ゾッキ男とベタ塗り姫

神光寺かをり

それはありふれた【修羅場】の風景

 今日は特別な日になるはずだった。




 漫画家なんて職業には誰でもなれる。

 資格試験があるわけでも、免許がいるわけでもない。極端な話、絵が描けなくたってなれる。


 今すぐ、タダ一言、


「俺は漫画家!」


 と宣言しちまえばいい。


 言ったモン勝ち。今日から漫画家。

 それがみんなに認められるかどうかなんてのは慮外。

 月刊の中綴じのエロまんが雑誌に、月にならして三十二枚のがようやくいただけてるこの俺サマだって、立派な漫画家先生だ、コンチクショウ。


 当然、宣言だけじゃえやしない。


 こうやって、今、夜なべでペン入れしてるエロ漫画家先生オレサマですら、稿料だけじゃとても喰っていけてねぇんだ。単行本の印税を足したとしても無理。


 だいたい、うまくいけば雀の涙の定期収入源にはなる単行本だって、一冊分描いた原稿モノがあるからっても、必ず出版してもらえるかどーか怪しいんだ。

 こないだ出したのが、三千部のウチ千五百が返品されたっていうから、四分六しぶろくはヤバイ。

 実際、神田で不良在庫の証拠に天地に赤インク塗ったくられたテメェの本が投げ売りされてるのを見るのはシンドイ。通販書店のバーゲンブックコーナーなんぞ、恐ろしくって見に行けねぇ。

 ……それでもまだ、切断廃棄ゴミ扱いにならないだけマシかもしれない。


 ああ、それにしても蒸し暑ぃ。湿気っぺぇ。スミが乾かねぇ。


 手脂除けに敷いてたティッシュを丸めて、後ろに投げた。

 新しいのを出さねぇといけねぇが、大分前に駅前で余分にかっぱらってきた消費者金融サラキンのポケットティッシュのパックは、開けづらくってイライラする。

 ビニルを無理矢理破ったら、紙のヤロウども、仲良く一塊のまま飛び出して、きれいに墨汁瓶の口に角っこ突っ込みがった。

 慌てて引き上げた。間に合うはずも無し。全滅。真っ黒。腹の立つ。


「コンチクショウ、腹減った!」


 喚きながら、そいつらを後ろに投げた。


 ベチャとか、ベチとか、水っぽい音がした。


「わっ!!」


 っていう、悲鳴もした。


 忘れてた。後ろの席でアシしてもらってたんだ。


 あいつはとびきり巧い「プロの派遣アシスタント」だ。

 普段はちゃんと喰えている「本物の先生」に呼び出されては、背景やら効果やら小物類やら、有象無象のモブ人間やら、そういったハナシの本筋とはあんまり関係ないものを専門に描く「臨時要員のアシ」をしている。それで俺が机にかじりついてガリガリ描いてる稿料が霞むぐらいに羨ましい額のバイト代が貰えているんだから、あいつの腕の良さが分かるってモンだ。

 とにかくあいつときたら、俺なんぞよりよっぽど真面目で、よっぽど頭が良くて、なによりとんでもなく画力がある。


 たった今でも


「私は漫画家」


 と宣言すりゃあ、俺よりよっぽどイイ仕事が来るだろうに、あいつはそれをしない。


 謎だ。


 それじゃあ、誰か特定のセンセイのところにでも専属アシスタントとして「就職」する気なのかと思えば、それもない。

 聞いた話じゃ、何とかいう少女漫画の先生があいつをお気に入りで、専属で来てくれって頭下げられたことがあるらしい。

 あいつはそれをあっさり蹴った。

 あれだけの技術があるってのに、「正社員」になる気もないっていうから困ったモンだって、俺の担当をしている編集がぼやいていた。

 もっとも、あの担当じゃ情報源には頼りねぇ。三流エロ雑誌の編プロと、ドラマ化された「名作」を何本も持ってる大先生に、縮れ毛一本でも繋がりなんかあるもんか。


 それでも話自体は、あり得ねぇことじゃないと思う。


 偏屈なんだ、あいつは。

 臍が曲がってるどころか、ぐりぐりの二重螺旋になっているんだ。実物拝ませて貰った訳じゃねぇけど、多分間違いない。

 そうでなきゃ、アシ代どころか茶の一杯も出せねぇ俺の所へしょっちゅう助に来てくれるはずがありゃしない。


 いくら親の代から幼なじみ(俺のとーちゃんとあいつの親父さんが、俺のかーちゃんを取り合ってたなんて嘘くさい王道話は一ミリだって信じられん)とか、幼稚園のばら組さんからビーバップなハイスクールまで途切れることなくクラスメイトであり続けた(あいつは進学しやがったから、そこから先は途切れた)とか、全国ネットな漫画同人サークルに一緒に入ってた(誌上じゃペンネームのつきあいだから、オフ会で数年ぶりに会うまでお互い気付かなかった)とか、そういう腐れ縁があったとしても、だ。


 俺はそーっと後ろを見た。

 ひっつめ髪のデコっぱちの真ん中に、ポケットティッシュの束が貼り付いていた。

 染み出た墨汁一滴は、あいつの高い鼻んとこで二筋に分岐して、真っ黒い涙みてぇに流れて、とがった顎の先から落ちた。


 片一方は、あいつの胸の上。

 もう片一方は、消しゴムかけが済んだばっかりの俺の原稿の上。


「わっ!!」


 叫んだのは、俺。


 どんな絵描きだって、こだわって描いてるもの……俺の場合はきれいなねぇちゃんのロケット巨乳……が不細工なダルメシアン柄になっちまえば、悲鳴をあげずにいられるわけがねぇ。

 あいつはデコの真ん中からティッシュを取って、素早く墨の染みて無い方の角っこを原稿の上に押しつけた。墨は広がらないうちに吸い取られ、シミが主線に被るような面倒な事態は避けられた。


 線が滲むような惨事にみまわれっちまうと、線を残してホワイトで塗りつぶすなんてイラ付く修正をしなけりゃならなくなる。

 俺はやりたくないし、あいつに押しつけるのも面倒くさい。


 あいつは


「紙原稿スキャンのデジタル仕上げなんて中途半端なIT化をするから、こういうことになる」


 ぶつくさ言いながら、無駄にでかい道具袋から「マイ・ティッシュボックス」を取り出した。

 一箱二百円はする高級品、俗に言う「柔らかい方のティッシュ」ってやつだ。

 あいつはそれで自分の顔を拭いた。


 俺は思わず言った。


「原稿の方、拭けよ」


 大体こういうときは、言っちまったあとで、海より深く後悔するのが相場だ。

 本物のおっぱいと紙のおっぱい、天秤にかけて紙の方を取ったとありゃぁ、取られなかった方の持ち主は、怒るのが道理だろう。


「データ上で消す。どのみちしっかり乾くまでは


 事務的に言うあいつの声は、とげとげしている。眠たそうな二重の目を針みたいに細くして、俺を睨む。


「墨汁は、乾くのが遅い。ゴムかけできるようになるまでの時間が無駄。ハナからパソコンで描けなんて野暮は言いやしないけど、せめて製図インクか耐水インクに替えられないもんかね?」


「俺は墨汁の真っ黒が好きなんだって。製図なんて薄いのはゴメンだね」


 ここだけは絵描きとして譲れない。でも、突っぱねておいて、また後悔する。


「製図の黒は充分な黒。印刷にもちゃんと出る。そもそも入稿前にデジタルにしてる。もしどうしようもなく薄くっても、ちゃんとあんた好みの真っ黒に調整できる」


 理屈が帰ってきた。反論の余地のない、圧倒的に正しい理屈が。

 俺はあいつのこういうところに弱い。餓鬼の頃から絶対に勝てない。


 妙に頭が良いんだ。俺なんか到底敵わないくらい利口だ。

 高校が一緒だったのは、あいつが本命と滑り止めの進学校、両方とも落っこったのが原因。

 その度、乗る電車間違えて試験に間に合わなかった、なんて、薄ら笑いながら同じ言い訳してたっけ。

 もっとも、そんな不運でもななきゃ、あいつがあんなバカ田高校に入るはずがない。謎は、なんで次の受験までの時間つぶしの筈が、きっちり卒業まで居座ってたのか、だ。


 臍曲がりの顔をじっと見た。寝不足で浮腫んでいる。

 妙に向かっ腹が立った。腹が減っているからかもしれない。


「うっせぇ! 俺の漫画だ。俺の好きに描かせろや!」


「お好きにどうぞ。こっちは口を出すだけ。決定権はあくまでもそっち」


 あいつはぷいっと立ち上がって、のろのろと仕事部屋から出て行った。

 足音は台所に向かっている。水が流れる音がした。

 顔を洗ってるんだろう。

 それにしては何かガタガタ音がする。


 もしかして服を洗っているんだろうか。

 そういえばよさげな服だった。っていうか、オシャレな服だった。

 高いヤツかな。墨汁は染みると落ちないんだ。偶然の事故だけど、悪いことをした。


 服を洗ってるんなら、あいつは今、服を脱いで、半裸で、台所にいるってことか――。


 そう考えたら、臍下三寸がむずむずした。

 無性になさけなくなって、ため息を吐いた。


 今日は……いいや、もう丑三つ時を小一時間過ぎているから、本当は昨日だ。

 昨日は特別な日になるはずだった。

 締め切りぶっちぎってとんずらこいたスカタンの穴埋め用に八ページ、なんて無茶を押しつけられさえしなければ、こんなイカ臭い仕事場に二人閉じこもってなんかいるはずがなかった。


 飯でも食いにでかけてたんだ、本当は。映画でも見ようかってハナシだったんだ、本当は!

 安物だけど内緒で指輪だって買ってあったんだ、本当は!!


「コンチクショウ! 腹減った!!」


 誰に言ったんでも無い。ただ、叫んだだけ。

 それなのに、返事がしやがった。


「五分、待つ!」


 意味のわからない、妙ちきりんなあいつの言葉がドアの向こうからした。


「知るか! 減ったモンは減ったんだ!!」


 八つ当たりに、ポケットティッシュを三つ四つ鷲掴みにしてドアに向かって投げつけた。

 そのドアが開いた。

 ポケットティッシュがパタパタと音を立てて、巨乳の・・・ねぇちゃん・・・・・の体中に当たった。

 本当にあいつは運の悪いヤツだ。


「全く」


 あいつは不機嫌そうに呟いた。

 笑っていやがる。


 睨み付ける俺の鼻先に、旨そうなホットケーキが突き出された。


「ゴミはゴミ箱に、おやつは三時・・にって、いつも言ってるでしょう」


 デートハウツーのディスクを突っ込んだままのDVDプレイヤーのタイマーが、「2:55A.M.」って数字を光らせていた。


 特別な日になりきれない、割と普通な、俺とあいつの誕生日の夜が――もうじき明ける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゾッキ男とベタ塗り姫 神光寺かをり @syufutosousaku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ