第1話

私は大人しい女の子だった。今でも根本的なところは変わっていないと思う。


私は神奈川県の私立小学校に通っていた。その小学校のランドセルは男女共通で指定の紺色のランドセルで、入学する前に私は赤色のランドセルではないことに駄々をこねて泣いた記憶がある。だけど通ってしまえば慣れてしまうもので、ランドセルの色なんてものを気にすることはなくなった。


それよりも私が気にするようになったのは、男子の存在だった。


毎日外に出て遊んでは泥だらけになって帰って来る、時には掴みあいの喧嘩すらする、放課後の掃除をサボって遊び始める男子たちは、当時の私にとって未知の生き物だった。本ばかり読む女の子だった私は、同い年の女の子とお話することはあっても、男子と話すことなんて皆無だった。


そして小学校3年の時に、誕生日に買ってもらったヘアピンを似合ってないと馬鹿にされ、何もしていないのに筆箱を隠されたという経験が、私の中で男子が未知の生き物から恐怖の生き物へと変わる原因となった。


アキラくんは小学校4年の時に私と同じクラスになった男の子で、隣の席に座っていた。その時、アキラくんは私の読んでいた本をじっと眺めていた(何の本だったかは覚えていない)。


この時アキラくんは私の事を見ていたのか、それとも私が読んでいた本を見ていたのかは定かではない。問題はそこではなかった。


この時、私は恐怖に震えていた。本の内容なんて頭の中に入るわけがない。男子がこちらを見ている、この事実だけで私は涙が出るほど怖かった。何を言われるんだろうか、バカにされるのか、私はただ本を読んでいるだけなのに…。


そんなふうに私が冷や汗をかいているうちに、アキラくんは私に声をかけた。

「それ面白い?」

何と答えればよいのだろう、この時私は素直に正直な感想を答える気は毛頭なく、突然の男子からの言葉に脳内処理が追い付かず、「あ…」とか「えっと…」とか声にならないような声を出して、必死に本で顔を隠していた。


「名前、なんていうの?」

私は本当に小さな声で、自分の名前を口にした。

「俺ね、アキラっていうの、瀬良アキラ。

せら、って言いにくいよな」


この時、私は初めてアキラくんの姿をしっかりと見た。少し長めの黒髪は寝癖ではねていて、目が大きくて女の子みたいな顔をしていて、あまり日焼けをしていない。青色のシャツ、少し大きめのカーキ色のズボンがよく似合っている。身長は、他の男の子よりも少し大きいくらい。


「ミツキちゃんは本が好きなの?」

私は声を出さず、頷いた。アキラくんは笑った。

「俺もね、本好きだよ。あ、でも読むのは漫画だけど…。ミツキちゃんは漫画読む?」

「…あ、あんまり…」

漫画は『漫画伝記本』でしか読んだことが無かった。当時、私が専ら愛読していたのはお料理シリーズという、主人公の女の子が不思議な国に誘われて料理で周囲の人々を笑顔にしていくというファンタジー本だった。


「俺ね、漫画ばっかり読んでるからお母さんに怒られちゃってさ。だから、文字ばっかりの本を読もうと思ったんだけど、なんか全然頭に入ってこないんだ。」

「…む、無理に読もうとするからだと思う…。」

「そうだよな、やっぱそうだよな。」


驚くことに、私は男子と言葉を交わしていた。これは私にとって大事件だ。だけど不思議なことに、アキラくんと話している時は、私は自然と話すことが出来たし、怖いと思うこともなかった。


アキラくんは明るくて、クラスの人気者だった。勉強もよくできた。友達も多くて、休み時間はサッカーをしたりなんかして遊んでいた。だから私がアキラくんとお話できたのは、授業の合間合間の休み時間くらいだった。


だけどアキラくんはクラスの他の男子みたいに下品なことを大きな声で言ったりしないし、掃除だってサボらない、掴み合いの喧嘩だってしない。教室の中では村人Aみたいな存在であった私の話をちゃんと聞いてくれる男の子だった。そして好きな漫画の話になると顔が明るくなって、熱心に喋ってくれた。


この時の私は男子と会話するというより、アキラくんだから会話をしている。そんな感覚だったと思う。実際に、アキラくん以外の男子は変わらず苦手だったし、話しかけられても言葉に詰まってしまったからだ。


それからアキラくんは昼休みになっても私と本の話をしてくれるようになった。私は小説、アキラくんは漫画を中心に、お互いが面白いと思った本を貸し借りして、読んだ感想を話したりノートに書いていこうという事になった。


私は初めは些か緊張していたけれど、だんだんきちんと話せるようになって、そのうちアキラくんと話をすることだけを毎日の楽しみにするようになった。


本以外の話のこともお話するようになると、アキラくんは家で飼ってるペロという犬の話をするようになった。あとは大好きなサッカーの話、ピーマンが苦手なこと。そして、アキラくんには弟がいて、今は病気で入院しているという話もしてくれた。


「ばあちゃんが住んでる場所は空気がキレーで、都会にいるよりも、病気が治りやすいんだって。だから弟とは別々に暮らしてるんだよ。」


弟の話をしている時のアキラくんは寂しそうだった。私は寂しそうな顔をする彼を見たくなくて、必死に励ました。その度に、アキラくんは「ありがとう」と言って笑ってくれた。


アキラくんは、他の男の事は違う。

彼が私の中で特別な存在になるのに、そう時間はかからなかった。



夏休み前のことだった。

アキラくんから初めて家に誘われた。

正しくは、アキラくんの家ではなく、彼の祖母の家だったけれど。


「夏休みさ、ばあちゃん家においでよ。電車で行けるし、弟も本が好きだし、ばあちゃん優しいからきっと良いって言ってくれると思う!」


天にも昇る気持ちだった。

私は家に帰って早速準備をした。今考えると相当気が早かったと思う。


私が真っ先に用意したのは、アキラくんと弟に読ませてあげたい本と、私の好きな本。問題はお金だった。電車ですぐ行けるとはいえ、当時の私のお小遣いは僅かに残ったお年玉だけだった。お母さんに、電車に乗ってお友達の家に行きたいと話をしたら、お小遣いをくれた。あとは、約束の日を待つだけだ。


夏休みになって、約束の日まで本当に長い日々だった。

アキラくんの弟って、どんな子かな。アキラくんに似てるのかな。どんな本が好きかな。食べ物は?空気がキレイってどんなだろう…。私はいろんなことを想像しては、期待に胸を膨らませていた。



約束の日、私が目覚ましが鳴るよりも早く起きると、お母さんがお弁当を作ってくれていた。そして、お友達と家族の人に迷惑をかけないこと、ちゃんと夕方までには帰ってくることを約束して、私は家を出た。気持ちのいいよく晴れた朝だった。


約束は駅の花壇の前に10時。私は走って待ち合わせ場所にやって来た。

まだアキラくんは来ていないみたいだ。私は花壇の前でぴっと背筋を伸ばし、だけど忙しなく周囲を見回しては、アキラくんの姿を探した。


約束の10時になっても、アキラくんは来なかった。

リュックの中には数冊の本と、お弁当が入っていたので、荷物はそれなりに重かった。だんだん肩が痛くなってきて、足が疲れてきて、私はその場に座り込んだ。


お昼になって、駅の時計の音楽が鳴った。私はお腹が鳴って、仕方なくお弁当を開けた。本当はアキラくんと一緒に食べたかったけど、仕方がない。お母さんが作ってくれた大好物のオムライスを食べながら、私はアキラくんが来るのを待っていた。


時間は刻々と過ぎていった。

アキラくんはまだ来ない。


もしかして、日にちを間違えたのかな?

確認しようにも、私はアキラくんの連絡先を何も知らなかった。

携帯なんて持っていないし、電話番号も知らない。ましてや家がどこにあるのかも知らない。私は思った以上にアキラくんのことを知らなかった。


ただ一つ分かることは、アキラくんは絶対に約束を破ったりする子なんかじゃないということだ。


もしかしたら、あと少ししたら、もうちょっとで来る。

暑いけど、このくらい全然大丈夫。水筒の中のお茶を少しずつ飲みながら、私は日陰でずっとアキラくんを待った。いつの間にか私は眠ってしまっていた。


目が覚めた時、私の傍に警察の人がいた。私が吃驚して固まったまま動けずにいたところに、お母さんとお姉ちゃんが私を探しに来た。


お母さんは私の頬を一回叩いて、それからぎゅうっと抱きしめて、泣いていたことを今でも覚えている。お姉ちゃんはお母さんの代わりに私を怒っていた。

「バカ」とか「心配かけんな」とか、そんな言葉を延々と繰り返した。


私はお母さんやお姉ちゃんが泣いているのを見て、泣いてしまった。何だかとんでもないことをしてしまった事に気が付いて、私も悲しくなって、わんわん泣いてしまった。


だけどアキラくんが来なかったこと。

それが私は何より悲しくて、泣いていたと思う。


「アキラくんはどうして来なかったんだろう?」


私は夏休みの間中、ずっとその事ばかりを考えていた。


絶対何か理由があるはずだし、私に意地悪をしようとしたわけじゃない。

一度、勇気を振り絞って電話をかけてみたが、アキラくんは出なかった。


もしかしたら、忙しいのかもしれない。

夏休みが終わったら、アキラくんに聞いてみよう。



そこから先も、また長い日々が続いた。

夏休みが早く終わってほしいと思うことなんて、人生の最初で最後のことだと思う。


そして長い長い夏休みが終わって、始業式の日。



先生の話で、アキラくんが転校して、この町からいなくなっていたことを知った。

アキラくんは何も言わないまま、私の目の前から姿を消した。



アキラくんを探そうと思えば、何らかの手段はあったはずだ。

だけど私は何もしなかった。

あの時来なかった理由も、何も話してくれなかった理由も、気になることはたくさんあったけれど、直接聞くのが怖かったのだと思う。



これが、私の初恋の記憶の全てだ。

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初恋をのせて 榎本みふね @mifune509

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