第49.1話 シシリッテと針の武術家
日本に来てまず思ったのは、日本人しかいない、ということだ。
島国の特性なのか、外国人観光客が増えているこの日本であっても、ふいに周囲を見渡せば、同国民ばかりであり、そう、多種性とも呼ぶべき雑多さがそこにはない――いや、あるにはあるのだろうが、今までシシリッテ・ニィレが過ごしてきた環境とは明らかに違うため、目につかないのだ。
まあしかし、だからといって対応を変えるのも面倒で。
一ヶ月、足場を固めることに費やした。
とはいえ学校にも通わなくてはならないし、朝霧
「けど、逆に言えば足場を固めちまうと、どうしたって暇になる」
「俺は暇じゃない」
「文句なら軍曹殿に言えよ、あたしに振るな」
それはそうだがと、隣を歩く
「お前が一番乗り、んであたしが二番目。次の予定は知らねえけど、こっちはお前の故郷だろトゥエルブ」
「安堂と呼べ、
「それな」
そこが違うんだと、シシリッテは頬の横にある赤色の髪を軽くつまんだ。
「赤毛なんてのはこっちでも珍しいのに、未だにジンジャーなんて呼ばれたこともねえ。目立つだろこれ」
「目立つからこそ、日本人は羨ましがるし、好感も持つ。そもそも俗称で呼びたがる面倒嫌いなアメリカンとは違うんだよ」
「シャイなのはわかったさ。才華なんか、あたしが下着で歩いてるだけで顔が真っ赤になってたぜ?」
「それはお前が上をつけないからだ」
「下を履いてりゃいいだろ。言いたくはねえけど、貧相な躰つきだし」
「そのうち慣れる、なんてのもこっちの流儀だ。からかう程度にしとけ」
「まだからかってねえよ……」
全員が、とは言わないが、そもそもきちんと服を着て寝る人が大多数を占める日本人と違い、下着や全裸で寝る人というのは世界全体で見れば、それなりに多くいるものだ。急に廊下から呼び出され、下着のまま出ることも、宿舎ではよくあった。
「なんかでも、女として意識されるとこう――いいな!」
「意識はされてただろう? 扱われてはいなかったが」
「ハコは女扱いだったじゃねえか」
「馬鹿、ありゃ七草が女として振る舞ってたからだ」
「ああ言えばこう言う……」
「それはお前だ。ついたぞ、ここが都鳥の道場だ」
「ふうん」
どういう造りなのかは知らないが、そもそも庭がほとんどなく、入り口の正面に道場が配置されており、奥に母屋があるようだった。
「なんで俺が案内人みたいなことを……」
「……そういや、なんでトゥエ、安堂がやってんだ?」
「軍曹殿に、やっとけってな。武術家には軽く馴染みもあるが――犬になる前の話だ」
「ふうん」
道場の入り口に足を向ければ、中から袴装束の男が笑顔で迎えた。ぱっと見てまだ若い風貌で、背丈も安堂よりは低く。
「あ? なんでお前がいるんだ」
「請われてね。初めましてシシリッテ、話は聞いている。私は
「蹄? 都鳥じゃねーのか?」
「一応は、分家でね。小太刀二刀とは言うけれど、
「んや、脱ぐさ」
「…………」
「どうした暮葉」
「いや……こう言っちゃ何だが、お前ってその程度だっけな?」
「そうだよ、私は前からこの程度だ。自分の成長を実感するだろう?」
「ねえよ。下を見て喜ぶようなクソッタレは俺の傍にいなかったし、戦場ならともかく道場でやり合いたくはない」
「私はどっちもご免だけれど、どうしてもと請われてね」
「断れねえのか、あんた」
「いやいや、貸し借りのある間柄じゃあないけれど、適材適所の〝仕事〟かな。都鳥の御大は、犬が相手だと殺し合いになりかねない。かといって現役の小娘だと、君たちとは訓練にもならない。私は多少、慣れているからね」
「おい安堂」
「やってみりゃわかる。ただ、大多数の武術家はまだ、花楓のようにはなっちゃいない。技術はあっても、伴った経験がないからだと俺は推測している」
「オーケイ、どっちにしたって得るものはあるはずだ。あたしはそれでいい。じゃあ軽く訓練といこう――頼んだぞ安堂、殺されるか殺しそうになったらちゃんと止めろよ?」
「俺が、お前を? ……なんの冗談だそりゃ」
「女扱いしろ!」
「うるせえよ馬鹿。俺が罠を張ったら気になって集中できないし、勝手に解除するのがお前だ。まったく、
「ははは、じゃあシシリッテ、まずは躰を温めようか」
「必要ねえ」
「私には必要なんだ」
相変わらずだと、安堂は思う。そういうことを億面なく言う男なのである。
「
「いや」
「番数が長さ、号数が細さ。私が扱うのは二十センチでやや細め、こが三番二号だ」
軽く放り投げられたのを受け取れば、針にしては長いとも思うが、医療用のようなしなりがない。鋼としては柔らかいのだろうが、曲げればおそらく折れるだろう。
「二番一号あたりが治療用として使われるよ」
「ああそう……」
その時のシシリッテの顔は、ネタバレを先にされたマジックショーを見るような表情だ。
「花楓、いつからそんなに慎重になった?」
「手酷い失敗をしてからだよ。それ以来、鍛錬や訓練であることを、これ以上なく念押しするようにしていてね」
「……まあ、腕の良い医者の手配はしてないから、我慢しろシシリッテ」
「んなこたわかってるっつーの」
「じゃ、まずは軽くやろう。拳銃を使ってもいいけれど、模擬弾にして欲しいね。それでも当たったら痛いけれど」
「おう」
始めよう――道場の中、普通に歩けば八歩ほどの距離を空けて対峙した瞬間、シシリッテは目の前に出現した針に、納得を一つ落とした。一秒で当たるところを、上半身を反らしながら後退することで二秒にしたのならば、一秒分の追加時間で状況を把握できる。
予備動作がほとんどなく六本あるそれが、行動の封じ込めに来ていることを理解し、手で触れずに隙間を縫うよう回避した。
「――悪い、少し待て」
「ん? 構わないよ、どうかしたかな?」
「今朝の便所でデカイのを出したかどうか、急に不安になってきた」
「ふうん?」
冗談はさておき、シシリッテは背後に刺さった針を引き抜きながら、考える。
銃弾と似たようなもの、という認識は間違いではなかったが、いくつか改めなくてはならない点もあった。
針の投擲と言われて想像するのは、点――つまり、先端を向けての飛来だろうが、実際には無回転で投擲されるものの多くは、距離という問題を孕む。
ナイフ投げも同様だ。
無回転のまま先端を標的に刺そうと思えば、一定の距離以上は不可能になる。何故か? それは、弾丸が回転しながら飛ぶのと同じ理由だろう。
故に、小さな点として飛来する針は、横回転を加えられた状態で、飛んで来る。飛距離は無回転よりも伸びるが、それほど長くはなく、威力も低いが安定はする。そして縦回転で飛来する針――こちらは線のように見えるが、重量に応じた飛距離が出る上、威力が高い。
実際の
銃弾との違いは、おそらく。
この針は曲線を描くことも可能だろう。そうでなくとも、銃と違って足元から顎を狙うこともあるはずだ。
――だが、それ以上に。
針を見て、それらを集め、ゆっくりと歩いて近寄ってそれを手渡す。
「どうも」
「いや……」
それ以上に。
この針では致命傷にならないことが気に障る。
「シシリッテ、家の鍵をかけ忘れたかどうか悩んでるみたいだな?」
「ああまったく、その通り。布団を干したが天気は大丈夫かと心配もしてる――」
ならば。
怪我ではなく、それが致命傷になりうるはずだ。
「……おいトゥエル、じゃない、安堂」
「なんだ」
「あたしこれ、考えすぎか?」
「暴れるだけ暴れるお前でも、ちゃんと事前に考察は一応するんだなと、ちょっと感心してるよ」
「あたしを暴れん坊みたいに言うな」
「事実だろう?」
「うっせ」
「――はは、君たちは怖いね。本当、暮葉は怖くなったよ。これで終わりにしよう、そう言いたくなるくらいには」
「嬉しそうに笑ってんじゃねえか、蹄の」
「訓練だからね。これが実戦なら、笑えないよ」
「そりゃこっちの台詞だ。よくもまあ、針なんてもんを突き詰めやがる。確かに、こうして正面向いてやり合うってのは、厳しいな。軍曹殿が、流儀が違うと言ってたがこりゃ……」
「流儀は違うだろうな。だが、似たようなことが、できないとも限らない。特に武術家の中でも、上の連中はな」
「暮葉、それは私も含めてのこと?」
「そう言ってる」
「やれやれ……過大評価されても困るんだけどね。じゃあ私からも一つ」
「なんだ?」
「蹄の
「おう、エンジンにオイルが回り始めた」
「それは良かった」
手元で針を遊ぶように、三本の針がふわりと浮いた。
「……」
お風呂の中でボールを浮かべて、遊んだことはあるだろうか。
軽く手に持って、水の中で投げると、ボールは回転しながら前へ動くものの、回転に合わせるよう手元に戻って来る。その力加減を上手く利用してやると、しばらく同じ位置で回転している様子を見ることもできよう。
それを、針でやって見せた。
対空した針をどうするかは、花楓次第――であればこそ。
シシリッテは笑う。
踏み込もうとした左足、靴下の上から指と指の間に、一本の針がいつの間にか床に刺さっていることすら、楽しいと思う。〝
――そこから二十分、二人の訓練は続いた。
道場という限定された領域においては、花楓が優勢だったというのが見ていた安堂の所感だ。
武術家の厄介さは、一個人で戦力が完結していることにある。故に、戦場であっても対一戦闘になるよう配置したのならば、最大効力を発揮できるのだが、逆に言えば対一の状況を避ければ、それほどでもない。
正面から挑むことが必要な場の方が、現実には少ないのだ。対多数、更に言えば地雷だろうが狙撃だろうが、暗殺だろうが、死ねば皆同じである。
だが、それでも。
「すげえな、おい、武術家ってのは……」
相手を侮りなど、しない。
お茶を淹れてくると母屋に行った途端、シシリッテは腰を下ろしてあぐらを組んだ。呼吸は荒くなっていないが、汗が見て取れるくらいには、良い運動だったらしい。
「って、お前なに煙草吸ってんだ」
「酒を飲んで観戦しないだけマシだと思えよ。針を食らった感想は?」
「冗談じゃねえ、肩から先が死んだぞ。なんだこれ、ツボか?」
「似たようなもんだ。針を抜いてもしびれが残る」
「ハリネズミかヤマアラシか知らねえが、滞空した針の動きに目を取られて、意識の外からくる針が相当に厄介だな。消耗品だから必ず拾うとは思っていたが、いつの間にか補充してやがる。だからって避けるなってのは無理難題だろ?」
「同じ武術家なら、壊すを選択するだろうな……」
「へえ――いや、こいつは野郎が戻ってからでいいや。安堂も学生だっけ?」
「おう、高校二年だ」
「聞いてくれよ安堂。確かに護衛としちゃ、同じ学年に通うのが順当だろ? けどあたし、お前と同い年――くらいなんだよ、一応は。たぶん曖昧だけど」
「まあ多いよな、そういう連中」
「そしたら中尉殿がな?」
「お前の見た目ならば中学二年でも通じるし、頭の内容はたぶんそのくらいなものだ。貴様は少し常識を覚えた方がいいぞ? 主に、鏡の前に立って自分の姿をじっくり見て、見た目年齢というやつを――おい、睨むな。想像だったんだが当たりか」
「ひでぇよな!?」
「学業は」
「あんなもん、夜の内に全部読んだ。わからんところは教員に質問もした」
「バストアップ体操と牛乳は飲んでるか?」
「うるせえ! やってるよ!」
「やってるのかよ……文句があるなら中尉殿に言え」
「できるわけねえだろ……!」
「じゃあ、地道に効果があるかどうかもわからん体操をしてる健気さで、野郎でも落とせ」
「……安堂てめえ、遊んでるな?」
「いや正直どうでもいい」
「てめえなあ……」
「――仲が良いね、お待たせ」
良くはないだろうと、安堂は紫煙を吐きだした。
「ところでシシリッテ、なんだか随分と行動に制限をかけてたみたいだけれど?」
「さすがのあたしだって、道場を壊さないようにする、配慮? 遠慮? そういうのあるんだよ」
「マジか!?」
「おい安堂てめえな?」
「冗談だ」
「ははは、確かに道場を壊されては困る。私のものでもないからね」
「一応、業者の手配と見積もりには目を通してきたけどなー」
「ちなみにこれは冗談じゃないからな花楓」
「そう言われても笑うしかないよ」
「――んで、どういう知り合いなんだ?」
「そっちか」
「関係性は、友人の友人、といったところかな」
「
「ああ、そこらへんを取っ掛かりにして、安堂のこと調べたわ。周辺の情報までは面倒だったから後回しにしてたし、後でやっとく」
「後回しにするほど忙しいのかお前は」
「うるせえよ」
まったくと、花楓は目を細めてほほ笑んだ。
調べるなと言うのでもなく、調べているのが当たり前で、やっていない方がおかしい――そういう流れだ。
「怖いね、忠犬は」
「怖くはないだろ……」
「よくそれ言ってるやついるけど、怖がらせたことはねえよな?」
「まったくだ。俺らは当たり前の仕事をしてるだけだってのに――ん? あ、女から電話だ」
「切れ! 切れ切れ!」
「なんでお前に言われなきゃならん……?」
「うっせえ! あたしに男がいねえからだろ!?」
そんなのは知ったことじゃないと、電話を片手にその場を離れた。半ば本気で攻撃を仕掛けようとするシシリッテに対し、防御用の罠を張りながら。
「やあ、シシリッテ。ここは道場で、君たちの宿舎じゃないからね?」
「だからまだ攻撃してない!」
「やれやれ……」
本当に怖いのは――。
情報通りなら、こんな日常の姿のまま、彼らが仕事に出かけて、結果を出すことだろう。
得るものがあったとしたならば。
花楓は間違いなく、彼らの名前を聞いたら仕事を放り投げてでも、逃走を選択することを、決意したことだろう。
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