第2話 通風孔
私はしがない中小企業の会社に努めるウェブデザイナーである。
なんだかスタイリッシュな名前の役職だけど、実態は地道な細かい作業の繰り返し、俗にいうIT土方というやつである。
毎日サービス残業上等、ボーナス制度なし、顧客が無理を言い仲介役のディレクターが何も考えずに要求をのみ、作業量にもお給料にも常にしわ寄せがやってくる。そんな底辺のお仕事。
今日もディレクターがニコニコしながらやってくる。
「サカモトさーん。」
私の名前である。
この顔はマズい顔だ。無理難題をさらっと押し付けられる。
「すみません、ちょっと今から席を外しますので。」
私は即座に逃げようとする。
「大丈夫、3分で話が終わるから。」
捕まった。終わった。私は蜘蛛の巣に絡めとられた羽虫。
話はこうだった。というか説明は優に30分は超えていた。デザイナーがこの世で一番信用してはいけない職業、それがディレクターだ。
脱線した。話はこうだった。
大規模な新規企画の案件を担当するデザイナーがデザインを進めていた。
顧客内では伝達がうまくいっておらず、要求が2転3転。
納期はガチ押し。顧客の機嫌もよろしくない。
デザイナーはバックレた。
その案件を引き継いでほしい。ちなみにデザイン図は明日までに上げてほしい。
「なるほどよくあるこの世の終わりですね。」
自分のスケジュール管理が甘いことには触れないんですね、と喉まで出かかったが、コーヒーと一緒にグッと飲み込んだ。
「ハハハ、そうなんだよ。困ってるんだ。」
目が笑ってない。さすがである。
「わかりました。引き継ぎ資料ください。」
仕方がない、それが私の仕事なのだから。
終電の時刻に近づき、ぼちぼちと同僚が帰り始める。
「サカモト、今日は徹夜?」
先輩デザイナーが帰り支度をしながら聞いてきた。
「はい。」
私は生返事でカチカチと手を動かす。一分一秒でも惜しい。早く帰って寝たい。明日の昼くらいまでには。
「真夜中に職場で一人って怖くない?俺あれがすごく怖いんだけど。」
ちょいちょいと私の頭の上の方を指さす。
「あれって?」
私は好奇心に負けて手を止め指さす方向を見た。
そこには大きな通風孔があった。
マンホールくらいの大きさがあり、網の目が粗く、通風孔の中まで良く見える。
へえ、こんなのあったんだ。気づかなかったな。
薄気味悪く、確かに怖いような気がする。例えば――
「ここから何かが覗いてたら怖くない?」
そう、幽霊とか、妖怪とか、獣とか……
考えて背筋がぞくりとした。
「ちょ、やめてくださいよ。今からか弱い乙女が泊まり込み作業なんですよ」
「ハハハ」
先輩は笑う。その顔はやつれている。睡眠不足なのだろう。
それを見ると私は怒りも失せて、もう、とつぶやいて作業に戻った。
深夜。
作業は一向に進まない。
今日渡されたものを明日までに仕上げるなんて、尋常じゃないやっつけ作業である。
それでも何とか形にしなければならない。私は一応プロという名目なのだから。
ふと、先輩の言葉を思い出し、通風孔を意識する。
何もいるはずはないけど、なんとなく視線を上げられない。
先輩の声が思い起こされる。
「ここから何かが覗いてたら怖くない?」
そう、幽霊とか、妖怪とか、獣とか、……人間とか。
ふいに頭上から刺さるような視線を感じ、私の作業の手が止まる。
何かいる――
いや、そんなはずはない。
私は再び作業を始める。
たとえ何かがいたとしても、私は上を向くことはできない。
私は作業の手を休めることはできない。
恐怖で気絶することはできない。
なぜなら納期は明日までなのだから。
どのくらい時間が経っただろうか。
空が白み始め、作業も終わりが見えてきた。
視線はいつの間にか感じなくなっていた。きっと私の勘違いだろう。
私は伸びをする。そしてふと通風孔が視界に入る。
そこにはたくさんの私がいた。
通風孔の枠をつかみ。髪の毛は乱れ、私を見下ろし、その姿はさながら囚人だった。
通風孔の私は口を開き、か細く繰り返す。
「かえりたい。」「ねむりたい。」「やすみたい。」
そうか。
私は得心した。これは毎日私が捨てている私だ。
人間がこんなに機械のように働けるわけがないのだ。
私は毎日この通風孔に本来の私を捨てて、自分を刷新していたのだった。
私は通風孔の私を哀れに思った。でも――
「仕方がないね。」
視線を戻し再び作業に取り掛かる。
それが私の仕事だから。
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