あんたよりましよ
小山田花子
あんたよりましよ
美人な処女の需要なんてどこにもないんだわ、と退屈な大学の講義中にしずかは考えていた。窓際に座るしずかの長い髪の毛が春風にさらさらと揺らされて、実際は何人もの男子学生が、いや、女子学生までもが、その横顔に見とれているというのに。しずかはそんなことに気が付きもせず、窓の外、風に吹かれた木々の葉が揺れるのを眺めてばかりいる。
山形県のとある町出身である時田しずかは、今やありふれた東京の大学生である。高校時代まで過ごした山形県では、しずかは県内の高校ではかなり頭がいい部類に所属していたが、実際入学できたのは東京の一流とは言えない、大衆的な私立大学の法学部だった。それでもその大学は伝統のある大学だったし、キャンパス内にも緑があふれているので、しずかはぜんぜん嫌じゃなかった。山形県での高校時代、「頭がいい子ね」とか「しずかちゃんは、東大かしらねぇ」とか、近所のおばちゃんたちにさんざん言われて育ったが、しずかはきちんと身の程を知っていたので、「そんなことないですよ」とにっこり笑ってその言葉を受け流し、東大を受験することもしなかった。しずかには母親しかいないが、母親はとても心が素敵な人であって、しずかが高望みせず手の届く範囲で将来を決めることに対してあれこれ口をださなかった。それは、いまどきの親にしては本当に稀なことで、そのことをもちろんしずかはよくわかっていたし、母親を尊敬している。しずかの父親は公務員だったが、しずかがまだ小学生にもなる前、公務中に不幸な事故に巻き込まれて死んでしまった。幸い、国から多額の賠償金等が支給されたため、しずかの家は母子家庭だがさほど苦労はしなかった。
だから、しずかはグレることなく大学生になり、こうして午後一番の民法Ⅲの授業を、窓の外を見ながらぼんやり受けることができている。
一見すると、しずかの人生というのはいくつかの障害はあれどさほど大きな問題は抱えていないように見える。しかし、しずかにはひとつだけ、大きな悩みがあった。それは、生まれてこの方、一度も恋というものをしたことがない、ということだった。恋をしてみたい、とは想うものの、自分の中でその優先順位は極めて低く、毎日を生きるのに何不自由はしていない。恋というのは、あったらいいなとおもうけど、なくても生きて行けるものなんだ、としずかは考えるようになっていた。そうして、20歳まであと数か月という大学二年生にして、処女のままなのであった。
東京の大学生のなかで、処女の割合はいったいどれくらいだろう?もしかして、ものすごく恥ずかしいことなんじゃないだろうか?などと、思ったりもする。山形県に居た頃は、周りは皆カップルだらけで、周囲の男子たちは良く接してくれてはいたものの、「時田さんは美人だから、俺達なんか相手にしない。もっと素敵な大人の男と付き合ってるんだろう。」と勝手に思い込み、誰も恋愛面でしずかに踏み込まなかったのである。
そうしてしずかは、美人なのに処女、というまま東京の大学生を過ごしていた。しずかは一つため息をついて、ちらり、と視線を講義室の中央、頭の禿げあがった教授に向けた。
男の人って、みんなああなるのかな。と、心の中で思い、目を伏せた。
授業終了のチャイムが鳴ると、教授が「では今日はここまで。来週も同じプリントを持ってきてください。」とキリの悪い場所で授業を打ち切った。
「ああ、つかれたぁ」
となりで、ペンケースにシャープペンやら色のついたマーカーやらをしまいながら声を発したのは、同じ学部で仲良しの南翔太だった。
「そうだね。このあと授業あるの?」
としずかが聞くと
「ある。一応、国際法の授業取ろうと思って、1回目行ってみるんだ。しずかは?」
翔太は栗色に染めたふわふわの髪の毛を、右手で無意識に触りながらしずかの方を向いた。男にしてはまつ毛も長く、肌も透き通っていて、そこらへんにいる女子よりもよっぽどぴかぴかと輝いている。
「私は、次は空きコマ。」
「そのあとはあるの?」
「あるよ。図書館で時間つぶす。」
「そっか。」
「そうだよ。」
翔太をじっと見つめると、あまりの可愛さに目が吸い込まれそうになる。というのも、恋愛的な意味ではなくて、ほんとうに翔太が美少年だからだ。
「じゃあ、俺次の教室行くわ。じゃあねん」
そういって翔太が手を振り、教室を出ていくと、数人の女子たちがうっとりと目で追いかけているのが分かった。
「うん。おつかれ」
にっこり笑いしずかが答えるその姿を、数人の男子たちがうっとりとみているのをしずかは気が付かない。
相変わらず翔太は女子力が高い。と、去っていく後ろ姿を見ながらしずかは思った。この大学で初めて仲良くなって、それでいて唯一心を開けるのが翔太だった。翔太は、どこか自分と同じような部分があるとしずかは感じていた。というのも、実際翔太にはまるで女の影がないからであった。
翔太は、もしかして男の人が好きなんじゃないだろうか。と、しずかは出会ったときから直感でわかった。けれど翔太の口から直接聞いたことはない。しずかは恋をしたことはなかったが、誰が誰を好きであろうと、それがたとえ同性同士であっても別にかまわないという思想をもって生きている。
だから、翔太が誰を好きでもいい。
さてと、と先を立ち上がり、しずかはカバンを肩にかけて、図書館で時間をつぶそうと教室を出る。数名の男子たちがその姿を目で追い、会話している声のボリュームを無意識に上げた。けど、しずかにはその声など雑音にしか聞こえない。
図書館等に行くため外に出ると、校内の桜がはらはらと散って、一年生だろうか、気合いの入った化粧とハイヒールで校内を楽しそうに歩く女子生徒がやけに目をつく。一年前、しずかがあの立場だった時、しずかは一度もハイヒールを履かなかった。偏平足なので、ヒールは合わず、バレエシューズどまり。ふと、足元を見おろすと先日買ったばかりの赤いバレエシューズが足元で輝いて見えて、うれしくなってしずかは少し微笑んだ。
校舎の最も奥にある図書館等へ向かう途中、キーンコーンカーンコーン、と鐘がなった。授業が始まったのだ。けれど、空きコマであるしずかはそのチャイムを不思議な気持ちで聞きながら、そのまま図書館へ向かった。
高校生の時までは、ベルを常に意識しながら生きていた。ホームルームの鐘、一限の合図の鐘、昼休みの鐘、昼休み終了の鐘、また授業の鐘、放課後の鐘、最終下校の鐘…、鐘かね鐘かね鐘。まるで監獄の様に規則正しく、生きて行くことが体に染みついている。だから、鐘がなると自分が何かしなくてはいけないんだとふと思い、ああ、そうかもう大学生だから、関係ない鐘は気にしなくていいんだわ。とほっと胸をなでおろすのだった。
あんたよりましよ 小山田花子 @oyamada875
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