第86.2話 景子と夢見のある一日
朝霧芽衣の授業があったそうだなと、話が始まって。
授業内容のレポートがある、と言えば見せろとのこと。
そして、どういうわけか、上手く丸め込まれたのかもしれないが、夢見が自宅にやってきた。
当日になって、あれそういえば男性を呼ぶのは初めてじゃないか、という事実に気付く景子だが遅すぎて、やや緊張しながら自宅へ招いた。
「どうぞ」
「ん……」
相手は学生だと、言い聞かせればまあ、なんとかなる――はずだ。そう思い込もう。
玄関にある靴入れの上には、腕時計がスタンドに置いてあり、十四時過ぎを確認した夢見は、便所の位置を確認しつつ中へ。
リビングと呼べばいいのだろう、隅にはデスクがあり、据え置き端末が稼働中。ディスプレイも二つあり、床には四角テーブルが一つ。全体の印象としては白い――それほど内装に気遣いはないのか、それとも白色が好きなのか、カーペットの上に腰を下ろした夢見は、袋をテーブルに置いた。
「水はある。それと手土産にクレマチ茶屋の和菓子セット、あんこ餅は俺が食う。和菓子は腹につくから気をつけろ。拭いても拭いても落ちない灯油みたいに、腹の脂肪は厄介だ」
「はあ、どうも」
「レポートをくれ」
「はいどうぞ、これが原本です。赤色が朝霧さんのメモ、黄色が――鷺城さんのメモです」
「へえ……朝霧だけじゃなく、鷺城もか。三十人と少しだったな?」
「そうです」
「ん、諒解。悪いが読んでる最中は、あまり相手をしてやれんから、どうしても寂しくなったら言ってくれ」
「言いませんから!」
「そりゃいい」
言って、夢見はファイルを開いた。最初に綴じてあるのは、エッダシッドへ朝霧芽衣が提出したレポートの下書きだが、ざっと読んですぐ、手持ちの鞄から小さなノートとペンを取り出し、手を動かし始めた。
邪魔をするのもいけないかと思った景子は、いつものよう淹れてあった紅茶を温め直し、デスクに座って教員としての仕事を始める。
誰かが傍にいる、なんてのは学生の頃に友人と遊んだ頃以来だ。その時はまだ実家暮らしだったから、この家に呼んだのは初めてかもしれない。最初こそ多少意識はしていたものの、無言の状態が続けば、やがて仕事に集中する。
――大きく伸びをしたのは、二時間後だった。
「んー……」
「――そろそろ、一息入れるか」
「ひゃいっ!?」
驚いて飛び上がり、後ろに倒れそうになったのを、ぎりぎりのところで両手をデスクに乗せ、バランスを保った。
「びっ――びっくりしたあ。そ、そういえば、いましたね夢見くん!」
見れば、和菓子セットの封も空いており、あんこ餅が二つなくなっていた。
「すみません、忘れてました」
「気にするな、こっちも集中してた。眼鏡をかけたお前の横顔ってのも、丸くて見ていて飽きない」
「あ、はあ、どうも……」
いつもの口調で言われたので、本気なのかどうか疑いを持ちそうなものだが、短い付き合いながらも、夢見は冗談を言うけれど本気じゃない時の方が少ないのは知っていたので、思わず両手で頬をぐりぐりとほぐす。
「――丸顔は余計ですよ!?」
「気付くのが遅いし、誉め言葉だ。丸顔はいいぞ。この前、朝霧とそれで三時間くらい話してた」
「はあ、そうですか……」
からになったカップを持ってキッチンへ行き、紅茶を温め直して戻り、今度は景子も床に腰を下ろした。クッションを下に敷いている。
「ところで、何をやっていたんですか?」
「ん? 主に解析だ。奇しくも、朝霧だけじゃなく鷺城のぶんまでな」
「え? 生徒たちの分析じゃないんですか?」
「そっちはもう、二人がやってる。田宮と景子のはちゃんと読んだけどな。ほら食え、和菓子だ腹に加えろ」
「嫌なことを言わないでください!」
「いやお前はもうちょい太れ。触ってみないとわからないが、俺は柔らかい方が好きだ」
「……どう返答すればいいのかわからないんですが」
「いいから食べろ」
「はあい」
クレマチ茶屋はそれなりに有名な和菓子の老舗だ。そうそう食べる機会のない景子にとっては、嬉しい甘いものである。
「……あのう」
「なんだ?」
「夢見くんって、あんまり表情が変わらないですよね」
「よく言われる。言葉を荒げるようなことも、そうそうない。感情の制御というよりも、俺の悪い癖だな。まず相手を見るところから始めるから、感情の起伏がなくて済む」
「相手が何を望んでいるかが先なんですか?」
「似たようなものだ。相手の性格を読んで、その上で俺は適度な距離を保つ。――お前の場合は少し違うが」
「そうですか? 適度な距離だと思いますけど」
「そうだな。だが、その前提だって、もっと近づきたいって願望があった上での話だ。多少は押し付けがましくもなる。今日ここに来たのだって、どっちがついでなのか悩みもする」
「でもそういうとこ、素直ですよね」
「景子の前で取り繕ってどうする」
「……その基準がいまいち読めないというか」
「気遣いや気苦労なんてものは、最初どうするかで決まる。俺はお前と対等でありたい。それは自然体のまま、距離感を整える――そういうことだろう」
「なんでわたしかっていう疑問は、未だにありますけどねー?」
「仕事と自分とどっちが大事なの、なんてことを恥ずかし気もなく口にする、クソ女じゃないところも好きだけどな」
「そんなことは言いませんけど……あ、二回目の授業は聞いていますか?」
「なんだ、三度目はなさそうだが?」
「ええまあ。そちらはデジタイズされた資料のみありますが、エッダシッドさんも軽く評価をしてくれています」
「アドレスを送付してくれ」
「はい、少し待ってくださいね」
デスクに置いてあった携帯端末を操作して、借りているサーバのアドレスを送付すると、夢見は鞄から取り出した眼鏡をかけ、板をテーブルに置いた。
「
「知り合いの爵位持ちが、型落ちだからってくれたんだ」
「タッチパネル形式の携帯端末がある以上、アタッチメントとして扱うにしても操作のラグが気になるし、それほど利便性がないってことで、流通はさほどしてませんよね」
「自前のサーバとラインを繋いでも、共用ラインじゃ通信速度が出ないから、どうしてもラグが出る。ダイレクトラインを構築すれば、ほぼリアルタイムで操作できるが、金と技術の問題だな。外出先でどの程度のレスポンスを期待するかって問題も孕む」
「なるほど。便利そうだなーとは思いますが」
「四国のギガフロート内部には、電子区画ってのがあって、ARを全域に利用した場所になってる。それなりに楽しいらしいが、な」
「よく知ってますね」
「交友関係はそれなりに広いし、身を引いたとはいえ情報網は生きてる」
「それです。一体何をしてたんですか? 確か、二年くらい前に辞めたとか言ってましたよね?」
「俺に興味はあるか?」
「それはもちろん、あります。生徒たちとは違うって意味合いもそうですが、わたしに好意を持ってくれてる人という意味合いでも、そうです」
「こういう時は照れずにはっきり言うんだな……」
相手の話をきちんと聞く、そういう意思が先行するからだろう。
「基本的には
「だいぶ前から、ですか?」
「中学の三年間、くらいなものか。狩人の後始末の〝掃除〟なんかが主軸だったが、本当に下請けもやった。まあなんだ、ちょっと危ない夜遊びみたいなもんか……危ない一線も何度か目にしたが、それなりにやってたな」
「……」
「何を考えている?」
「あ、はい。朝霧さんもそうですが、そうした経験を積んだ人というのは、落ち着いている人が多いと思います。わたしが間近で見ているのだと、田宮くんもそうした傾向が見て取れますが……」
「田宮の場合は、俯瞰の意識が強い」
「俯瞰ですか?」
「背中を見るよりも、見せたいんだよ、あいつは。だから人よりも先に行くための努力を惜しまない。周囲を扇動しておいて、自分が全体を引っ張るようでいて、途中からは二歩か三歩、引いたところで全体の流れを見守るわけだ。だが、見えていた田宮の背中を見失ったと、それに気付くやつらは、まずいないだろうな。だって見れば、隣に田宮はいる」
「――意図してその状況を?」
「そこが大きな差だ。やろうとしているのか、それとも自然にそうなったのか、この二つには当然のよう意図が絡む。そして、やろうとしなきゃ、物事なんてのはできない。成功は結果だ、失敗には学びがある」
「失敗したくない、とは思わないんですか?」
「それは誰だって思う。だが失敗で学びを得ない者は、失敗する一歩、あるいは一手、そうしたものに気付けない」
「――気付けるんですか?」
「だから避けられる」
「でもそれは理屈じゃないんですか」
「学習深度の問題だな。一度分解して内部構造を理解したら、同じパーツを揃えられても作ることができる。それは、どこを間違えれば失敗できるかの理解と同じだ。――ただし、現実的じゃないと思えるのは、そこに、状況読みが含まれるからだろうな」
「はい、そこです」
「だから三歩引いて、全体を見渡すんだろう?」
「あ……それは、そうですね。俯瞰するのが一番だと思います」
「だが、中に入っていないとわからないこともある――そういう考えで、田宮は最初に背中を見せるよう引っ張るんだろうな。そういうことを繰り返してると、見えているものの情報が多く手に入る」
「それは体験談ですか?」
「そうだ」
「参考になります……ん? あれ?」
「どうした? あんこ餅は残り一つ、たぶん俺が食べる」
「いや……あのう、当たり前のように、朝霧さんと話す感覚でしたが、なんで夢見くんはそんなことがわかるんですか? 体験していても、田宮くんの話ですよね?」
「実体験に基づいた知識から、お前の持ってたレポートを参照して分析して、その情報で補強すれば、それくらいの人物想定くらいできるだろ」
「できませんけど……」
「プロファイリングの技能だな。あとは想像力。本人を知ってるかどうかって意味合いなら、似たようなもんだろう」
「なんなんです、それ本当に。経歴としてはどうなんです?」
「俺は朝霧みたいに、履歴書に書ける経歴も資格も持ってない。そこらにいる学生とそう変わらん」
「いえ変わってます」
そこは断言しておいた。一緒にされては他の子がかわいそうだ。
「ただまあ、何かしらを専門にしてる友人が多いってのは、一因だろうな」
「たとえば、朝霧さんのような?」
「あいつと知り合ったのは最近だし、例外中の例外にしたい気分だな。狩人に武術家、爵位持ち、技術屋、軍人……」
「――憧れは、なかったんですか?」
「その背中を見ていれば、やがてそっちへと歩き出すのがガキだろうが、同い年の連中がそっちの分野の〝現実〟ってやつを経験してるのに、足を向けたいと思うならよっぽどのマゾだ。……景子はしそうだな?」
「んなっ――ま、マゾじゃありません!」
「本当に?」
「ほんっ、……とう、に?」
「まあベッドの中じゃ変わる場合もあるか、忘れてくれ。でもたぶんお前はマゾだ」
「夜と昼と一体どっち――あ、ごめんなさい言わないでください」
「賢明だな。いずれにせよ、連中がその道を選んだように、俺は俺で選べばいい。若いうちから進路を決定すると、どうせ視野狭窄に陥って、それしかないと勘違いを始める。たった一つでも誇れるものがあれば? ――その一つが折れたら終わり、それが現実だ。聞こえの良い言葉にこそ罠は潜んでいる」
「厳しいことを言いますねえ……」
確かにその通りだとは思う。けれど、だったらどう教え子たちに言えばいいのかと考えれば、頭も痛くなろう。
「だが、それが悪いことじゃない。やたらと結論に飛びつきたがるのが人だが、良し悪しなんて水掛け論と同じだ。結果なんてのは、過程があってこそ。その過程が違えば結果も変わってくる。結果論を突きつけたって、同じ状況が次に訪れる可能性の方が低いわけだ。つまり――」
「参考にする程度で深入りはしない」
「――そういうことだ。まあ、俺はそうしてるってだけだが」
「なるほど。なんだか、朝霧さんと話が合うのにも納得です」
「納得? なんでだ? あの女は経験してるが、俺は口先だけ」
「朝霧さんなら、そうですね……こう言うんじゃないですか?」
小さく笑い、指を一本立てた景子は言う。
「――だがそれでも、考えることを辞めないならば、間抜けじゃない。……とか、あの、なんで睨むんです」
「睨んでない、目を細めてドヤってるお前が妙に可愛いなと、微笑ましい気持ちで見守っているだけだ」
「わたしの方が年上ですよね!?」
「良かったな、俺は写真で現実を切り取る趣味がない」
「なにが良いのかよくわかりませんけどね!? それ! 見たかったらまたやるってことじゃないですか!」
そんなことは知らんとばかりに、夢見は最後のあんこ餅を口の中に放り入れた。
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