今はまだ名前がない

ゆとり

第1話 寝床に立つ足

それを見たのが1週間前。

夜ふと目を覚ますと、足が2本、ぼんやりと床に立っていた。


別段恐ろしさは感じなかった。それは自分の妄想の産物であると知っていたから。


--


僕が精神の病になったのは一年前。よくある働き詰めの末、幻覚が見えるようになったというやつだ。


会社というのは雑なもので、使えなくなったものはまさにゴミ屑のように捨てる。幸い僕の実家は少し生活に余裕があったため、そこで療養生活を送るようになった。


はじめの頃はたくさんの目に見つめられり、虫の羽音が一晩中聞こえたり、そんな幻覚に毎日悩まされていたが、一年も経つとそんな症状も治まってきた。


不思議なもので、人は病気を患うと、自分の周りのもののことがよくわかるようになる。人はどうやら弱いものの前では無防備に本性をさらしてしまうらしい。


僕は多くの友人に失望し、病状が治まってきた頃にはほとんどひとりきりの状態だった。

だが、不思議と心は軽く、いままでの重荷を下ろせた気分だった。


ひとりでいい。ひとりは自由で、寂しさすらも青空に吸い込まれるように消えていく。


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足はただそこに立っていた。

こちらに近寄るでもなく、すうっと消えるわけでもなかった。


僕はそのまま眠ってしまった。


次の日、夜中にまたふと目が覚め、昨日の場所を見やると、またそこには足が佇んでいた。


すっと伸びた2本の足。膝小僧から上はなく

、マネキンのようにつるんとしているが、足先は紛れもなく人間を思わせるようなリアルな造形だった。


次の日も、また次の日も同じように足は現れた。

そのうちに僕は、足を愛おしく思うようになった。

近寄るでも消えるでも遠ざかるでもなく、ただそこにいる2本の足。


そうして1週間が経ち、今日も足は現れた。僕はぼうっとしながら足に「ねえ」と語りかけた。


するとなんと、足は小さく一歩だけ、こちらに歩んできたのだ。


僕の足を思う愛おしい心は一変した。

こちらへ踏み入られる恐怖、憎悪。

僕はとっさに「来るな!」と叫んだ。

足はすっと後退し、闇の中に消えていった。


その日から足は現れなくなった。


足が僕の妄想であるなら。


僕は他者を求めていた。しかし、もはや他者の意思を受け入れられず、ひとりでしかいられない自分になってしまった。僕はひどく悲しんだ。


もう二度と足が現れることはないだろう。

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