第6話 こころの底に沈むもの
これはいつからか、毎日のように見る夢。
僕は傷を負ったクジラに掴まって、少しずつ海の底に沈んでいく。
底にはなにがあるのだろう。遠すぎてなにも見えないが、わずかに光っているような気がする。
毎夜のように、僕たちは少しずつ、少しずつ沈んでいく。
クジラは死んでいるのだろうか。もうずっと動く気配がない。
だけど、クジラに寄り添っているだけで、僕は不思議と安心する。
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「20分も遅刻ですよ。ミゾイさん」
いつものずれた眼鏡に、整える気の無い長い髪、おそらく乾いた洗濯物を上から順に取ってきたであろうシワのついた服を着た女性。
「あぁマシタさん、おはよう」
僕は勤怠チェックに記入しながら彼女に挨拶する。
「聞いてくださいよ!昨日の夜センパイにDJやるからってクラブに誘われてたんですけど、先方からの急な仕様変更対応で行けなくなったんですよ!そして明け方にやっとローンチされて、帰って風呂に入って息つく暇もなく出勤ですよ!寝かせて!」
「……うん、朝からテンション高いね。僕低血圧だからちょっとごめん」
「なに言ってるんですか!遅刻してくるような人間は罰を受けるべきなんです!話を聞いてもらいますよ!私は昨日また新たな出会いを逃したのかもしれないんですから!」
「罰なのかよ……」
マシタさんは僕と同期で入社した新人webプログラマーだ。僕たちは中小企業で下請けの仕事を、時に眠らず、時に婚期を犠牲にしてせっせとこなしている。
彼女と僕は対照的な性格をしている。明るくひと懐っこくて着飾らない彼女に対し、僕はあまり喋らず、体裁を気にする方だ。そんなところが同僚たちに気に入られたのか、僕たちはよくコンビのように扱われている。
18時を回り、終業のアナウンスが流れる。最もアナウンス通りに帰れるものはほとんどいないが、僕は案件に一区切りがつき、帰り支度を始めた。
「ミゾイさーーん!」
「……なに?手伝わないよ」
「んなことはわかってますよ!明日飲みに行きませんか?」
「え?誰と?」
「サシですよ!どうです?」
僕はオーケーと返事をして退社した。
彼女と二人で飲むのは初めてだ。もちろん、何か相談事なり頼みごとなりあるのだろうけれど、僕の心は少し浮ついた。
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その夜も、
クジラはずっと目を閉じたままだ。
やはり死んでいるのだろうか。
海の底は相変わらず見えないが、薄く光る底には、きっと何かがあるという期待があった。
いつかきっと、あそこへ辿り着けるのだ。いや、辿り着けなくてもいい。こうしている、この夢が、僕の安らかな世界だ。
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今朝は遅刻せずに出社できたが、何やら社内がざわざわとしていた。
「どうしました?」
「ミゾイ、マシタが……」
死んだ、と聞かされた。
駅のホームから転落したらしいが、原因は分かっておらず、自殺と他殺の両方の可能性を調べているそうだ。
マシタの両親は多額の借金を背負っており、マシタはその返済のために少し危険な副業をやっていたという噂が立っていた。昨日の誘いは、その相談だったのかもしれないな、と僕は思った。
人が一人死んでも仕事は回り続ける。明日の葬式も、きっと近しい同僚たちが少し顔を出して終わり。次の日からはマシタはいなかったかのように僕たちは働くのだ。
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いつものクジラの夢。
だけど今日は少し違っていた。
傷を負ったクジラから呼吸が感じられる。
クジラはゆっくりと目を開き、僕を見つめる。
そして、突然その巨体を大きく動かし、僕を振り払い、水面の方へと泳いで行く。
「置いていかないでくれ」と、僕が彼女の名前を呼ぶ声は、きっと届かなかった。
僕は何もない暗い海に一人で居る。
海の底の光は、僕一人ではもう見ることはできない。
ゆっくりと、僕の体は水面へ向かって浮上して行くのだろう。
そこでまた、会えるかもしれない。
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