第85.2話 兎仔とまいの休息日
仕事を生活にしている、という点では
電子戦公式爵位を持っている沢村は、日常的にハッキングを受けてそれへの対処を行っており、便所でクソをしている最中だとて、電子ネット上では現在進行形で何かしらが行われている。
兎仔もそれは同じだ――時間が止まることもなく、現在進行形で状況が推移するのならば、仕事の可能性を追う仕事をして、準備を常にするのが、生き方でもある。
逆に言えば。
ただそれだけのことで、暇な時間はいくらでもある……が、共通しているのは、まとまった時間を取りにくい、という点だろう。
外へ遊びに出る時の大半が、兎仔の仕事だ。内容はあまり聞かないが、楽な仕事なのだろう、観光ついで、デートついでで仕事を済ます。沢村も外出中であってもネットにアクセスできれば、どうとでもなるので、仕事が停滞することもない。
ただ――兎仔の仕事がない時は。
こうして、一緒にいる。
かれこれ二時間も膝の上を占拠して眠っていた兎仔が、目を覚ます気配に沢村は苦笑した。
「おはよ」
「んー……、ん、顔洗ってくる」
膝の上というよりも、間に座って背もたれにしていたので、それほどの疲労はなく、一人分の熱がなくなった沢村は、珈琲でも温め直そうと隣室のキッチンへ足を運んだ。
「――あ! 歯ブラシ間違えないように!」
「おー! わざとー!」
「知ってたけどやめて……!」
寝起きの口の中の感じが嫌だという兎仔は、いつも歯磨きをする。悪いことではないが、初めて家に来た時はまだ付き合い始める前だったけれど、何の躊躇もなく沢村の歯ブラシを使ったのだが、その一件からどうも、兎仔が使った歯ブラシを使う、なんて状況は照れていけない。
たぶん、それを承知の上でこっそりやっているのだろうけれど。
テーブルに珈琲を二つ、改めてソファに座れば、戻ってきた兎仔がまた同じ位置に座った。がりがりと頭を掻いてやると、嬉しそうに目を細める。
二人で一緒にいる時は、大抵はこうしてのんびりしていた。
休息日なんだから休むべきだと、そういうことだ。
「そういえばさー」
「なに?」
「ちょっと想像してみろよ、まい。電話がかかってきてさー、あたしが捕まってるからお前来いって言われたら、どうする?」
「んー」
軽く想像してみた。
「ああ……たぶん、間抜けな顔したまま、出て行くなあ」
「お前馬鹿だろ。大笑いしたあとに、ご愁傷様って言っときゃいいんだよ、そんなの。あたしはそんな間抜けは晒さないぞ」
「そうか……?」
「あのな? ――いや待て、ちょっと待てわかった。まいお前、誰を想像した?」
「え? テロリストとかじゃまったく臨場感も現実味もないから、とりあえず朝霧さんからの連絡を想定してみた」
「そりゃ正解だぞ!? 中尉殿から連絡あったら来いよ! むしろ笑うな、もっと酷いことになるぞ!? 間抜けなのはあたしだ!」
「うんだよね。というかそもそも、前提を覆すけど、そういう連絡がある相手って、朝霧さんくらいなもんだと俺は思ってる」
「あー、馬鹿な質問したー」
「でも逆のパターンはありうるだろ」
「いやその場合、連絡が来る前にあたしはもう現場にいるし、対処するぞ」
「はは、さすが――あれ? 来客だ。あれかな、さっき兎仔の携帯端末に着信があったアレか?」
「んー?」
「あ、俺の眼鏡取って」
「ほれ」
すぐに室内AIに音声を繋ぐ。
「認証」
言えば、マンションの出入り口へ命令が飛び、そこで認証の指示が口頭される。相手はきちんと左手を当てて指紋登録をした上で。
『グレッグ・エレガット、
「聞こえた?」
「おー、とりあえず蹴るから通してくれー」
「いやそれは後にしとこうね。俺の家で暴れないで」
「……9ミリも駄目か?」
「業者入れて内装を変える必要があるから、だーめー」
「ちぇっ」
どこまで本気かは知らないが、こういう時は念のためが必要だ。常識はあるので大丈夫だと信じたいが、念のためである。
「AI、コードA2で案内」
「……まいって、室内AIに名前つけたり、言葉を出させたりしないんだな」
「そういうのが一般的だけど、必要だと思ったことなくて。なんだろ、返事っていうタイムラグが気になるのかな……?」
「そんなもんか? まあそりゃ、プログラムをお前が作ってるんだし、そんなもんかもなー」
「室内AIとは言うけど、基本的には情報から適切な判断をしてるだけ。実際に俺の師匠なんか、あれ、自然発生とか言ってたけど、対応が人そのものだったからなあ……」
「へー、思考してんのか?」
「うん、完全に。ありゃ凄い」
呼び鈴も鳴らず、玄関を開いてやればグレッグは中に入ってきた。きちんと靴を脱ぐので忠告もなしだ。
「いいとこ住んでんなあ……よう、アリス」
「やあグレッグ」
「てめーは離れて床に座れ」
「離れなくてもいいだろ……兎仔、せっかくのオフを邪魔されたのはわかるけど、あんまり意地悪しない」
「んー」
「動きは追ってなかったけど、情報は流れてたよ。アメリカではお疲れ様――あれ? 兎仔はずっとこっちいたよな?」
「あたしがやると、こいつらの仕事がなくなるからだぞ。……そういう言い訳でいいよな? めんどくて」
「軍曹殿はそういうとこ、はっきり言うよなあ……」
手にしていた水のボトルをテーブルに置き、床に腰を下ろしたグレッグは一息、そして天井を見上げる。
「ん? なにどしたのこれ」
「あたしが
「え、今更?」
「今更って言うなよアリス! しかも中尉殿のリークだぜ!?」
「……兎仔、接点薄かったっけ?」
「あたしの仕事に同行はしてねーぞ」
「ああ、じゃああれか。北上さんたちと違って、兎仔の仕事履歴を一通り洗ってないってことか。ほかの人たちは、だいたいそこからでしょ」
「初顔合わせで、幽霊がいるって言った中尉殿を除けば」
「あの人は……」
「けどまあ、そう落ち込むなグレッグ。痕跡探しじゃかなりのもんだぞ? 良い暇潰しになったじゃねーか」
「いや、無駄になったとかそういうのはねえけど、あれだ、僕の間抜けぶりがこれ以上なくね、本当になんだこれ……」
今度は盛大に吐息を落とし、のろのろと顔を上げる。
「ここのセキュリティ、どうなってる? 監視してただろ?」
「ん、ああ、可動式じゃなく定点カメラ。いろんな配置してるけど、ぱっと見てわからないし、直接カメラを向けてないから」
「ああ、それでなんか見られてる感じあっても、よくわかんなかったのか……」
「このマンションと同一形状のものは、市内に六ヶ所あるけど、ここのセキュリティは電子防御も含めて俺の管轄……というか、仕事になってる。けど今日はオフだし? 見ての通りそっちの端末のディスプレイは黒いまま」
「悪かったよ……」
「本当に悪いぞグレッグ」
「軍曹殿、傷心中の俺に優しい言葉はありませんか」
「ねーよ。そういうのは悦に頼め」
「こんな情けない姿は見せらんないですって……確認です、軍曹殿。ゴーストバレットは軍曹殿なんですね?」
「おー」
「……え、じゃあなんで犬に?」
「引退したから」
「兎仔、意地悪しないで教えてあげたら?」
「……んむ」
左の手首に噛みつかれた。甘噛みなので痛くはない。
「仕事に失敗したんだよ、それが最後の仕事。グレッグさんは知ってるだろうけど、兎仔を止めたのも拾ったのも、アキラさんだ。一応預かりってことで
「アリス、その頃からもう軍曹殿とは知り合いか?」
「いや、知り合ったのは本当に最近だよ。兎仔がこっちに赴任してきてからだし――こら、噛まない。俺を食ってどうすんの」
「んー」
「ただ、槍にいた頃から直接じゃないにせよ、関わりはあった。俺もその頃から電子戦を主戦場にしてたから、そっちで稼ぎもしてたわけ。その中の一つが、衛星映像の提供だ」
「そういえば、犬に入ってすぐの仕事で、映像確認とかしてたような……さすがに僕も、今ならそのくらいはやってるけど」
「ああうん、グレッグさんが使ってるとこも俺の仕事だけどな」
「マジかよ? 信頼できる筋だから、だいぶ前から使ってる」
「常用してないから、いちいち俺から言うのも何だけど、あんまり信用はしない方がいいよ? こっちとしても、ある程度のセキュリティを組んだら、衛星情報を垂れ流しにしてるだけだから」
「つまり、アリスから見たら、使えたもんじゃない?」
「まあ俺の同業者が使ってたら、とりあえず馬鹿にして大笑いした後に潰すよ」
「気に留めておく。とりあえずこれから、軍曹殿の仕事を洗い直すよ……」
「うん、そうすれば類似点がよくわかると思うよ」
「お前もやったのか?」
「基本的なスタンスとして、俺は情報屋じゃないし詮索屋でもないから、仕事の依頼以外で調査はしない。あくまでも、落ちてる情報を拾う程度――これが、俺の知識になるわけだ。けど、どういうわけか、以前の仕事で何をしたか知りたがる兎仔がいて、当時の情報を調べておいてくれって言われたから、データを揃えたんだよ、なんでか」
「――電子ネット上に、そんな情報が落ちてるか?」
「昔からネットに触れない情報屋はいないよ」
「……つまり何か? 俺はあちこち歩かずに、お前をノックすりゃ良かった?」
「まあ情報の精度を度外視したら、そういうことだね」
グレッグはボトルの水を一気に飲むと、後方に倒れて仰向けになった。
「やってらんねえ」
「言わなかったのは、兎仔の期待だよ、グレッグ。あるいは、お前ならたどり着くんじゃないか――ってな」
「んで、それをわかってて、ちょっかいをかけるのが中尉殿」
「朝霧さんってそういうとこあるよねえ」
「その前に片づければ問題ねーし。……できたこともねーけど」
「この際だから言うけど俺、この前に電子戦やって朝霧さんに後れを取ったよ」
「逢ったのは聞いたぞ」
「うん、兎仔が挨拶しとけって言うから。言い訳すると二年前のサーバの処分に、朝霧さんがアタック。保護情報だからログの開示はできないけど、操作なしのパッケージ送付だけで、サーバが食われた。ジニーの弟子なら先に言ってくれよ……」
「んー」
「は!? 中尉殿って、あのジニーの弟子なのか!? それも新情報なんだけど!」
「あーまだ聞いてなかったか。あの人も隠してねーから、気にするなよ、まい」
「……これ、朝霧さんの意図?」
「半分はなー」
「――もしかして、情報が分散されてます? いやそうだったとしても、内緒だぞって言われりゃ、黙るしかないでしょう」
「犬は過程は違えど結果は出す。俺に言わせれば、結果は出すけど過程は違うわけだ。なら、違いそのものを上手く利用すれば、紛れた情報が伝播しない。そこらも朝霧さんが利用した……というか、試したのかな?」
「そんな感じ」
「……ま、今更だよな、そんなのは。いずれにせよ、本人が見つかったから終わりってわけでもなし、ゴーストバレットの調査はまだ多少、手を入れますが?」
「いいぞー。ついでに情報上げとけ」
「諒解です」
「上げると言えば、グレッグさん。一応、俺の保護者も
「は? そりゃお前、中尉殿にそう言われたからだ。大佐殿と交渉する方が面倒そうだし」
「いや、その彬さんが、なんで未だに手書きなんだと、どういうわけか僕に文句を言ってたんだよ」
「マジかよ……! そんなことなら大佐殿とちゃんと話をしておけば良かった! 中尉殿からも、嫌なら大佐殿と交渉しろって言われたことある……!!」
それこそ今更だ。もう組織はない。
「あー……僕もう帰る。駄目だ。えっちゃんに慰めてもらう……」
「ついにプライドまで?」
「うるせえよ、たまにはいいだろ、たまには」
「グレッグ、お前、五神の
「ん、ええ」
直接逢ったことはありませんがと、グレッグは立ち上がって吐息、水のボトルを手にする。
「それがどうしました?」
「んや、あたしが正式に引き継いだから」
「…………、アリス、なあアリス」
「なに?」
「このちびっこいの、性格悪いよな?」
「俺の前じゃ素直だから、そう感じたことはないね」
「ああそう……」
「グレッグ」
「なんです、軍曹殿。まだ追加の情報でも?」
「アメリカでの仕事、ご苦労さん。良くやった」
「……どーも。給料が支払われるわけでもないのに、まったく、よくやるもんだとは思いましたがね。じゃあまた、いずれ。邪魔したな」
「気をつけて。しばらく半自動的に追尾するプログラムを流すから」
「おう」
そのまま見送れば、一度立ち上がった兎仔がごろんと横になり、今度は膝を枕にしてこちらを見上げてきた。
「なにしに来たの、彼は」
「……あたしの邪魔?」
「それはないと思うけど。けどなんとなく、兎仔たちの関係も見えたような気がするよ。――だからどうしたって話だけどね」
「そうかー」
「うん。ただ、心底から良かったと思ったことが一つ」
「なんだ?」
「来たのが朝霧さんじゃなくて良かった……」
「ばっ、おまっ、そういうこと言うとフラグになるんだぞ!?」
泣きそうな顔で腰に手を回されて、しがみつかれた。
なんだろう、冗談半分で言ったのだが、本当に嫌そうだ。尊敬する上官なのにこれほど嫌われているというのは、ある意味で、才能ではないのだろうか。
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