(6)

 レグルスもまた質素な衣服に身を包み、太陽を模した聖印を首から下げて、ソル・ソレラ使節団の一員としてロズルノー入りした。ヴァーチュアが確たる情報を得るまで、無心で炊き出しや街の清掃、ロズルノー教会の田畑の手入れなどに従事し、ひたすらに待つつもりだった。夜は歓楽街の安食堂で皿洗いや野菜の皮むきをして、レグルス自身も情報収集に出たが、ジェスティンの支配力は思った以上に強く、少し酒が入ったくらいでは騎士たちの口が緩むことはなかった。

 ヴァーチュアも苦労するに違いない。水仕事の傍ら、すっかり荒れた指先に軟膏をすり込んでいると、出入りの酒屋がやって来て目配せを寄越した。彼はアヴェンダの密偵である。

 仕事がはけてからヴァーチュアのいる娼館へ向かう。白粉と酒、花の甘ったるい匂いに辟易しながら控室で待っていると、いつにも増して気だるげな様子のヴァーチュアが下着同然の格好でどっかりと腰を下ろした。手近にあった薄物を投げてやると、苦笑しながらそれを羽織る。

「も、ホントきついわ、ここ。放っておいても騎士たちの欲求不満で崩落しちゃうかもよ」

「そんなにか」

 ヴァーチュアは頷き、小声で話し始めた。

「ジェスティンが着任してから、民への取り締まりも厳しくなったけれど、騎士たちも同じく締め上げられてるみたい。息抜きすることは許されているけど、酔った勢いでジェスティンの悪口とか、体制批判とか口にしちゃったらもう終わりだから、飲んでも飲んでも酔えないんだってさ」

「だから、きみらの出番なんだろ」

 まあねー、とあだっぽく髪をかき上げ、ヴァーチュアは続けた。

「でもまあ、そういう不健康な人たちのお相手って大変なわけよ。騎士たちもジェスティンやラグナシャスに比べりゃ、まともな方だからね。日常的に死体とか処刑とか見てるうちに、いろいろおかしくなってきてるみたい。騎士たちの中にも、突然大声をあげて走り回ったり、ユラ川に飛び込んだりする人がちらほら出てきたって聞いたわ」

「……そりゃ、ひどいな。早いところ配置替えして休ませないと、使い物にならなくなるぞ」

「そうなのよ。でも、そんな話はないし、ラグナシャスが王を名乗ってから政治らしい政治がなされてる気配もないんだって。自分たちはここで飼い殺しにされるんだって、泣いてた人もいたわ」

 ヴァーチュアの話を聞く限り、いろいろなことが限界に近づいているようだ。何よりも、人心を動かすことができねば国は成り立たない。恐怖をもって人心を掌握しようとすることが、どだい無理な話だったのだ。

「……で、そいつを落としたのか」

「牢番だってさ。運がよかったわ。ただ、状況は最悪かもしれない」

 関には半地下に設置された牢がある。もともと、関所破りを企んだ者や禁制品を輸出入しようとした者らを一時留め置くためのもので、罪人を輸送しやすいようにと、正面からは見えないが非常にわかりやすい場所にある。牢の鉄格子の他に扉は一枚しかなく、四交代制の牢番は外扉を見張るのみで、内部には立ち入らない。

「ずいぶん手薄なんだな。罠じゃないのか」

「罪人はすぐさま処刑しちゃうから、人を配置する必要がなかったんでしょ。罠って言うけど、牢に忍び込んで逃がし屋を助けてやろうなんて骨のあるやつはいないわよ」

 ヴァーチュアはあっさりと言ってのけた。

 牢番の言によると、摘発があった日にルネをはじめとする逃がし屋数名が牢へ入れられたそうだ。連日、ジェスティンが取り調べを行ったが、耳を塞ぎたくなるような絶叫が扉の隙間から漏れ聞こえるばかりで、死体が運び出される気配はない。やがて、その叫び声もぴたりと止んだ。殺されたか、舌を抜かれて声も出せぬか。昏い愉悦に目を輝かせ、血まみれで牢を出てゆくジェスティンの姿を、牢番たちは震えながら見送るしかないのだった。

「彼はルネが……隻腕の女が牢へ入れられるのを見たそうよ。でも、女の悲鳴は一度だって聞いたことがないって、そう言ってる」

 ヴァーチュアは泣きじゃくる牢番を宥め、絶対に秘密を口外しないと約束させたうえで、アヴェンダに逃がしてやるから、代わりに牢へ案内せよと持ちかけた。男は是非もなく頷き、協力を誓ったという。

「ジェスティンが牢に来るのは昼間だけだし、牢で何が行われてるかは関の騎士たちは誰でも知ってるから、好き好んで近寄ってはこない。夜ならば安全だろうって」

「で、そいつが次に夜番を担当するのはいつなんだ」

「明日」

 明日。レグルスは繰り返す。検討、吟味の時間が短すぎる。もっと念入りに準備したいが、救出が遅くなれば状況は悪化する一方だ。

「わかった。明日、決行する」




 アヴェンダと長く友好関係が続いたことで、かつて堅牢を誇ったロズルノーの関は徐々に解体され、今では重厚な城壁といった程度の備えしかない。牢番が見張りを交替したあと、レグルスとカーヴィンは夜陰に紛れて牢に接近し、カーヴィンが牢番と服を取り換えて警戒に立った。

 レグルスがルネを救出するまで牢番は扉の内側で待機し、再びカーヴィンと入れ替わる。勤務が明けると共に使節団に合流、ルネを連れて抜け穴を通るレグルスの代わりに、使節団の一員としてアヴェンダに渡るという手筈になっていた。ヴァーチュアは引き続きロズルノーで情報収集を続け、機を見てダリスタン領に戻る。今は、レグルスらの脱出の手引きをすべく、関の暗闇に身を潜めていた。

 だが、牢の内部へ一歩足を踏み入れた瞬間、牢番が立ちすくみ、ここで待つのは嫌だと泣きだした。凄まじい血臭と腐臭にレグルスでさえ顔を顰めたところだったから、無理を強いることはできない。彼に足を引っ張られる方がよほど危険だった。仕方なく、ヴァーチュアに牢番を託し、レグルスは再度、単独で牢に戻った。

 話どおり、牢は罪人の一時留め置きの場としてしか用いられていなかったようで、狭かった。通路を挟んで両側に鉄格子が二つずつ。悪臭の原因が左奥の牢であることはすぐにわかったが、レグルスもまた、そこに近づくのを躊躇った。

 呼吸の音、生者の気配は微塵もなく、格子に寄りかかったまま肉が朽ちはじめた死体を目にしてしまったからだった。川の岸壁側に通風孔があるらしく風は吹きこんでくるのだが、濃密な死の気配を紛らわせるほどではなく、息が詰まりそうだった。

 ルネはここにはいないのではないか。ふとそんな思いもよぎったが、折り重なる六つの死体の奥に、ルネはいた。右手には手枷が嵌められ、半ばから失われた左腕は天井から吊られた板に釘打たれている。両手足の爪はすべて剥がされ、どす黒い血が盛り上がって固まっていた。襤褸を引っかけただけの裸体は汚い傷や打ち身に覆われていて、もう息をしていないことが明らかな男たちの死体もそれは同じだった。

 摘発の日からこれまでに、この暗闇で為された非道。それはレグルスが思い描いたものとほぼ一致していたが、脳裏に思い描くことと目の当たりにすることはまったく違った。変色した肌の色、鼻が折れそうな悪臭、漏れ出した体液でぬめる床。苦いものが逆流してきて、喉が鳴る。

 最初の衝撃を乗り越えると、全身の血が一度に沸騰したかのような激情に揺さぶられ、レグルスは鉄格子を開け、牢の中に踏み込んだ。ルネは目を開いていたが、それは青い硝子玉でしかなく、何も見えてはいないようだった。身動きすらしない。

 激しく動揺する心とは別物のように、身体は自動的に動いた。牢番は手枷の鍵は持っておらず、カーヴィンに仕込まれた通りにブローチの針を鍵穴に差し込んで手枷を外し、腰の短刀を梃子のように使って左腕の釘を抜いた。傷口から、血と膿が流れ出る。

 傷を縛って止血していると、ルネの唇が震えた。

「……レグ、ルス」

「そうだ。助けに来た」

 ルネはしばし黙る。フレイは、と尋ねた声は、ため息のようにかすかで、震えていた。

「元気にしてるよ。ルネに会いたがってる。母もジェフラさまも、ルネが戻るのを待ってるんだ。……早く帰ろう?」

 恐る恐る覗き込んだルネの目は高く澄んだ空の色の光を取り戻し、潤んでいた。汚れた頬を伝った涙は黒く濁り、床に落ちる。レグルスは袖で涙を拭い、上着を脱いでルネに着せた。

「大丈夫だ、ルネ。きみはおれに負ぶさって寝てるだけでいい。次起きたときには、温かい寝台の中で、隣にフレイがいる」

「……はい」

 言いたいことはあるだろうが、ルネは唇を引き結んでこらえ、頷いた。すっかり骨と皮だけになった傷だらけのルネを背負ったレグルスは、ルネの右手から指輪の輝きがなくなっていることに気づいて視界が開けるような喜びを覚え、そしてそう感じた己を激しく嫌悪した。

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