だな弟よ」

「あ、コーヒー買ってきてくれた?」

黒くてでっかい犬っころが、尻尾をふりふりする。

「忘れた」

弘美は理学部購買の場所を教えてもらったものの、「へー」という感想だけで通り過ぎ、買い物を忘れていたのだ。

「えー、楽しみに待ってたのにぃ!」

弘美の返事に、とたんにお愛想で尻尾を振るのを止めてぶーたれる犬っころ。

 弘美はその尻尾をがっしと掴み、毛を編みこんでやった。

「ひでぇ!俺の尻尾!」

編みこみのせいでバッサバサになった尻尾を懸命に舐める姿に、弘美はゲシッと蹴りを入れる。

「暑苦しいんじゃ!玄関先で!」

「だってここが涼しいんだもんよ」

弘美の非難に、犬っころは悪びれもせず返した。

 この暑苦しい黒い毛皮の犬っころは、実は弘美の弟の但野康平(ただのこうへい)、狼男である。

 本人は狼の姿でいるのが楽らしく、家にいるときはこうやって獣姿でグータラしている。

 おかげで康平の獣姿を目撃したご近所さんからは、但野家では大きな黒い犬が飼われていると思われている。

 それをいいことに康平は、たまに獣姿で散歩に行ったりする。

 ご近所から大型犬を放し飼いしている常識外れと思われたらどうしてくれる。

 しかしそこは腐っても狼男、ご近所さんに見つかるようなヘマはしないらしい。

「コーヒーを買いに行ったばっかりに、お姉ちゃんは大変だったんだからな!」

コーヒーを買ってこなかったことを非難する康平に、弘美は本日の大冒険の詳細を、夕食のカップ麺を準備しつつ語ってやった。

 夕食がカップ麺な訳は、現在但野家の両親は仕事で海外に行っており、夕食を準備するのは弘美の役目だからだ。

 しかし弘美は本日行き倒れた女である。夕食の準備に割ける力が残っているわけもない。

 かといって手軽にパパッと作れる料理スキルは持ち合わせていない。

 なのでお湯を注ぐだけの簡単な夕食となった。


 弘美が行き倒れたいきさつを聞いた康平は、鼻で笑った。

「ばっかでぇ、アネキ」

夕食を待つ康平に、犬っころの姿で鼻で笑われると非常に腹が立つ。

「よし康平、キサマはドッグフードの刑だな」

弘美は康平のカップ麺をひっこめて、高級ドッグフードの袋をどん、とテーブルにのせる。

「ひでぇ、俺犬じゃねーし!」

ぎゃんぎゃん喚く康平を無視して、皿に高級ドッグフードをザラザラと流し入れる。

 何故こんなものがあるのかといえば。

『おたくのワンちゃんにどうぞ』

そんなセリフと共に、ご近所さんからおすそ分けをもらったからだ。

 ペットショップのくじ引きで当てたらしいが、生憎これは大型犬用。

 そこの家庭はチワワを飼ってるので、無用の長物らしい。

 ワンちゃんにどうぞということは、すなわちこれは康平のものなのだ。

「あ、意外と旨い……」

康平が好奇心でドッグフードを口にしたところ、なんと口にあったようだ。

 康平の味覚は犬寄りであるのだろう。

 後日ご近所さんにお礼を言っておこうと思う。


 夕食を終えると、康平をさっさと風呂へ入らせる。そうしないと家の中が獣臭くなるのだ。

 風呂は人型で入るのが、但野家のルールである。

 ちなみに康平は一度風呂を獣風呂にしてしまい、一晩天井から吊るしてやって以来、ちゃんと風呂は人の姿で入るようになった。

 犬と弟は躾が大事である。

 さらにちなみに普段犬っころ姿でうろつくのは、素っ裸であるということである。

 ――通常モードがマッパの弟って、なんか嫌だ。

 参考までに人型になった康平は、両親の遺伝子を遺憾なく発揮している美男子である。

「でもアネキ、お礼くらいしたら?」

風呂に入ってようやく人型になった康平が、そんなことを言ってくる。

「むぅ、お礼か」

確かに、そのまま放置されても文句は言えない身の上であるのに、彼はわざわざ研究棟の中へ入れてくれたのだ。

 あのまま放置だったら、干からびて昇天していたかもしれない。

「確かに、恩知らずだと思われたくはないな」

ここは一つ、コーヒーに合うコンビニスイーツでも差し入れするべきだろう。

 それが助けられた者の礼儀だ。そう弘美が頷いていると。

「そんでコーヒー買ってきてよ」

康平が冷凍庫からアイスをとって食べながら、そんな催促をする。

――しつこいぞ弟よ、さては女の子と約束したな?

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