第5話
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数学の授業中、ノートの隅に落書きをした。小さいイルカ、そしてボール。たびたび夢で聴こえる音波のような声の数々は、どうしようもないわからなさだけを植え付けていく悪魔のささやきみたいなものだ。
イルカは泳ぎ、会話する。彼らにしかわからない言葉を使って。言葉や絵というものは、使う人、受け取る人のあいだに共通の認識がなければ成立しない。何をいうのか、何を描くのかは、そもそも表現するということに理解がなければ成り立たないのだ。けれど私がそれを知らないのであれば、受け取る機能を持っていても噛み砕けないのなら。
「それはただのノイズ」
教室の右隅で何かをつぶやいても、誰かに伝わることはない。学校の改築のお知らせや時間割、掃除当番の表などが貼られている掲示板が右目に見えて、その少し後ろには扉がある。これだけ雑多な世界に飛び込めば、私は誰とも結びつけられることなく生きていけるのかなと思う。空白に満たされた隣の席を横目で見ていると、自身もないものとしてこの空間に飲み込まれていきそうだ。上履きのつま先をもう片方の足でギュッと踏んでみても、宙に浮いたような不安感は拭いきれない。
銀色のシャーペンで、イルカショーなどで使うような宙吊りにされたボールを塗りつぶしながら、少し考える。
でも結局はわからないから、わからない。あまりにも単純すぎる構図が、今はどうしようもなく難しい。
さながら解説書の解説書が必要になりそうなこの状況は、スピーカーから強烈に鳴らされるチャイムの音によって打開された。もしこのまま誰もいない机のさらに向こう側、秋に染まる校庭の森を眺めていたら、底なし沼に溺れることになっていたかもしれない。実際にはいくつかの人の頭が邪魔しているから、窓の向こう側は見えないけれど。とにかく、思考をめちゃくちゃにするような爆音も、今だけは味方だった。
そう、ここのチャイムは設定を間違えているんじゃないかと思わずにはいられないほど、酷くうるさい。施設やシステムを継ぎ足しては謎の改造を加えて、ギリギリで私たちの時代を生きているようなこの校舎では、こんな不具合が頻繁に起きる。
生徒はもちろん、先生だって知らないような教室や施設が、それなりと残っているらしい。あの教会みたいな建物も相当昔に建てられたらしいが、私はあまりそう思わなかった。綺麗すぎるのだ、不自然に。
他にも水の出ない噴水や、裏庭の馬小屋、二つある音楽室など、七不思議を作るには全く困らない環境だけどそんな話を聞いたことはない。慣れてしまったせいなのだろうか。何かに興味を持つことに飽きた先の結果、誰も違和感を話すことはない。この学校にいる以上、私もその一部なのかもしれないと、漠然とそう思う。
「朝奈、授業終わってるよ」
結局私が授業時間に出来たことは、いびつなビーチボールを描くことだけ。
「……何その落書き、ちょっと塗りすぎだけど可愛いね」
センちゃんがいれば私もここにいられるというのは、わがままかもしれない。シャーペンを私から取り上げて、オリジナルキャラを編み出そうと奮闘している彼女と私は、どこまでも他人だったから。
「センちゃん、絵だけは上手くないよね」
「独創性を履き違えてると、よく言われるよ……」
イルカのようなフォルムをしながらも、筋肉質な足が生えていて頭にはチューリップが咲いている。あまりにも荒唐無稽なその物体を生み出した張本人は長い髪を振りまきながら苦悶の表情。おかしくて、たまらなくて。
「ちょ、ちょっと待って、わらっちゃうから、フフッ」
「角あった方がいい?」
「もう、それイルカじゃないよ……」
「いるかの声を聴け」
答えはまだ出ていない。けれど直視しなくちゃいけないことがあるのはわかっている。風が私たちのスカートを揺らし、蹴り上げられたかのように土の匂いが地面から昇ってくる。校舎をただひたすらに歩いてみたいの、とセンちゃんに提案したらあっさりと承諾され、二人で裏庭の前にいた。
「いるかの声を聴け、なんてうわさ話はない、そう私は思っているの」
少し逡巡するようなそぶりを見せた後、手で影遊びをしながら彼女が答えてくれる。
「やっぱりわかっちゃうんだ……夕さんから聞いたの?」
枯れかけた草木に護られるようにそびえ立つ教会が扉の向こう側にある。私はなんとなく、彼女の手の影に私を重ねた。
「ううん。でも、言いたいことはわかるから」
わかってない、全然。でもわからないということがわかっている、それが私の思考だということも。
「今日は姉さんがいないから、ここに行こうと思って」
しばらく黙り込んだ後、そういって笑いかけようとしたときに、首筋に氷を当てられたような感覚が、私の身を駆けめぐった。どこまでも冷たい、深淵を覗いてしまったような深い絶望の宿る瞳が私を見ている。お母さんがいなくなったとき、お母さんだったものを見ていた夕のもの。
「ねぇ、本当に行くの?」
勘のいいセンちゃんだから、何かが起こったのは気づいているのだろう。その言葉が不安から出るものなのか、私を心配してのものなのかはともかく、彼女の存在というのは非常に大きい。
「私は私だもの、大丈夫」
そう言って、動揺を悟られないように一歩前へ踏み出して、メッキが剥がれた鉄製の扉をそっと引いた。
開くとそこは、想像していたのとは大きくことなっていた。綺麗に並べられた長椅子が二列、正面には木でできた机が一つだけ置かれている。特に何かを崇めるようなものはなくて、ただの寂れた集会場のような景観だった。椅子に彫られた校章には傷一つなくて、不気味なほどな潔癖さをたたえている。
「ここ、教会じゃなかったんだねぇ」
間延びした声をあげるセンちゃんを尻目に、私は真正面に置いてある机のところにまで歩く。革靴が擦れて、床を踏みしめるときに鳴る音がエコーのように響き渡る。一つ一つ音を確かめながら、また一歩と歩く私には、「歩いているということ」の感覚が薄れているのがよくわかった。
この建物が強調しているのは歩くことではなくて、その反響だ。
「このお花は……睡蓮? ドライフラワーかな」
自由気ままに歩いて回る彼女の足音は聴こえず、あるのは私の、私の……私の革靴? これが?
ゴツンと台にぶつかる音がして、私が端っこまできたのだと気づく。雲間から降り注ぐかすかな夕日が正面のガラスを突き抜けて、淡くオレンジ色に室内を染めていた。一段だけ高くなったその中央に置いてある机に近づくと、光にちらつくいくつかの落書きが見える。
「これ、いるか……私の描いたのと同じ!」
昼間教室で書いたものが、そこには彫られていた。削られてから時間が経っているのか、机に馴染んでしまったそのシルエットは、確かに私が描いたものと同じだった。
どういうこと?
いや、わかってる。こんなことをする人は、
他ならぬ私しかいないと。
「ねぇ、旋花。私の名前、わかるよね?」
低い声が、この建物に溶けていく。
「そりゃ決まっているよ、朝――」
その見開かれた瞳は、夕の髪飾りを確認するように、私の頭周りを泳いでいる。
「朝?」
私は待つ。仲道旋花は涙をこらえるように手のひらをぎゅっと握りしめたままだ。
やがて彼女が零した一つの言葉が、他ならぬ私たちの祈りを成就させる一言だった。
「わからないよ、渡瀬さん」
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