こころが壊れるほどの恋でした

日櫃 類

たとえば星の湖、雪の朝



 わたしね、幸せな恋がしたいな。

 そう笑った彼女の顔を、今でも鮮明に覚えている。


 *


 青い海の、深い深い水底。

 ゆらゆら揺れる海藻と、その間をするする泳ぐ彩り豊かな魚たち。

 波は穏やかで、海面からの陽の光が砂の上に落ちてとてもきれいな場所だった。

 そんな海底を軽やかに歩くのは、黒いローブを纏った人影。このあたりは人魚も住まない恐ろしい魔女がいる場所であるから、あれがそういうものであることは明白だ。

 海の中に住むものはおよそ尾鰭を持っているものだけれど、魔女は例外である。魔女が魚の姿をしていればそれはただの人魚だし、人魚であれば魔女とは呼ばれない。だから魔女は尾鰭ではなく人の足をしている。

 ともあれその二本足で海底を歩いていく人物はある洞窟へと入っていった。片手に携えたランタンへ指を振ると、青い炎が灯る。水の中でも消えない明かりは洞窟の中を鮮やかに照らした。

 いくつかの分かれ道を経て、ローブの人物はある大きな部屋へ辿り着く。

 洞窟の中で唯一、天井のない空間。白い砂に白い陽光が惜しみなく落ちるその部屋の真ん中に、大きな真珠貝が佇んでいた。正確に言うのであれば、それは貝の形をしたベッドだった。

 薄桃色のふわふわしたシーツの上に丸くなって眠るのはひとりの少女。陽を受けてきらめく美しい金髪に、よく映える白い肌。長い睫毛は伏せられ、穏やかな呼吸とともに慎ましやかな胸が上下している。

 ローブの人物は貝殻へと歩み寄り、その縁へ腰掛けた。薄いように見える貝殻だが、びくともしない。

 火をかき消したランタンを棚の上に置き、人物は彼女の足に手を触れる。少女がぴくりと体を震わすも、起きる気配はない。

 少女の足。

 白に近い薄青のドレスから覗く足。

 腕や首筋のような滑らかさのない――

 ドレスよりも深い青の鱗が足のところどころを覆っている。それは爪先に行くほど厚く多くなり、少女の華奢な印象を恐怖を覚えるものへと塗り替えてしまう。

 ローブの人物はその鱗をひとつずつ丁寧になぞり、愛おしげに、あるいは痛ましげに首を傾けた。その際人物の顔を覆っていたフードが波に揺られて後ろへ落ちる。

 ローブの人物は、まだ年若い少年だった。

 背丈もそれほど高くはなく、若干の幼さの残る顔立ちに似合わず、髪の色がすべて抜け落ちていた。鱗を撫でる手も生身ではなく、球体関節のついた義手であった。

 見た目から推測される年齢は実年齢よりいくらか上に見えることだろう。その姿はその何もかもがちぐはぐで、不自然な印象を与える。

 少年は少女の頭のそばへ移動する。すやすやと寝息を立てる彼女に安堵と心配を綯い交ぜにしたように笑いかけた。


「今日も、よく晴れてるよ。この部屋にいたらわかると思うけれど」


 長く艶やかな髪に指を通し、語りかける。

 少年の日課だった。眠ったままの彼女にその日あったことをこうして報告すること。もちろん、彼女は眠っているから返事があるわけではないけれど、話に興味を持って起きてくれたらいいとひそやかな願いが込められている。


「このあたりは静かで、なんにもないけど、珊瑚も砂も、魚もきれいでいい。はやく、君にも見せたいくらいだ」


 懐から貝殻と真珠で飾られた櫛を取り出し、髪を梳いていく。彼女は少し身動ぎをする程度で、特に反応はない。

 この洞窟に彼女を連れてきたのはほんの数日前だ。人魚も住まない、魔女の海域。

 その魔女も既にいない。数日前に命を落とし、永遠とも思えた寿命を終えたのである。

 陰気で恨み辛みで出来ているような魔女がいなくなったから、この海域も本来の明るさを取り戻した。記憶にはずっと暗くおどろおどろしい景色ばかりがあるので、本来がこれほどきれいな場所であったことには驚いた。

 とはいえほんとうになにもない場所なので、報告できることといえば天気の話と水面が美しかった話、珊瑚や魚との話くらいしかない。少し遠くへ行けばまた別だが、眠り続ける彼女をひとり置いて遠出する気にはなれない。

 ――と、波が荒立った。入口の方だ。

 こんなところを訪れる人魚はすきものでない限りいないし、鮫や鯨でこんなにも波は荒立たない。であれば、答えはひとつ。


「君の眠りを妨げる奴が来たみたいだ、行ってくるね。少し、待っていて」


 白魚の様な彼女の手にそっと口付けを落とし、ひとつ笑って言う。ランタンを取り、火を入れて部屋をあとにした。



 洞窟を出ると、思った通りだった。

 海面を通してできる美しい陽の影はなく、ただただ大きな黒い楕円の影が不躾にも存在している。それもみっつも。海底が嫌な暗さになってしまっている。

 少年は舌打ちをして、海底を蹴る。泡を纏って海面へと上がり、ざぱっと大きく波を立てて海を出た。指を一つ鳴らして水分を飛ばし、そのまま海面に立つ。


「何の用かな、ここは僕の海域だと知っているはずだけれど」

「ああ、知っている。だから来たのだ」


 少年の問う声に返すのは彼よりも随分低い男の声。先頭の船の看板から海を見下ろす見目のいい男は、腰に細剣を差し白の礼装が存在感を際立たせている。裏地が派手な赤のマントをたなびかせて、しゃんと立つ姿は絵に描いたように王子然としていた。

 いや、王子然もなにも、この男は王子なのだ。先日婚約者と盛大な式を挙げ、あとは戴冠式を控えるだけとなった、次にこの国の王となる男。

 男は穏やかだった。よく笑い、よく民草にも心を砕き、誰もが良き王となることを確信するくらいに。

 その王子も、どうも少年を前にしては冷静ではいられないらしかった。端正な顔を怒りに歪め、その鋭い眼で少年を睨み付ける。


「そうだ、知っているから来たのだ、憎き魔女よ。いや、男であるのなら魔女と呼ぶのは相応しくないか」

「なんでも好きに呼ぶがいいさ。僕は君の言うところの『憎き』もの、呼び方に気を遣われる謂れはない」


 はん、と鼻で笑うようにして少年は肩を竦める。手に持ったランタンの中で青い炎がゆらりと揺れ、少年の白い髪を青く濡らす。

 王子はぴくりと眉を動かすも、怒鳴り散らすことはさすがになかった。ただ、聞きたいことを簡潔に問うた。


「俺の命を救ってくれた人魚の少女を探している。おまえが連れ去った少女だ、美しい金髪に澄んだ青い瞳の」

「さて、僕が連れ去っただなんてひどい言いがかりだな。君が選ばなかっただけだろう、あれほど一途に君を想った彼女のことを」

「……賎しい、卑劣な魔女めが。おまえが彼女の声を奪い、足に痛みを与えて邪魔をしたのだろう」


 奥歯を噛み締め、組んだ腕と言葉に力が入る王子。対象的に少年は余裕を含んだ笑みで言葉を返す。少年の悪びれない態度に王子よりも後ろに控えた騎士がざわめく。


「そも。君は隣国の王女に助けられたのだろう? だから彼女を妃に迎える決断をしたのではなかったか、『君が助けてくれた、君にすべてを捧げよう』なんて、言って」


 少年はあの嵐の夜を思い出す。王子の誕生日を祝う豪華な船上でのパーティーは突然現れた嵐によって大きな事故となる。王子も海に身を投げ出され、いくら泳ぎが得意だったとしてもたかが人間ごときに荒波を超えられるはずがなかった。

 だから助けたのだ。華麗に鮮やかに海を往く、人魚の少女が。

 王女は狩猟も剣もいらなければ泳げる必要もない。隣国の王女は特に城の中に籠りがちだと噂だったから、彼女が助けられるはずはないのだ。次期王妃の座に目が眩んだ、ただの嘘つきであると――少し考えればわかるはずなのに。


「君は知らない。あの嵐、人魚にとっても危険な荒波だった」

「だからこそ……妃へ迎え、考えうる幸せを与えたいのだ」

「いいや、まだわからない? 君を想い君を助け君に愛されたくて、綺麗な声も美しい尾鰭も捨てて立つことすら地獄の激痛と交換してまで――君と同じ足を手に入れたんだよ、あの子は」


 それを目の前で裏切ったのは君の方だ、と少年は冷えた声音で突き立てる。王子はそんな勝手な、と歯軋りに混ぜて零す。勝手、勝手。ああ勝手だとも。


「恋とは得てして勝手なものだよ。ひとりで燃え上がり、ひとりで冷めてしまう。その前に愛へと昇華してあげられなかったのなら、もう手遅れだ」


 だってもう、壊れてしまった。傷ついてしまった。苦しくて楽しかっただけの想いは彼女が泡になる選択をした時点で消えてしまったのだ。

 それを今更に気づいても、遅いというほかはない。

 少年は青い炎の灯るランタンの手首の上を通してくるりと回す。するとランタンはすすすと長い柄を持ち、杖へと変化する。杖の上部にはランタンが付いていて、変わらず青い炎がゆらゆらしていた。

 少年が一振する。ランタンから青が零れ、少年と船との間に炎の壁が築かれる。


「くっ……! 魔女め、何を――!」

「もう帰ってくれ。彼女の終わった恋に、今更泥をつけないでもらいたい」


 炎の壁は厚く、ただの人である彼らに突破する手立てはない。たとえ捨て身に超えたとしても、少年は軽々とそれを射落とすだろう。 むしろ今、直接命を取られないという現状に感謝せねばならない。

 少年はそれ以上王子らの言葉に耳を貸すことはなかった。彼らに対する最低限の礼は尽くした。わざわざ迎えに来たその行動への返礼には十分だろう。

 ただ、もっと早くに彼女に気づいてくれたら。


 部屋へ戻り、ランタンの火を消す。

 変わらず眠っているはずの少女になにか声をかけようとして――彼女が体を起こしていることに気づいた。


「お――おきたの? いや、それより、大丈夫?」


 この数日、何を語っても何が起きても起きる兆しのひとつもなかった少女は貝殻のベッドの上で呆然と座り込んでいる。慌てて駆け寄り、彼女の顔を覗けば、大粒の涙が溢れていた。


「足が痛い? それとも喉?」


 彼女へ掛けられた呪いは、まっとうな解き方をしていない。泡になってしまう直前の解呪でもあった。その結果がどちらつかずになってしまった鱗塗れの足だ。ずっと眠っていたから分からないが、もしかしたら声にも異常があるかもしれなかった。

 けれど、少女は首を振る。


「い、たいの。すごく。いたかったの」

「……うん」

「幸せな恋がしたかったの。優しくしてもらえて、嬉しかったの」


 彼女の声は、呪いを受けて失くす前の美しい声には及ばずも、鈴が鳴るような愛らしい声だった。久しぶりに聞いた少女の声にはからずも胸が締め付けられる。


「でも、いたかった。すごく、いたくて――こんなにも苦しいのなら、わたし、もう恋なんてしたくない、よ」


 少女はぼろぼろと涙を落とす。それが彼女のドレスやシーツの上に大きなしみをつくっている。だらんと腕は降りたままで、涙を拭う気力もないようなのだ。

 だから。

 だから魔女に育てられた少年は、そっと少女の手を取って。

 彼女の涙を掬ったのだ。


「うん、だから、ここを離れて世界を見に行こう。せっかく足が残ったから海の他にもたくさん行ける」


 満点の空が映り込む星の湖も。

 辺り一面真っ白な冬の雪原も。

 緑豊かな大地を彩った花畑も。

 ぜんぶ、全部、見に行ける。

 そうしたら海よりも美しいものに出会えるかもしれない。恋よりも夢中になれるものがあるかもしれない。


「足が痛いなら僕が君を背負うよ。喉が痛くても僕なら君を分かれる。だから、大丈夫」


 だってずっと見てきたのだ。恋に恋する彼女のことも、王子に夢中になる彼女も、幼い頃だって、ずっと。

 そんな少年が彼女に望むのはただひとつ――


「――どうか、もう、死ぬことを選んだりしないで」


 意地悪な魔女はもういない。

 彼女に掛けられた呪いを解くために魔女はいてはならなかったから。

 好きになった人を殺すか己の死か、なんてひどい選択はもうしなくてもいいのだ。

 少年は切実に、少女の手を握った。わずかに震えていたのは自分の手だったのか、握られた少女の手だったのかは定かではない。


「――――――うん」


 少女はひとつの頷きと、手を握り返すことを答えとした。少年は心底の安堵とこれからを思って、少女に微笑んだ。


「そしていつか、どこかで、きっときみを幸せにする恋に、出会えるよ」


 と。

 少女の額に自分の額を押し当てて、少女の傷ついた心にあたたかな希望を灯した。


 *


 この海にいる魔女に尾鰭がないのは、彼女がもとは人魚だったからである。

 尾鰭と交換に足を手に入れたのに、人との恋を叶えられなかった人魚の乙女の成れの果て。少年の母も、そんな魔女だった。

 恨み、儚み、人に恋する人魚に無理難題を押し付けるただの悪と成り下がっても母は母。彼女が、ひどく苦しんだことを知って。『解呪』の代償が己が髪と失くした腕、そして血濡れになることであると知っても、少年はなお願う。

 人に恋をした少女が、その恋にすべてを壊されてしまわないことを。

 願わくば、新しい恋への糧にできるようになることを。



おしまい

 

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