第二章
エリシュカと暮らし始めて早三ヶ月。
この家での生活にだいぶ慣れてきたらしく、エリシュカは一人でも何かしら行動を起こしている時間が多くなった。しかし、もともと観賞用で性能の低いエリシュカにできることは多くない。
エリシュカが失敗をしたときに後始末をするのは私だ。
いろいろと手間はかかるが、エリシュカを叱ったり行動を制限したりするつもりはなかった。なるべく自由に、好き勝手にやらせている。
主からあまり良いとはいえない扱いを受けてきた分、めいっぱい甘やかしてあげようと思っていた。
わかっている。どんなに可愛がったところで、ロボットのエリシュカが愛情を感じ取ることはない。そのくらいはわかっているのだ。それでも、エリシュカを愛でていたかった。
自己満足と言われれば、反論はできない。
やはり人間というのは身勝手な生き物だ。自分にとって都合のいいものばかりを求める。
自嘲気味に笑い、読みもせず広げるだけ広げていた新聞をたたむ。
微かに機械の作動する音が聞こえてくる。離れの工房からのようだ。仕事を終えた後に何かのスイッチを切り忘れたのだろうか。それとも――
「エリシュカなの?」
工房の扉を開くと、エリシュカの後ろ姿が見えた。彼女の前には、大きなシュレッダーに似た箱型の機械がある。高さが大人の腰のあたりまであるその装置は、鉄などの金属を粉砕して細かなフレーク状にするためのものだ。チョコレートを溶かすときに包丁で細かく刻むのと同じで、フレークにすると塊よりも溶かしやすく加工しやすくなる。不要になった金属類はそうしてリサイクルするのが一般的な方法だった。
私がいつもやっているのを見て学習したのだろう。エリシュカは傍らの資材置き場から鉄パイプを拾い上げ、機械の挿入口に押し込んでいく。
おぼつかない手付きが心配で隣に立ち見守っていると、案の定というべきか、エリシュカは鉄パイプと一緒に自分の指まで挿入口に巻き込みかけた。
「危ない!」
咄嗟にエリシュカの腕を掴み、事なきを得る。
「大丈夫ね。よかった……」
エリシュカの白い手をそっと握り、指の先まで確認して安堵の溜め息をつく。
「申し訳ありません。私は作業用ロボットのように器用ではないのに、細かな仕事にまで手を出したのは判断ミスでした」
エリシュカは相変わらず抑揚に欠ける淡々とした口調で、表情も動かない。
「でも、私を手伝おうとしてくれたのは嬉しいわ。ありがとう」
やるなとは言わない。ある程度は学習能力を持つエリシュカなら、わざわざ注意せずとも、もうこの装置を弄りはしないだろう。
「マティルダ、私はお礼を言われるようなことは何もできていません」
「いいの。私が言いたいから言ったのよ」
「そうですか」
エリシュカの手を引き、工房の中央にある作業台へと誘う。
「今日はメンテナンスの日でしょ。工房に来たついでに済ませてしまいましょ」
共に暮らすようになってから、少しでも長くエリシュカの美しさを保ちロボットとしての寿命を延ばすため、必ず週に一度メンテナンスを行っていた。
「はい」
エリシュカは素直に頷き、私が見ている前でためらいもなく洋服を脱いで一糸纏わぬ姿を晒す。使われている材料は粗悪だが、さすがに観賞用だけあってボディラインまでもが美しい。しかし、どんなに容姿が美麗でも、たとえ高性能の最新型でも、飽きる人はすぐに飽きて捨ててしまう。機械技師としては、非常に嘆かわしく腹立たしい現実だ。
「始めるわよ」
作業台に寝たエリシュカの胸を開き、慎重に手入れを進めていく。同じように、腹部、両手足……と、全身くまなく点検。内側に付いた汚れを取り除き、磨耗した部品があれば交換したりもする。
最後に手を付けたのは頭。
人型ロボットは頭部や心臓部に重要な機関が集中している場合が多い。エリシュカもそうだった。言うまでもなく、頭と心臓は人間の生命維持に最も深く関わる大事な部位である。外見が人間を模しているだけに、自然とそういう設計をしてしまうのだろう。
髪の毛と一緒に頭部のカバーを取り外し、これまで以上に注意深くメンテナンスを始める。
十分ほど経った頃、いつもは無言でされるがままのエリシュカが不意に口を開いた。
「何故、マティルダは私の記憶を覗こうとしないのですか」
思わずピタリと手を止める。
「なんだかプライバシー侵害するみたいで気が引けるのよ」
半分は本当。半分は嘘。
「私は構いません。見てください。前世に関するヒントが見つかるかもしれません」
前世探しに協力すると言って引き留めている手前、ここで断るのも不自然だ。
「ええ……、わかったわ」
本音を言うと見たくはないが、そう答えるしかなかった。
エリシュカの記憶回路と壁際に備え付けたモニターとをケーブルで接続し、画像を映し出す。時系列に沿って記録されたデータを遡り遡り、ようやく雑貨屋の主に買われる前の記憶に辿り着いた。
湖。
雑踏。
うろこ雲。
何の関連も無さそうな三つの短い映像。それ以前のデータはない。ならば、この映像がエリシュカの言う謎の記憶と考えて間違いないだろう。
「何かわかりましたか」
手元のサブモニターと映像を何度も見比べていた私は、エリシュカの声に気付けなかった。
「マティルダ」
普段より少し大きな声で名前を呼ばれて、鼓動が跳ね上がる。
「ごめんなさい……。確認はしたけど、すぐにはわからないわ。また今度、詳しく分析してみるから、今日はもう終わりにしましょう」
振り返りエリシュカと向き合った今の私は、自然に笑えているだろうか。ぎこちなく引きつってはいないだろうか。
「……はい」
エリシュカが返事をするまで妙に間が空いた気がする。
気のせいだ。そう思うことにした。
夜の帳が下りる頃、私たちは寝室でゆったりとした時を過ごす。今ではこれが何よりも好きな時間だ。
鏡台の前にエリシュカを座らせ、金色の髪を少しずつ手のひらにすくい上げブラシを通す。
「エリシュカの髪は化学繊維だから絡まりやすいでしょ」
髪に使われている繊維もあまり質が良いとはいえない。静電気の起こりにくいブラシを使って毎日ブラッシングしてあげているが、それでも何かの拍子に絡まってしまうと解すのに一苦労だ。
「そうですね」
エリシュカ本人は絡まって当然のものと認識しているようだった。
「あのね、街でウィッグ用のシリコン入りクリームを見つけたの。使ってみてもいいかしら」
「どうぞ」
円い容器に詰まった半透明のウィッグ用クリームは、最近できたばかりの舞台衣装等を扱う店に興味本位で入って見つけたものだ。ウィッグも大概は化学繊維でできているのだから、エリシュカの髪にも使えるはずだと思い購入した。
微かに花の香りがする柔らかなクリームを優しく髪に撫でつけ、ブラッシングを繰り返す。
シリコンの効果で次第にブラシの滑りが良くなってくる。艶やかに輝きを増したブロンドに手ぐしを通すと、抵抗なくスムーズに指の間をすり抜けていく。
「うん、サラサラになった。ほら、艶も出てキレイよ。それに、いい匂い……」
振り向いたエリシュカの頬に触れ、硬く冷たい唇に口づける。ロボットのエリシュカは突然のキスにも全く動じない。
「さ、もう寝る時間よ」
「はい」
促されるままエリシュカは私と同じベッドに入る。そして、私たちは顔を向き合わせる形で横になる。エリシュカに睡眠は必要ないが、私が頼んでそうしてもらっているのだ。
「マティルダは夜でも私のスイッチを切らないのですね」
唐突に、エリシュカがそう呟いた。
「前は切られてたの?」
「はい。燃料の無駄だからと」
「もったいないわ」
「いえ、ご主人様は節約だと……」
「そういう意味じゃなくて」
エリシュカの細い腰にそっと腕をまわし、コツンと額をつき合わせる。
「こうして傍であなたと話をして、あなたの声を聞いて眠りにつくのはとてもいい気持ちなのに、スイッチを切ってしまうなんてもったいない」
心の底から出た言葉。たとえ人工的に作られた声でも、今の私にとってエリシュカの声は最高の子守歌代わりになる。
「それにね、眠っている間もずっと私を見つめていてくれるのが嬉しいの」
手入れしたばかりの髪をやんわりと撫でながら、微笑んでみせる。
「だから、私にとっては無駄じゃないのよ」
親指でエリシュカの唇をなぞり、もう何度目かわからない口づけを交わす。
「おやすみ、エリシュカ」
「おやすみなさい、マティルダ」
エリシュカを抱きしめ、そっと目を閉じる。全身で味わう硬質の感触がたまらなく心地良かった。
このまま、ずっと。ずっと、ずっと。私の命が尽きるまで。この暮らしが続けばいい。そう願っていた。
初めのうちは、なんとかして最終的にはエリシュカが納得する形の答えを用意してあげたいと、本気で思っていたはずだった。それなのに、エリシュカと過ごす日々が幸せすぎて、いつしか彼女の前世云々はどうでもよくなってしまった。
私は今、エリシュカを愛してる。
エリシュカと一緒なら、きっと姉を亡くした悲しみさえも乗り越えられる。
だから、今日も私はエリシュカと共にいる。
庭先の木陰に設置した小さなベンチで本を読む私の隣で、エリシュカは何をするでもなく静かに座っていた。少し前までは、姉の指定席だった場所だ。
「雨でも降りそうな空模様ね。中に入りましょうか」
曇り空に気付き、読んでいた本を閉じた。
「マティルダ」
ベンチから立ち上がった私を、不意にエリシュカが呼び止める。
「何?」
「教えていただけませんか」
「……何の話?」
「私の記憶を覗いて、気付いたことがあるのではないですか?」
エリシュカの言葉に身体が強張り、手に持った本の背を握り締めた。
記憶回路を確認してから、ちょうど一ヶ月。
あの日のメンテナンス以来、まだ調査中だからと結果を告げない私に、エリシュカはこれまで何も問おうとしなかった。
どうして今ごろになって――
鼓動がいつになく乱れるのを感じた。
「あのときマティルダは動揺していました。……今も、動揺していますね。マティルダが言いたくなさそうにしていたので黙っていたのです。いつか話してもらえると判断して待っていたのですが、一向にその気配がありませんでしたので」
やはりエリシュカは気付いていた。精一杯、何事もなかったかのような素振りをしてみせたつもりだったのに。
「教えていただけませんか、マティルダ」
エリシュカの冷静さが憎らしい。
もう嘘はつけそうになかった。
声を出すまいと抵抗する往生際の悪い喉から、懸命に言葉を絞り出す。
「画像の詳細を確認していて見つけたのよ。『test』の文字を」
とうとう事実をエリシュカに告げた。
「どういう意味かわかる?」
私の問いに、エリシュカは首を横に振る。
「記憶回路が正常に作動するかテストするために、適当な画像や動画を保存してみる……それは珍しいことじゃないの。本当なら出荷前に初期化されるはずなんだけど、稀に画像が残ったままで売られるケースもあるのよ。大概の場合は点検ミスね」
機械技師を目指して勉強をしていた頃、スクールの講師から余談として聞いた一つの事例。エリシュカと出会った日、彼女の話を聞いて、記憶の片隅に残っていたこの事例が脳裏によぎった。
そう、私は初めから知っていた。
確信はなかった。しかし、可能性を疑ってはいた。
そして一ヶ月前、現実を目の当たりにしたのだ。
「ねえ、エリシュカ」
縋るような気持ちで名前を呼ぶ。
「目的がなくなったんだから、もう探しまわる必要はないわよね」
「そうですね」
エリシュカの返事に僅かながら安堵を覚えたとき、水の粒がポツリ、ポツリ、と落ちてきて地面に小さな跡を残し始めた。
「……降ってきたわ。中に入りましょう」
「はい」
私が差し出した手を、エリシュカは握り返してくれた。
――大丈夫、私たちは何も変わらない。
自分に言い聞かせながら、エリシュカの冷たい手をぎゅっと握りしめた。
夜が更けても雨は止まない。だんだん強くなる雨音。私たちはいつものようにベッドで向かい合い寄り添って眠る。正確には、私だけが眠りについた。
翌朝。
私が目を覚ましたとき……、隣にエリシュカはいなかった。
「エリシュカ……?」
どの部屋を覗いても、エリシュカの姿は見当たらない。
最後に工房の扉を開き、中を見渡す。ここにもエリシュカはいない。その代わり、作業台の上に昨日まではなかった一枚の紙が置かれていた。恐る恐る紙を手に取り、綴られた文字に目を通す。
そこにはこう書いてあった。
私の前世を探す必要がなくなり、ここに置いていただける理由もなくなりました。
今までありがとうございました。
「エリシュカ!」
思わず叫んで外へ飛び出した。寝間着代わりのシャツのままで。
もう雨は止んでいて、見上げればすっきりと晴れた青空に七色の虹がかかっていた。気持ちのいい朝のはずなのに、私の心には虚しさしかない。姉を失ったときと同じだ。
「エリシュカ……」
いなくなってしまった。名前を呼んでも彼女の返事はない。呆然としたまま、ぬかるむ地面に足を踏み出す。一歩、また一歩。
ぬめる泥に足を取られ、倒れ込んだ。白いシャツが土の色に染まっていく。きっと顔も泥にまみれているのだろう。なんて無様。なんて滑稽な姿。
こんなことなら、エリシュカに登録されている主のデータを消してしまえばよかった。私を正式な主に変えて「ずっと私の傍にいて」と約束すればよかった。そうすれば、エリシュカは出ていけなかった。
それがどうしてもできなかった。
ずっと傍にいると約束した姉が他界した日から、私は人と大事な約束を交わせない人間になっていた。
大切な約束であればあるほど、破られたときには深く傷付く。
怖かった。約束したら、かえってエリシュカが遠くなる気がした。
馬鹿だ。
エリシュカは人間とは違う。ロボットにとって主との約束は絶対。命令と同じ意味を持つ。中途半端に人間と同様の扱いをしていたのが裏目に出てしまったようだ。
本当に馬鹿で愚かしい。
相手はロボットなのだから、どんなに愛しても愛されはしない。わかっていたのに。
それでも私はエリシュカを――
ひゅう、と風が吹いた。
木の葉に残った雨露がパラパラと降ってきて、いくつかの雫が私の頬も濡らした。
今、頬を伝っていったのは、雨粒か涙か……。
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