第3話
***
心なしか体が暖かい。包まれているような、そういう感じ。ゆっくりと目を開けてみると、白っぽいクロスで塗りつぶされた天井が見えた。清潔すぎるぐらいにしわ一つ目立たないかけ布団を乗せられて、ここはベッドの中だった。
いつもなら、保健室には小野寺先生がいる。たまに私の話しを聞いてくれるいい人。清潔な雰囲気を大事にしていて、白衣がいつも真っ白だった。けれどあごひげだけは伸ばしている、どういうイメージでいきたいのかあまり定まっていないようでおかしかった。
校舎が去年増設されてからは新しい場所に保健室は移されて、「木の香りは全然なくて、ペンキ臭いだけなんですよね、ここは」と苦笑していたのを覚えている。
彼は私たちを苗字で呼ぶ。話し相手が姉妹のどちらであるのかは、よくわかっていないのかもしれない。
「目が覚めた?」
頭だけ動かして視界をずらすと、誰かが椅子に座っている。髪飾りのおかげで、ぼやけた視界でも誰だかわかる。
「姉さん」
彼女がうんうんと頷くたびに、長く綺麗に切り揃えられた黒髪が揺れる。隙間からたまに角が見えているのが不気味だった。この部屋には誰もいないのかな。
「センちゃんが、ごめんなさいって言っていたよ」
もっとうわさ話について聞こうと思ったらチャイムがなった所までは覚えているけど、私はいつここにきたのだろう。
「今は五時半、帰れる?」
わからない、そう言おうとしたけど頭に霧がかかったように言葉が見つからないので、代わりに頷く。
「そう」
それだけを言って微笑むまでにあった少しの間で、じゃあ待つわと言ってくれた気がした。何も言わずともわかるでしょ? と伝えるように、言葉を発せずただ首を傾げるだけの仕草に少し救われる。そしてまた、姉さんは手元の本に目を移した。あれには見覚えがある。おととい散々書店を連れまわされた挙句に「ネットって便利よね」と次の日言い放った事件の元凶の本が半分ぐらいまで進んでいる。
……一体、いつから寝ていたの? 頭のなかに溜め込まれた落ち葉みたいな疑問の山は、一体いつ木枯らしに吹き飛ばされるんだろう。何かを気にするわけでもなく、ただ淡々とページをめくる音を響かせる姉さん。白い指がひとつページを進めるたびに、どうにも落ち着いていられない。耳鳴りがする。鼓膜を圧迫するかのように、音とは知覚できないものが私を責める。この奇妙な苦痛がある限り、自分を見失えずに済むけれど、頭をバラバラにされそうだ。
「案外独特な音波で交流しているのかもね、人間も。いるかみたいに」
ああ、やっぱり知っているんだ、センちゃんと話したことの内容を。それを認識した途端、耳鳴りは止み、代わりにとても眠くなってきた。ずっとこの状態だと思考がかすんでしまうから、また目を閉じてしまおう。私をどこかになくさないうちに。
どれくらいの時間がすぎたのかは、そもそも基準がないからわからない。ただ、もう一回目を開けたら姉さんが座ったままの姿勢で寝ていたものだから、起こしたほうがいいのか困ってしまう。カーディガンの右ポケットを探ると硬めの感触がした。引っ張りだしてディスプレイを確認すると着信メールの文字。いつも通りパターンを入力してロックを解除し、受信メールのフォルダを指でつつく。差出人はお父さんだった。「二人がいないので、ご飯作りました。いつ帰ってくるの?」と力の抜けるような緩い文面。右上に表示されたデジタル時計は今が18:28なのを知らせてくれた。
「姉さん、起きてよ。お父さんが寂しがってる」
ベッドから片足を垂らして、上履きの場所を調べると、つま先にゴムが引っかかる。青色で先端が染まった上履きを、左手人差し指をそっとかかとに差し込んで履く。そうやって足を手に入れた私は、姉さんの肩を叩く。刺激にビクッと反応して、ゆっくりとまぶたを開ける姉さん。蛍光灯の光をほのかに反射して、つややかに髪の毛が光っている。長髪には、こういうお淑やかさを演出してくれる効果もあるのだろうか。
「あぁ、ごめんなさい……帰ろうね」
「うん、ごめんね」
「私が謝って、朝奈も謝ったらどっちが悪いのかわからないよ」
「いい。責任が宙ぶらりんになっていれば、浮かんでいる間は考えなくていいから」
何で先生が来なかったのかはわからない。いや、姉さんに私のことを任してくれたのかもしれない。「姉妹だけでいるほうが、きっといいと思うんですよ」という感じで。
いや、それはどうだっていい。ピカピカに磨かれたタイルにうっすら浮かび上がった顔は、人であるのかすら定かでない。ただひとつ実感しているのは、ずっと繋がれた右手に汗の感触がしていることだけ。
「ただいま」
鍵を差し込んで回している間に、ちょっと早めに姉さんがいう。
「まだドア開けてないよ」
「庭に入ったらもう帰ってきた気分になるよね? ただいまのタイミングなんてどこでも一緒だよ」
「そうかな」
「人間の扱う言葉なんて、曖昧なものだから」
時々姉さんの言っていることがわからない。それは内容以前の問題で、どういう立ち位置で喋っているのかが全く読み取れないからだ。言葉を小馬鹿にしたような発言をしているけど、おかしい。だって、彼女も人間だから、言葉を使って考えるはずなのに。
「そうなのかな」
黒いローファーを脱ぎ捨てて現れるのは黒い靴下。自分の靴の方向を整えてから、ひっくり返っている夕の靴をそっとつまむ。かかとのすり減り具合が、このあいだ整頓したときよりも進んでいた。
私の中で姉さんを消化できないときは、心のなかで夕と呼んでいるのが癖になっていた。何かきっかけはあったけど、あまり覚えていない。急いでリビングへ向かおうとしたために犠牲になった几帳面さを埋め合わせるように、そっと私の隣にくっつけて置いた。
「おかえりー」
妙に間延びした声のお父さんと、もう食卓に付いている姉さんが私を迎えてくれた。入ったときに感じた焼き魚の匂いをかき分けて、ソファーの上にカバンを置く。だいぶ汚れてしまった白いるかのキーホルダーが、姉さんのカバンに乗る。
「綺麗にしなくていいの? それ」
頬杖つきながらこっちを見ている姉さんの横を通りすぎて定位置に座る。正面にお父さん、その隣はもう十年近く空席のまま。誰かが気にしたって仕方がない、けど忽然と存在する事実。
「今日は帰りが遅かったけど、何か用事でもあった?」
「朝奈が五時限目の時に貧血で具合悪くなっちゃったから、保健室でやすんでいたの。放課後になってても寝てたから一緒にいたんだけど……」
「姉さんも寝ちゃったんだよね」
横槍をいれて、「まぁそうなんだけど」と姉さんがくすぐったそうにしながらお茶を濁すのを笑う。でも、思考は別のところにいた。五時限目に私は具合悪くなったって、そんな記憶持ち合わせていない。センちゃんとお昼は一緒だった、でもそのあとは……
「もう体調は大丈夫なのか?」
姉妹の中間地点に視線を向けながらお父さんが聞いてくる。
「朝奈」
本当に私たちを見ているのかわからないのに、私の名前を呼んでくる。後ろにかけられたアンティークの時計が何時を指しているかは定かじゃないけど、秒針が動いているから時間はある。何も言わずにサラダを取り分けている姉さんの箸が奏でる音だけが空間に広がっていて、やっぱり私がどこにいるか確かめるためのものは蜃気楼の中に紛らわされている気がする。
「十分すぎるぐらい休んだから大丈夫だよ」
自分がちゃんと笑えているのか判断するには、誰かの視点がなきゃ駄目で、少なくともお父さんの表情では測れなかった。
「トマトは……いる?」
「あ、うん。お願い」
「そう」
姉さんが好きで私が嫌いなトマトが、紫蘭をあしらった皿に置かれた。それを箸でつまみながらイルカの声を想像する。あの哺乳類が出す音波を、人が聞き取れるわけもないのに。限りなくノイズであるはずの言語を想像するのは無理なことだし、聴こえるのを望むのは無謀だし台無しになる可能性も大きいけれど、誰もが成功を欲しがっているわけじゃないんだ。目指せるだけで、十分幸せなときはある。
姉さんにも、私にも夢があった。自分というのをあんまり持っていない時期でも、そこだけには違いがあったと思う。今ではイメージの残骸が脳にこびりついているだけなんだけど、なにかと一緒にいた記憶がある。手を振りかざし大声をあげる私を包むように見守ってくれたのは、はたして誰だったか。
二年前からわけられた私たちの部屋。分解した二段ベッドに寝そべりながら、額縁の中のお母さんを指でなぞった先に見える、短めに揃えられた髪型に親近感を覚える。軽くパーマがかかっていて内側に巻いているから同じとはいえないけど、少しでも繋がりが欲しかった。五歳のときに姉さんの目の前で轢かれ、なぜか私が看取ったお母さん。死を目の当たりにしてむせび泣いたのは、姉さん。命を託されたのは、私。
「なにを怖がっているの……夕」
枯葉も吹き飛ばせないぐらい少量の息で言葉をこぼす。独りでいれば思考はどこまでも自由で、悲しみにどこまでも溺れながら自尊心を満たせる。けれど、姉さんは。私にとっての悪魔だから。
お風呂が沸いたからと姉妹を呼ぶお父さんの声が、階下からどこまで響きわたろうとも答えるつもりはなかった。涙を拭うために伸ばした右手の人差指を正常に見ることができないのは、網膜に水分が張り付いているからなのか、私が失われそうだからなのかはわからない。
――わからない。
――答えが見つからなくても、悪ではないでしょ?
――思考を奪われたら、何が残るの
――人形じゃない?
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