第2話 喜来島

 織宮天那おりみやてなにとって今日は人生初の船旅だ。順風満帆、前途洋々。紺碧の海路と蒼天に恵まれ旅の解放感を全身に受けていた。それは数分前のこと。

 現在は、町のコンクリートにはあり得ない上下左右の揺れによって意気消沈としている。

「うぅ…船ってこんなに揺れるの?追いかける前に酔い止め飲んどけばよかった…なんであの二人は元気なの…」

 いっそ船から飛び降りて泳いで帰ってしまおうかと本気で考えはじめるほど。

 暴れる胃を押さえ、船縁に隠れるようにしてもたれる天那の視線の先には一組の男女がいる。仲睦まじく海風に吹かれている様子はまるで恋人のようだ。

 そう考えると意識せずとも眉間にしわがよる。焦燥感のような、孤独のような。迷子になったときに感じる不安のような、そんなもの。

 一際大きく船が揺れ、それとともに天那の胃も一回転どころか二回転ぐらいしたかもしれない。胸の奥からせりあがるものに耐えきれず、隠れていたところから飛び出し船縁から頭を突き出した。

 天那の乗る船の行き先は太平洋上にある喜来島きらいじまという孤島である。漁村と山からなる島は観光地化しておらず、乗船客は10名ほど、ほとんどが島へ帰る老人ばかりで、天那を含めた3名はかなり浮いていた。

 そこで行われる秘された祭を観るために天那は船に隠れて乗り込んだのである。けっして先程の男女、しかも男は天那の知り合いだ、その二人きりで島に行くことに煩悶を抱いたからではない。あくまでも目的は祭である。

 その祭は島に代々伝わる伝説を元にした伝統芸能らしい。その名も喜来きらい鬼舞おにまい。島の巫女であるテンニョサマと鬼が舞う。鬼といってもお化けの鬼ではない。島の権力を握る二つの家の一つ、鬼頭きとう家が鬼の役をする。もう一つの神衣じんえ家がテンニョサマを祀る巫女の家系であるらしい。

 青い顔で口許をぬぐった天那は自分に近付く二人に気付かず、振り向いとたん額の衝撃にのけ反り目を白黒させた。思わず身構えた先にはニヤニヤと笑う男と苦笑する美女。天那が隠れて追ってきた二人だった。

 慌てて帽子で顔を隠そうとしたがそれより早く男にそれを奪われ、長い赤毛がこぼれ落ちる。それに美女が目を見開き、天那の青い目が男を睨み付けた。

「リュウ!帽子返して!」

「本当に付いてきやがって、このマッチ頭」

「マッチ言うな!このチェシャネコ!」

 軽快なやり取りを目の当たりにした美女は二人の顔を交互に見比べる。

 天那の日本人離れした赤毛と、口角を吊り上げて笑う男。

「まさにマッチとチェシャネコね」

「違う!」

 二人の息の合った返答に肩をすくめたのは小説家の菅原弥生、そしてニヤニヤと笑う男は探偵事務所を持つ式辺リュウだ。

 天那はリュウから帽子を奪い取ると上目遣いに問いかける。

「いつから気付いてたの?一回も目は合わなかったのに」

「店の窓ってのは以外と後ろまで見えるんだよ。特にいかにも尾行してますみたいなマッチ頭はな」

「まど…っじゃあ最初から?私が船酔いで人生最大の危機に陥ってたのに、ニヤニヤ笑ってたの⁉」

 羞恥やら怒りやらで悶えていると、弥生がその赤くなった顔を無理やり自分へ向けさせる。

「彼から聞いたけれど本当に見事な赤毛ね。目も海より青いわ。お祖父さんがイギリス人だったかしら」

 めずらしい生き物を前にしたかのように面白がって天那をなでくりまわす弥生の背後に島が見えてきた。一際高い山の斜面に大きな日本家屋が2つあり、その下に小さな町が扇状に広がっている。どこにでもある普通の漁村の姿。

 自分のことを話の種にされた天那は不機嫌を隠さずリュウを睨むと、彼は口角を吊り上げ、目を半月よりも細めて笑う。

「ちょうどいいだろ。これから行く島には赤毛の鬼がいるんだからな」





 むかしむかし、島に真っ赤な頭の鬼がやって来ました。鬼は島人をいじめ、畑を荒らし、人を食べてしまいました。困った島の人々は、島で一番高い山に住むテンニョサマに助けを求めました。悲しむ島人たちにテンニョサマは頷き、悪い鬼を見つけるため山を降りました。鬼は昼間は眠り夜に島中を走り回ります。夜を待つためテンニョサマは泉で水浴びをしていました。その日はたまたま鬼が起きていて、水浴びをする彼女の美しさを気に入ってしまい、つい木にかかっていた衣を盗んでしまいました。水浴びを終えたテンニョサマは衣がなくなっていることに気付き困ってしまいました。裸では山を歩けません。テンニョサマは恥ずかしさと衣を盗られた悲しさからさめざめと泣いてしまいました。それを木陰から見ていた鬼は、彼女の涙を見ていると島人たちの涙を思い出し、自分が大変なことをしてしまったことがわかりました。鬼は木陰から出てテンニョサマに衣を返しました。そして島人たちに謝るため、島の広場で舞いました。やがてテンニョサマの子孫は神衣と、赤毛の鬼の子孫は鬼頭と名乗り、島をいつまでも守っているのです。



「これがこの島に伝わる赤毛の鬼の伝説だっぺよぉ。詳しいのはおれの奥さんに聞いてくれ」

 歯を剥き出しにして笑う鬼頭康二には前歯が一本無かった。

 鏡のように顔が映るちゃぶ台の上には湯飲みが四つ湯気を立て、天那たち三人の前にはそれぞれお茶請けが山盛りになってる。船を降りて康二と会い、港から山の斜面にある鬼頭のお屋敷に来たときには既にいまの位置に湯飲みが置かれていた。天那は自分のことをここの人がいつ知ったのか首をかしげながらぬるい茶をすする。

「めずらしい異人来訪譚ですね。鬼と天女の組み合わせもあまり聞かないわ」

「おれは入り婿であんまり詳しくは知らんのよ。ただ今のは神衣に伝わってるもんで鬼頭はまた違うんだなあ。こっちの方が優しいってか、耳障りがいいんでねぇ」

 弥生と康二が難しい話しをしている横では、リュウが聞いているのかいないのかよくわからない顔で煎餅を食べている。天那の前には空になった包装紙が山積みで、大きく開かれた障子から入った潮風がそれを崩した。

 ここ喜来島は島の半分を占める山のすそに町が扇状に広がっている。その背後に立つ天女山の中腹あたりにここ鬼頭家が、さらに斜め上には神衣家の屋敷が町を見下ろすかのように鎮座している。

 町の向こうに広がる眩しい青に引き寄せられるように窓辺から身を乗り出すと、頭上から太鼓と笛の音がした。上体をひねって斜め上を見上げれば、屋根の向こうにここよりさらに大きいお屋敷が見えた。あれが神衣家だろうか。

「滑り落ちないよう気を付けろよ、マッチ頭」

「マッチ言うな裾を掴むな!あれが神衣さんの家かな。おっきいねえお庭も縁側も。時代劇のセットみたい…」

 さらに身を乗り出したとき支えにしていた肘が窓枠から滑り落ちた。勢いよく回転する視界のなかで何かが光る。だがそれは一瞬のことで、リュウに強く腕を引かれ屋内へ転がった。弥生が慌てて天那を抱き起こす。

「び、びっくりしたぁ…」

「だから言ったんだ。おまえの身代わりになった奴に感謝しとけよ」

「大丈夫です先生。みがわりってなんのこと?」

 窓枠から下を眺めるリュウの肩をしっかりつかんでからおそるおそる視線をなぞって行くと、吹き上げる風にのる帽子が林の中へ落ちるところだった。バランスを崩した際に上着のポケットから落ちたのだろう。鬼頭家の屋敷から少し上方あたりに風にのって行ってしまった。

「ああっ!ち、ちょっと私、身代わり回収してきます!」

「屋敷から出んなら、この近くの泉でテンニョサマがミソギをしてるんで近づかんようになぁ」

「ミソハギ?」

 弾丸の如く飛び出しかけた天那は急停止した。

「御祓な。テンニョサマが祭で舞うための準備をしてるのよぉ」

「林の中で?なにをしてるんですか?」

「うぅんそりゃちょっとぉ…」

 好奇心で青い目を輝かせる天那に対し康二は歯切れ悪く頭を掻く。

 助け船を出したのは弥生だ。文章を書く仕事をしている彼女がこの島に来たのは、この島をもっと広く知ってもらいたいという一部の島民が雑誌に掛け合って、たまたまそこにいたのが弥生だったのだ。日本の伝統を取り扱う雑誌としては秘された祭は魅力的な題材でだったのである。

「御祓というのはね、神事を行うものがケガレを落とす行為よ。これをちゃんとしないと祭に参加出来なくなってしまうの。それにこういうものは一般の人が目にしてはいけない一種のタブーだから、注連縄の張られたあたりには近寄らない方がいいわね」

 弥生の言葉は天那にとって異国語のように聞こえたが、取り敢えず見るのは行けないことだとはわかったので早めに戻ると言って部屋を出た。

「あいつそのミソギとやらがどんなものかも聞かず出ていったぞ。大丈夫なのか?」

 リュウの一言にその場にいる3人は顔を見合わせる。微妙な空気のなか、3人は林へと駆けていく赤毛を見送った。



 特に確認もせず飛び出してしまった天那は屋敷との位置を計りながら見当をつけ歩いていく。頭上を覆う枝葉からの木漏れ日で斑模様の小道を進むと、前方に腰くらいの高さの藪が見えた。妙なのは自然に生えたというより、きれいに刈り込まれ柵のように左右にそれが伸びていること。そして雷のような形に切られた白い紙が付いていることだ。

 藪の向こうにはまた林があり、そのさらに奥でなにかがきらめいている。ゆらゆらとゆれるそれは先ほど屋敷で見えた輝きだろうか。この先になにがあるのか、見たい知りたいと好奇心がふくれあがる。天那は帽子のことを忘れ藪を乗り越え奥へと進んだ。

 天那は気付かなかった。乗り越えた薮の間に倒れた木の看板があったことに。そこにはかすれた文字でこう書かれていた。『コノサキテンニョサマノイズミシマビトハイルベカラズ』

 そして天那は天女と出逢った。これが事件の始まりだった。










「はじめまして。かわいい赤毛の鬼さん」

「おに…?」

 魅いられたかのように動けない天那の方へ天女が来る。近づくほど透けた肌に目を奪われる。

「あなたは私の衣を盗らないの?」

 睫毛の奥からしっとりと濡れた瞳が見上げてくる。白魚の指、桜貝の爪。小説で見た文句そのままの手が頬に触れる。氷のように冷たい。

「ころも、服?そんな盗らないよ。それより寒そうだからなにか着た方が…」

 季節はもう秋だ。海から吹いてくる風は林の中でも冷たく、自身の上着を半ば脱ぎそれを天女の肩にかけようと伸ばした腕を背後から捕まれた。

「…どこから来た?」

 低い声に振り返ると暗褐色の頭が目にとまった。背後の木陰から現れたかのよう。まったく気配を感じさせない同い年くらいの少年だ。スポーツ刈りの赤毛は天那のものより黒みがかっている。紺色の甚平のようなものを着た彼は髪よりも暗い瞳で睨みつけてくる。

「那由太、乱暴しないで。島の外から来た赤毛の鬼よ。歓迎しなくちゃ。御殿へ連れていきましょう」

 そう言って天女は泉からあがった。すかさず那由太と呼ばれた少年が白い布を渡すとそれを肩からまとう。その姿はまさしく羽衣を纏った天女。

 泉を背に立つ天女に目を奪われていた天那は那由太にこずかれた。

「…その頭、地毛?」

「そうだよ。おじいちゃんがイギリス人で、その遺伝なんだって。えーと、君もそう?」

 那由太は答えずただじっと天那を見つめる。

「これから御殿へ行く。ついてこい。それと…あんまり、テンニョサマには近付くな」

 それだけ言うと彼は泉の縁に沿って進む天女を追いかけていってしまった。

「やっぱりあの子は天女なんだ…待って、ゴテンて何?私も付いていっていいの?」

 二人の背に向かって走る天那の頭にはすでに帽子のことはきれいに吹っ飛んでいた。

 泉の反対側には細い道が伸び、それを抜けるとさらに細い石の階段が山の斜面に沿って現れる。それはほとんど傾斜が無く見上げた先には朱が剥げた鳥居のようなものが見えた。

 先を行く二人はすいすいと登っていくが天那はほとんど這いつくばるようにして進んだ。手すりもなく縁が丸くすり減っているので気を抜くと滑り落ちそうだ。時折響く情けない悲鳴を聞きかねたのか、那由太が唇をへの字にして手を貸してくれるがそれでも怖いものは怖い。

 やっとこさ登りきるころには天那は汗だくになっていた。鳥居の向こうには石畳の道が続いて、その先には立派な日本家屋があり、整えられた庭のそこかしこに彼岸花が咲き誇っている。振り返れば鬼頭家で見たものよりもさらに美しい海景色。下から吹き上げてくる風が汗ばんだ肌に心地好い。そこから視線を少し下げると、日光をはじく屋根瓦があり、あそこが鬼頭家だろうかと手をかざすと、そのさらに下にも屋根瓦が見えた。首を傾げて背後の日本家屋だと思った建物をよくよく見ると、家にしては窓もなく木造のそれ。

「神社…?え、ここはどこ?」

「御殿。テンニョサマの住むところ」

 簡潔に答えると那由太はさっさと天那を置いて行こうとするので慌てて追いかける。

「テンニョサマの御祓を見たからには罰を受けてもらわなきゃならない。しばらくそこで正座でもしてて」

 罰、と聞いて震えがあった天那は砂利の敷かれたその場へ膝を折ろうとする。そこへ那由太がどこからか持ってきたござを敷いたのでその上におとなしく正座をした。それでも脛にくい込む石が痛かった。

 御殿から一段下がったそこで一人ぽつんと慣れない体勢と細かい痛みに耐える。聞こえるのは遠くから届くさざ波と木々の葉擦れ。ぼんやりと大福のように膨れた雲を眺めていると、御殿の奥がにわかに騒々しくなった。

 荒々しい足音といくつかの声が近づいてくる。いったい何事かと肩を強ばらせていると、回廊の端から着物すがたの女が現れた。

「だからこの時期に外の人間を招くことに反対したのです!どう責任を取るおつもりですか鬼頭さん!」

 薄鼠色の着物に藍色の帯をしめた40代ほどの女だ。こちらを睨むつりあがった目の奥で光るものがあった。天那は学校の生活指導の先生を思い出す。窓がびりびり震えるほど怒鳴る先生と同じ目だ。噴火の前触れだ。

「まあまあ神衣さんよう、織宮さんだってわざとじゃなし、ほれああやって反省もしとる」

 女、神衣早奈子の背後で鬼頭康二が苦笑しながら声をかける。庭で正座をする天那に目を向いたが痛そうに目をつぶった。にっと笑う口元から欠けた前歯が見えた。その珍妙な表情からなにも受け取れなかった天那だが、康二の背後から覗くリュウのにやにや笑いからははっきりと感じとるものがあった。その手に自分の帽子があることに首をかしげたが、そういえばこの場にいる原因はあれだったといまさら思い出す。

 いまだ頭上では口論が続いている。それに自分が関わっているのはわかるが、いい加減に足が限界だった。七転八倒、石の上にも三年、地獄の苦しみなどなど、言葉が脳内で渦巻きそれちょっと違うと訂正する余裕も無くなってきたその時。

「忌々しい、赤毛の鬼め」

 耳に飛び込んで来た冷えた声に天那は息が詰まる。

 恐る恐る視線を上げて後悔した。そこにあったのは一言では言い表せない、怒りや軽蔑、あらゆる負の感情をまぜこぜにした表情。教科書で見た般若の面のようだ。

 やってはいけないことをしてしまったのだと改めて思う。だが自分のしたことといえば水浴びをしている天女を見ただけだ。それのいったいなにがいけなかったのか。

 一人困惑する天那に助け船を出したのは弥生だった。

「ちゃんと説明しなかったのが悪かったわね。康二さんの言ってたミソギというのは、泉でケガレを落とすことなの。ようするに行水ね。テナちゃんは泉で水浴びをする女の子を見たのでしょう?彼女がこの島のテンニョサマ。島人でさえめったに見ない、島の信仰そのものなの」

 信仰そのもの。あのきれいな、同い年くらいの少女が。

「御祓は神事、つまり祭りね、それを行う前にケガレを落とす神聖な行為で、見られてしまうことをタブーとする、大事なことだからね。この島に住む人なら絶対に見てはいけない禁忌をあなたは見てしまったの」

 タブー、禁忌。普段生活しているときには耳にしない言葉にどうも現実味を感じられない。見てはいけないものを見てしまったなら、なぜ天女は怒らなかったのだろうか。

弥生にそのことを聞いてもらおうと口を開いたが、奥から響いてきた鈴の音に全員が廊下の奥に視線を向けると、鈴を揺らす那由太に手を引かれ、天女が姿を現した。

「ねえ、お母様。今年の鬼舞の儀に彼女も参加してもらいましょう。万里の代わりとして」

 緋那子の静かな問いかけになぜか早奈子は異様に肩をはねさせた。強ばった顔はまるでなにかを恐れているかのよう。いったいどうしたのか。

 「祭の時期に来た赤毛の鬼を、私はもてなしたい」

 その笑顔は天女もかくや、見たことのないほど美しいもので、天那たちはつい見惚れてしまう。康二は口を空けたままだ。

 なのに早奈子は相変わらず険しい顔を崩さない。やっぱり家族は見慣れているんだろうか。

 「…わかりました。その子の参加を認めましょう。ただし祭は今日の夕方、あと半日もありませんよ。それでも重要な役割をこなす覚悟はありますか?赤毛のお嬢さん」

 まるで矢みたいな眼光に、はじめて視線に物理的なものを感じた。痛いどころか穴が空いたんじゃないかとおもうほど。

 「やってみます。運動神経には自信があるので!こうみえて反復横飛びは得意です!」

「ロボットダンスしかできないマッチ頭にできるのか?」

 ダンスは苦手だが動きを覚えるのは早いと言われたことがある。さっき緋那子は那由太の動きをまねするだけと言っていた。それを信じよう。にやにやと笑うリュウにまぜっかえされたが無視して元気いっぱいに返事をした。

「じゃあさっそく練習をしなきゃ。ついてきて」

 緋那子はとろけるような笑みを浮かべると音をたてずに早奈子を振り返った。有無を言わさないその微笑みはどこか人間離れしている。リュウは目をすがめながら母と娘を観察した。

 その間に那由太に引っ張り起こされた天那は、痺れた足をなんとか引きずって緋那子を追いかけて行ってしまった。

 御殿の奥へと去る子供たちを見送った大人組は何故かほっと息をついた。無意識のうちに緊張していたのか弥生は固まった首を軽く回してから早奈子の方へと向き直った。

「あの子が神衣緋那子さんですか。あなたの一人娘の」

「鬼頭さん、部外者に軽々しく私たちのことを話されては困ります。それと彼女はもう娘ではありません。この島のテンニョサマです!」

早奈子は吐き捨てるように言うと肩をいからせながら御殿を出ていった。

肩をすくめた康二は苦笑しながら振り返る。

「すみませんねぇ、彼女は神衣家と立派な伝統を大事にしてるんでぇ…」

「立派な伝統、ねえ」

 リュウはぐるりと辺りを見渡す。朱塗りの剥げた鳥居、なかば朽ちかけた柱。御殿は遠目で見ればそれは立派だが、近くで見るとどこか古ぼけた、時間に置いていかれたかのような寂しい雰囲気が漂っていた。





 天那は那由太の背を追いかけ回廊を渡る。御殿の側面、海が一望できるそこに緋那子が佇んでいた。海風が濡れ羽色の髪を揺らし、赤い袴と青い空の色合いから、一瞬絵巻物を想像した。その視線の先を辿っていくと張り出した崖の端に一本の木があった。

「すごいぎりぎりなところにあるね、あの松の木。それに変な形」

 その松はたった一本で潮風に吹かれていた。太い幹が斜めに海の方へ張り出し、枝葉はほとんど崖から出ている。

「あれはね鬼の首吊り松って呼ばれてるの。天那ちゃんはこの島のお話しは聞いてる?」

「康二さんから聞いたよ。衣を盗られて泣いてる天女に、鬼が申し訳なくなって返したっていうの。首吊りなんて物騒な言葉は出てこなかった」

 天那は緋那子が自分とほぼ同じ背丈だと気付いた。

「那由太、あなたの家に伝わるお話しをしてあげて。私はそっちの方が好き」

 緋那子は視線を遠くの松から動かさずゆったりと微笑んだ。耳に響く声だ。不快なものではない。だがどこか浮世離れしたそれ。

 那由太は一瞬眉をしかめたが天女の微笑みに絆されたのかしぶしぶ口を開いた。こちらの声はかすれていて意識しなければ吹き消されてしまいそうだ。

「鬼が天女の衣を盗むところまでは同じ。それに気付いた天女は怒り狂うんだ。鬼は天女を恐れ島中を逃げ回り、最後にあの松の近くで天女に捕まり必死に謝る。でも天女は許さず鬼を懲らしめるため、あの松の木に吊るしてしまった。あまりの苦しさに鬼は自分の顔を剥がした。そこでようやく天女は鬼を許し、二人は舞い踊りながら山へと帰っていった。そのときの衣が神衣家に、剥いだ顔は面として鬼頭家に継がれている」

 立て板に水の如く話しきった那由太は、それきりむっつり黙りこんだ。緋那子はいとおしげともとれるほど目で松と那由太を交互に見ている。

 遠い過去の壮絶な物語の末に生きる二人はそれをどう思っているのだろう。自分の先祖についてイギリス人の祖父がいる程度にしか語ることのない天那には、二人の背負う過去の重みについて想像することができなかった。










 




















 




 

 

 

 

 





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哭いた赤鬼 川波ウタ @arana0511

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