第4話

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 冬服に切り替わってまだあまり経っていないから、手首に当たる袖のはしっこが気になってしまう。誰かと手を繋いでいれば、そういう心配はないんだけれど。一人で歩く物悲しさには、まだ慣れない。

 昨日姉さんと走った通学路は妙に静かで、白と茶色で彩られたレンガ調の街道が冷たく感じる。ローファーを履いていて、一つ足を前に置くだけでコツッとよく響く音に、誰も返事はしようとしない。家を出る直前に「今日は休みたいの」と言い放った姉さんの顔を見ておけばよかったなと思いながら、その表情を知りたくはない。私は恐れていた。彼女と私の差異を。

「朝奈、今日は一人なの?」

 いつの間にか隣を歩いていたセンちゃんを見上げる。彼女は履き心地のいい革靴を履いているようで、私のとは全然違う音を地面と鳴らす。背が私よりも高くて気さくな彼女は、視線に気づいて軽くはにかむ。

「夕さんがいないなんて、珍しいね」

 昨日お昼を一緒に食べた後、いつの間にか保健室で寝ていた私を気遣う様子はなかった。まるで昨日のことを覚えていなかったかのように、いつも通り無意味に仲良くしてくれる、普段通りのセンちゃんだった。他愛のない会話をしながらも、どこか霞がかったこのときを不安に感じる。少なくとも不明確な記憶を私は持っているのに、彼女はどうして何も言ってくれないのか、それだけをわかりたかった。

「センちゃん、時間」

 時計を見ずに私がそういうと、急にピタリと立ち止まって革靴のつま先で二回地面を叩いて、

「今日ぐらいは遅れてもいいんじゃない?」

 と笑いながら諭してくる。肩に手を添えられた馴れ馴れしい仕草は慣れっこではあったけど、温かみで心の距離を騙されている気もした。

 でも、まっすぐ風が吹き抜ける街道に響くその言葉は、不思議と魅力的な感じがしてしまう。顔が朱に染まるような感覚がして、私は彼女と目を合わせないまま足を進めた。

 

 そうしなきゃいけないと聞かされてきた物事の本質を、あまり深く考えることはない。でも「どうして」という言葉は、遅刻をいけないものだとして捉えてしまうその心を、少しだけ柔らかくしてくれる。右肩に感じる温かさを、右手でぎゅっと握りしめた。

 学校前に来ても人はほとんどなく、錆びれた鉄が鈍く光を返す校門が、ただ私たちを迎えるだけだった。

「今日は高科先生がいないのを知っていたの?」

 先行くセンちゃんと立ち止まる私の位置を結びつけていた手は解かれて、つながりを失う。

「あれ、昨日朝奈が言ったんじゃない。明日は誰も校門にいないと思うよって」

「そんなこと……」

 言った覚えがないけれど、果たして本当にそうだろうか。センちゃんと仲良くなってから習慣化した屋上での昼食で、私は記憶を飛ばしてしまった。夕がそこにはいなくて、私だけがいたはずなのに。でもそんなことを知っているのは疑いようもなく夕で、だってそれはあの教会めいた建物の中には高科先生がいて、たまに掃除をするのを手伝っていると夕から話を聞いたことがあるからで。

「大丈夫?」

 距離を詰めて私の顔を覗き込む、傷一つないビー玉のような眼球を潤ませたくはなかったから。

「あ、うん。言ったかもしれない、そういうこと」

 誰のためなのかわからない嘘を、乾いたグラウンドの土ぼこりを眺めながらつぶやいた。


「仲道さんと……渡瀬……朝奈さんね! 」

 高科先生の元に、音楽の授業が終わった後に話しかけた。私の名前を思い出して嬉しそうにしているが、指をこすり合わせてもいい音は響かなかった。代わりにセンちゃんが上手に鳴らし、クラスメイトが数人残った室内に広がる。

 音楽室は校舎の端っこのほうにあって、足を一歩踏み込めば平気で床が軋む音がするし、白かったはずの壁は黒い汚れが目立っている。前に姉さんと一緒に見たから覚えているが、手形のようなかたちのもあった。センちゃんの友達が言っていたことを思い出した。

「あれさ、音楽室に閉じ込められた人がいて、次の日壊れた扉を見て驚いた教師が中に入ると、そこには誰もいなくてただ壁に手形がいくつか残されていたって……」

 わざと声を暗く、震わせて喋る佐橋さん(という名前だったはずだ)と笑うセンちゃんを見ながら、だから音楽室は扉だけ綺麗なんだと思った。実際、今の音楽室は私たちの教室と同じつくりのスライドドアだ。ドアだけ現代で、扉の向こうには歴史が広がっている。私がつま先に力を込めたから、下からギィッと音がした。


「あの教会、誰か来たりします?」

 センちゃんが穏やかな表情で聞いた。複雑な感情を抱えているはずなのに、おくびにも出さないからすごい。

 私が見上げると先生はしばらく思案するようなそぶりを見せて

「私は趣味で、ああいう所を綺麗に掃除するのが好きなんだけど、だから気味悪がられるのかもしれないけど、あそこは本当に不思議な場所なのよ」

 と答えてくれた。

 いまいち生徒に人気が出ないのは、行動云々よりも、この関係ないことを語りたがる癖にあるのかもしれない。顔立ちは決して悪くないから余計にそう思う。四十歳に近い高科先生は几帳面な性格なのもあるだろうけど、控えめな化粧をしている。ただ1つ面白いのは、目の力強さが完全にその姿と対立していて、複雑な顔になっちゃっていることか。

「あの、私の姉を見たことはありますか?」

「夕ちゃんのこと? そうそう、あの子は面白い性格をしているのね! なにも喋っていないのに、顔を合わせているだけで言いたいことがわかっちゃうような感じがして」

 センちゃんがわざとらしく両手を広げてみせる。肩に乗っかっていた髪の毛が滑り落ちて、音を静かに奏でるようになびく。教室にはもうほとんど人がいない。

 ――いるかの声を聴けって噂は知ってますか。

 言葉が出る前に、意味がわかることなんてあるんだろうか。イルカが鳴き続けても私は可愛いとは思うだろうけど、理解できるわけじゃない。

 ――うーん、そうねぇ。夕ちゃんが、教会の向かいにある古びた噴水のことを好きと言ってたのは覚えているんだけど。

 姉さんが話したところで、私が話したところで、みんなの反応は同じだった。渡瀬さん、変わってるね……って。

 ――噴水の一番上に付いているのがイルカなんでしたっけ。

 お母さんが死ぬのと、七年を経て一月を懸命に生きたセミが死ぬのとは、一体どう違うんだろう。悲しみの重さなんて、あるの?

 ――私はそれを知っている。見たんだもの。

 ――本当に?


「センちゃん……と渡瀬さん、そろそろ次の授業になっちゃうよ」

 誰かの声で視界がぐんと戻ってくる。

「じゃあ先生、ありがとうございました。朝奈、大丈夫?」

 顔が青ざめているよ、と心配してくれるセンちゃんに精一杯の笑顔を返しながら、意識は外にあった。いつの間にか話は終わっていたようだ。

 秋風が窓ガラスを叩いても、閉められているから吹き抜けることはできなくて。短いはずの毛髪が、私の首を絡めとるようにべたついていた。

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