第12話
法要といえば、葬儀一連、その後の七日日、年回忌などの年単位でのこと、命日などの月単位で行われること。
檀家からの依頼というと大体こんな感じである。
寺の本堂や催事場、檀家の仏間などで執り行われる。
しかし檀家以外からの依頼もある。
町内会や商店街などの主催による祭りでの法要などで、法道が戻ったときから住職と一緒に出勤していた種類のもの。
法道の寺でも、四代くらい前から頼まれている祭りの法要が三つほどある。
もちろん失敗はいけないことだが、法要の進行自体は法道にとっては朝飯前。
法話をしなくてもいい。いや、しない方がいい。
住職からそう言われた。
住職に付き添っていたときには、檀家での法要はいろんな話を聞けたのだが、祭りの法要では一切しない。
確かに神仏を祭っていはいるのだが、神仏中心に成り立っている行事ではなく町内会なり商店街なりを中心としている公の行事という印象があるからだ。
それと、町内会主催なら町内の住民全員。商店街なら、その経営者全員と来客全員が参列できる法要。だが全員が参列するのは稀。その割合が七割なら多い方。お話しをしても、それを一部の人しか聞くことができなくなるとそこに何かの違いが生まれるかもしれないということで、差別はない方がいいという住職の配慮から。
で、住職もだが、一人でこの法要を執り行うように言いつけられた法道も、檀家の法要よりもはるかにしんどい思いをする。
なぜかというと、屋外での法要であり、しかも肉声で読経しなければいけないからである。
住職と二人でお勤めしていた頃は、二人分の声量なのでさほど気にすることはなかったのだが、戻ってきて二年目くらいになってからは一人で任せられるようになった。お檀家さんとの交流が必要ないことと、法要の技量では文句なしだったから。
ところが一人で執り行うとなると難儀することになる。
会場の広さはまちまちだが、いずれも五十メートル四方を越える。
法道の声の大きさや声質は、寺に戻ってきたときからいい声だと評判だったが、そんな法道でもその会場に声を響かせるのは至難の業。終わった後はしばらく息切れ。控室で大の字になって仰向けになるほど体力を消耗する。その間約四十五分。
「お゛、終わったぁ……ぜぇ、ぜぇ」
「失礼します。田鳴さん、お疲れ……って大丈夫ですか?」
「あ゛~……こんな格好で失礼……う、動けねぇ……」
「どした?あ、田鳴、大丈夫かお前? つか、胸毛あるのな」
この年になれば、店を切り盛りする学生時代の同期もいる。
「体力……使うんでな……。つか、体毛関係ねぇ……」
「飲みもん持ってくら。おごってやるよ。あ、俺ここ引き受けるからお前ほか回ってくれ」
係りの者に声をかけて同期は一旦退室。すぐに冷たい飲み物を持ってくる。
「大丈夫か? しんどそうだな」
「俺がここでお勤めしてから二年くらい経つけど……。体力……落ちたか……」
「でもお前の声評判だぜ。近くの店の中にいる人にも聞こえてくるって言ってた」
「はぁ……はぁ……。俺の売りの一つだからな……。遠慮なくもらうわ」
法道は五百ミリリットルのペットボトルのドリンクを半分以上一気に飲み干す。
「っぷぅ。でもまぁ、ありがたがられるとこっちもまた張り切っちゃうからなぁ。はぁ、はぁ」
「お前の前は、お前の親父さんやってたんだろ? 親父さんよりいいって聞こえてくるしな」
「はぁ……はぁ……そう言われるとなおさらうれしいな。ところでもうちょっとこのままになってていいか?」
息切れは穏やかになったもののまだ収まらない。飲み終わった後も大の字になったまま。
「この部屋ずっと空いてるから体力回復するまでいていいぞ。帰るときに事務所に寄ってくれりゃいいから。でないと部屋片付けていいかどうかわからんしな。腹減ったりしたらコールしてくれ。なんか買ってきてやるよ」
さすがにそこまでは甘えられない。礼は言いつつ飲み物だけで十分なことを伝える。
体力を消費するまで主催者側は求めてはいないだろうが、この寺に頼んでよかったと思われるくらいの存在感は出したいと思っている法道が、法話を止められている自分にできることと言えば、せいぜい声くらいである。
檀家ではない人から褒められたり評判になるのも、気分は悪くない。
それに、悲しむ人のいない数少ない種類の法要である。それらほど気を遣う必要もなく、喜んでくれる人ばかりな上、檀家以外の知り合いの人とも気軽に触れ合える時間もある。
気晴らしにレジャーに行くことができないこの仕事。そんな気分にさせてくれるこの類の法要は、法道にとって解放的な気分に浸れる数少ない機会。
法道は自坊に戻り、十年くらいになっても住職も健在で、それなりに年を取った風貌だが仕事に対する姿勢に衰えは全く見えず、相変わらず檀家からも慕われている。
それでも一人で法要を任されることが多くなり、五年くらい経つとその割合はすべての仕事の半分くらいになっただろうか。
檀家から頼りにされることも多くなる。だが住職にはまだほど遠い。法要以外での経験が少ない上になかなか積むこともできないからだ。
住職に隠れながら書の勉強もした。塔婆に書く練習もする。
初めて塔婆に墨で書いたときは驚いた。
習字は何年も習った。一文字ずつ墨を筆に浸けて書く。ところが塔婆の素材は、分類上は木版。紙と同じつもりでゆっくり書くと、どんどん木に墨が吸い取られる感じになり、線がにじむことがある。
そうなると線が太くなる。本人は綺麗に書いたつもりでも、それを初めて見る人にとっては、何の字が書かれているのかわからないものに変わってしまう。
今では書くことはなくなったが、二メートルくらいの四角い柱のような墓標を墓に立てる風習があった。その柱四面すべてにいろいろ書き記されている。
もちろん住職も数多く書いてきた。しかし重いので、一面に書いた後に墓標をひっくり返す作業は一人ではできない。自分もそれを動かすのを手伝うため、住職が書き終わるまでその様子を見ながら待つこともあった。
墨を筆で書くことは、絵を描くことに似ている と法道は思っている。
字の一画目の位置は字によって違う。文字全体のどの位置から書き始めるか、字の全体像を頭に浮かびながら、線の長さももちろんのこと、太さ細さも考え、形さえ考えながら筆を運ばなければならない。
文字のバランス、文字列のバランス、文字と文字の間隔も考え、塔婆や墓標の中で文字列を終わらせる位置も、全体の構想に入れておく必要もある。
ちなみに墨がにじまない方法だが、黒板に書くチョークを薄く全体に塗る。
「こうすると木目に添って墨がにじむことが少ないんだ。覚えておけ」
と、住職からのアドバイス。だが彼にとってのその方面での課題は、住職のようにいかにも僧侶が書いたというような字になるまでに上達すること。法道の泣き所の一つなだけに、今でも悪戦苦闘している。
修行を終えて戻ってから十年も経つと、すべての檀家に法道のことは知れ渡っている。気心を知れるほど親しくなった檀家もいる。
「代が変わったら塔婆の字も変わります。変わった後の字を見てがっくりしないでください」
そう泣き言めいたことを言ったりもする。励ましてくれたり慰めてくれたりとさまざまな反応。
その分、別の方面で挽回せねばと気を引き締めると同時に、今よりもうちょっとだけ上達できればと普段からの書の練習も欠かさない。
そして新たに心がけることも増えた。
檀家に寄り添う、付き添う気持ちを常に持つこと。
しかし考えてみれば、日常の中で常日頃仏様や菩提寺のことを頭に浮かべてる人はそうはいない。
こっちが寄り添おうが付き添おうが、相手にも、そうされている実感がなければいくら頑張っても報われないこともある。
宗派の教義を説くよりも、日常の中で仏様や菩提寺を意識してもらうことが先かもしれないと法道は思う。
ただでさえ、難しそうなイメージがある。それを易しく柔らかくする役目は誰だろうと考える。
法道は住職に議論を持ちかけてみた。
わかりやすくなったなら、今までよりもっと仏様や先祖のご供養について考えながら生活でき。おそらくやがて、寺の意味があまり見出せなくなるときがくるだろう。
それこそ寺や僧侶の役目を果たし終えた とも言えるはず。転職についても考える必要があるぞ。
住職はそう笑いながら語ってくれた。
ほぼあり得ないわけだが、そうなったらどんな世の中になるだろうか。
でも、いつも和む毎日なら誰だっておくりたいじゃないか。
自分だってそうだ。
そのためには……
そのためには……
この仕事を全うするにあたりどのような姿勢で取り組むのか、次第に具体的な課題を自分から見出せるようになってきた。
そして今日も考え、悩みながら彼の一日は終わりを告げる。
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