第11話

 枕経のときに法道が二人の兄弟に絡まれた檀家、根槍家での葬儀一連の法要が無事に終わる。

 

 その後のお斎の席で、法道は住職と檀家とのやり取りの様子をずっと感じ取りたかったが、その願いは叶えられなかった。


 始まって最初のうちは、住職から法要や法話のコツなどを聞くことができたのだが、例の子供二人にまとわりつかれたのである。


 話ならいつでもできる。相手してやれ と目で言われる。料理に手を付けることができたのは帰る間際。

 子供たちが法道にじゃれつき、法道もそれに応えたり、法道がわかりやすく葬儀の話をしてそれを子供たちが熱心に聞いたり質問して来たり。それに気づいた母親が、ごゆっくり頂いてください と二人を連れて席に戻るが、それも長く続かない。

 また法道の元に駆け寄り、話をねだったり子供らの話に付き合ったり。

 ちょっと子供たち相手に疲れを感じて住職の方を見ると、住職は住職で飲み物を注ぎに来る人たちとの話に夢中になっている。


 子供たちの食事も気になり二人に聞くと、もうお腹いっぱいで食べられなくなって退屈したから一緒に遊びたいとねだられる。

 その騒ぎに気づいてまた母親がきて連れて行って、隙を見てまた子供たちがそばにきての繰り返し。



 母親は恐縮しているが、子供たちは実に楽しそう。

 小さい頃の思い出になってくれれば大人になった時に、あの和尚さんからこんな話をしてもらったなどと思い出話をしてくれるだろうか。

 おじいちゃんへの供養にも繋がるに違いない。


 しかしぼんやりとそんなことを考えてるヒマはない。

 もうじき帰る時間。そして空腹ということもあり、味わいながらも急いで頂く。



 帰る間際にダメ押しの一撃。

「またきてねー」

「いつくるのー」


 住職に聞け。次に来るときは七日日だ。お前らの相手は楽しかったけど、さすがに仕事の目的忘れそうだよ。

 そんなことを心の中でつぶやいた。


「三日後になるかな? 一人で行かせるから」

 と、法道が仰天するようなことを住職が言う。


 法道にとって初めて懐かれた檀家の五才と四才の子供の兄弟。

 その仲良しは、約二十年も経つ現在も続いているのだから縁というのは実に不思議で面白い。



 さてそれ以来法道は、自分から思いを表現することはなるべく控えた。

 相手の思いに応えるといっても、誰かに何かを説いて聞かせるほどの知恵も知識もない。

 とりあえず相手の話を聞くことぐらいが精一杯。そしてその聞いた話に、相手がどんな思いを持っているのかを考えて反応するくらいしかできない。


 だがそれくらいなら彼でもできるということ。

 自分にできることが増えた気がした法道は、次の檀家での仕事にもこれくらいならできる、やれるという手ごたえを感じ始める。

 沈んでいた彼にとっては好転し始めたような気がしたが、傍から見ると実はやっていることはこれまでとそんなに変わりはなかったりする。気の持ち方一つで事態の受け止め方も変わる。

 

 だがそれでも様子が変わったように感じる檀家もいる。そんな檀家からはさらに好意的に感じられることが多くなった。

 

 しかし相手のことをわかろうと努力を始めた法道は、いろんな課題や考えることを自分で多くして、その答えを出すまでに時間がかかってしまうことになる。



 経験の数をこなしていくと、似たようなケースが増えてくる。


 似た環境の檀家二軒の話。

 どちらも老齢で亡くなられたおじいさん。最後まで元気で家族と仲が良かった。しかも遺族も数多く、どちらも遺族内での仲がいい。

「遺産なんてないから遺産相続争いなんて全く縁がないから仲がいいんだよ」と異口同音。


 だが

 片方では亡くなられたときは悲しみに暮れている遺族。

 もう片方は、長生きできたねぇ と、悲しみながらも喜んでいる家族。


 こっちは悲しんでいる。こっちは喜んでいる。

 なんだろう?この違いは。


 後の方の檀家には、前の方の檀家のことは話題にしなかった。檀家同士での交流や共通の知り合いはなかったようだから、お互いに比較されることもなかった。

 だからこそ、一人で考え込む。本人たちに直接聞くほどデリカシーに欠けてはいない。


 まず、悲しい思いをどうしたいかを考えた。

 悲しいということは、辛い事情があったから。でもその事情は、本当につらいことなのか? と思い直す。

 無力と思ってた法道でも、自分に何かを成し遂げることができた。その何かは、ずっと前からやれてたことでもあった。

 同じように、物事の受け止め方によっては、その悲しみを乗り越えることができるのではないか。乗り越えた人は、同じ境遇の人に寄り添うことができるのではないか と考える。

 

 うれしい思いを持つこと。ありがたさを感じること。

 そうやって人は支え合い、世代を繋いできたのだ。



 このようなことを考えずとも、この世での永遠の別れの際に感じる悲しみを、昔から人は乗り越えてきたはず。 

 

 法道はこれまで読んだ様々の本の中からそのヒントを探す。

 人が亡くなるときに悲しみ、そして人が亡くなるときに喜ぶ、うれしく思う物語。


 誰かが亡くなるときに喜ぶ人がいるというのも不謹慎。

 ならばどういうときに喜ぶか。


 あのときの母親は、自分の子供の応対で喜んでくれた。母親はそれにありがたいと思ったから喜んだ。


 喜ぶってのは表情の一つだな。いわゆる喜怒哀楽の一つ。それらが表に出る前に、心に何か作用が働く。その作用がありがたいという気持ち。


 気持ちという作用から生まれる表情。じゃあ気持ちはどこから生まれるか。

 自分の望みを果たしたり、自分の思いが叶ったりしたときだ。


 そのように結論を出した法道は、思いが叶って亡くなる話は何かなかったかと記憶を手繰る。



 忠臣蔵があったな。主君は無念の思いを持ちながら切腹。家臣たちはその無念を晴らして切腹。



 無念の思いを持ちながら死んでから、家臣たちの仇討ちの話が始まった。それが有名な話になり、今も語られる。


 誰かが死んで、縁のある人たちの色濃い人生がそこから始まるのか。

 望み通りの結果を出して、満足して死んでいった縁ある人たち。その後の話はあまり語られない。途中に数々のドラマがあったからそれに比べればドラマの数が減っていれば注目もされないか。


 ヒントを見つけたような気がした。


 すべての人に力づけるとは限らないだろうが、ただ悲しみに暮れるよりは前を向こうとする努力だけでもしてほしい。

 してほしいと思うのは誰か。決して大切な人を亡くした人ではないと法道は断定する。


 亡くなった人が、ずっと悲しんでばかりの遺族を見てどう思うだろうか。

 自分がこの世からいなくなっても、遺されたみんなが互いに手を取り合って次の時代に向かって進んでほしい と思うのではないだろうか。


 亡くなった後も心配かけないように、亡くなった人を元気づけてあげられるように。

 元気になってほしい人がいても、応援する人が元気じゃなければ何もしてあげられない。


 そうやって遺った者同士で毎日を繰り返す。その毎日の単位が年になり、年が時代になり世代になり、歴史が刻まれる。

 大げさかもしれないが、歴史を作る小さな一歩。その一歩を大切にするという解釈にもできるよな と法道はそのための理由を考えた。



 葬儀一連の法要は、まだほとんど住職と一緒である。次の自分一人での葬儀の予定は決まっていない。けれど法道の次の課題は、考え込んで出てきたこの結論までの流れを、自分の出番になるまできちんとまとめることに変わった。


 ちょっとくらいは坊さんらしくなってきたかな?

そんなことを思いながら、日付が変わった時計を見ながら眠りについた。




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