(5)

 ソル・ソレラ教は南国、サリュヴァンで興った古い宗教である。

 土着の太陽信仰に端を発しており、太陽、月、空、海、大地といった自然に神の意志が宿り、人々は自然という神の意志に生かされているのだと考える、いわば自然信仰であり、苛烈な教義もなく寛容で、信者獲得のための大規模な活動が為政者とぶつかるようなこともなく、現在では各国で広く信仰されている。

 国祖であるイルナナージュ姫がソル・ソレラ教を信仰していたため、イルナシオンでは国教として各地に教会が建造されていた。前王ゼクサリウスの二人の王女も、このソル・ソレラ教会に匿われている。

 信者たちは自然の営み、つまり神の意志との共存を第一義としており、自衛のための武力を有する場合もあるが、ほとんどは争いを嫌い、静かに田畑を耕し、家畜の世話をして暮らしている。入信したからといって俗世と切り離されるわけではないが、ソル・ソレラ教への武力介入は人道的に問題ありとして各国で禁止されており、教会に身を寄せ、信者たちと慎ましやかな暮らしを続けている限り、身の安全は保証されていた。

 各国の信者たちは緩く連帯しており、戦災や天災の被災者、難民などに対して炊き出しや援助物資の運搬、医療や福祉の支援などを行っている。

 国の関が閉ざされてもソル・ソレラ使節団だけが国境を行き来できるのはこういうわけで、ジェフラの私兵としてソル・ソレラ教との繋ぎ役を担っているカーヴィンは、疲れきった顔でジュライのもとにやって来た。

「ひどいもんです。民はもう、囲いに入れられた鶏みたいなものですよ。声も武器も封じられた民が、黙って関の前に立ってるんです。一日中、雨の日も風の日もね。そうして睨んでりゃ関が開くかもしれないって、誰もが思ってるんでしょう」

 ソル・ソレラの使節団が行き来する際、共に関を抜けようと無茶な行動に出る民も後を絶たないが、国境を守る騎士たちは無慈悲に彼らを斬って捨て、その遺骸を見せしめに関の前に放っておくのだそうだ。

「ジェスティンってのは、相当騎士たちに恐れられてますね。遠目にちらっと姿を見ましたが、それほど……何というか、特別だという印象はありませんでした。ただ、その平凡さが豹変するなら、それはそれで恐ろしいでしょうな」

 カーヴィンの言に、レグルスは内心で笑んだ。よく言う、と。

 今でこそソル・ソレラの教徒として日々自然を相手に汗を流すカーヴィンだが、故郷のサリュヴァンでは金物師として生計を立てていた。細工だけではなく鍋釜の修理、ひいては錠前師のようなことまで幅広く手がけており、その腕の良さは遠くの都から富豪たちが仕事の依頼を携えてやって来るほどだったという。

 若かりし頃のカーヴィンはその手先の器用さと持ち前の好奇心で、錠前破りや縄抜け、掏摸など、悪行に手を染めはじめた。ほんの出来心で始めたことであったが、息詰まるような興奮と達成感の虜になり、気づけば裏社会でもちょっと名を知られるようにまでなっていた。

 カーヴィンの犯行は誰にも露見しなかったが、細工物を依頼に来た商人の奥方との逢瀬がばれるという失態を犯し、アヴェンダに逃げてきて、各地を転々とした末、活気に惹かれてダリスタン領に落ち着いたというわけである。

 ソル・ソレラ教会に居ついたのは彼なりの反省の表れであるが、その異色の経歴に興味を示したジェフラに雇われ、私兵となった。レグルスに錠前破りや縄抜けなどを仕込んだのも彼である。

「逃がし屋の摘発の時はどうだった?」

 ジュライが尋ねると、カーヴィンは申し訳なさそうに眉を下げ、唇を曲げた。

「実は、こちらには事前に通達があったんです。今夜一斉に摘発を行うから、教会から出ずに大人しくしていろと。もし不審な動きがあれば、共犯者として処刑すると言われて……慌てて繋ぎを取ろうとしたんですが、想像以上に見張りが厳しくて身動きできず……すみません、こんなことになってしまって」

「カーヴィンのせいじゃない。逃がし屋たちがどうなったかわかるか?」

「隠れ家に踏み込まれ、殺されたり連れ去られたりしたようですが……処刑されたという話は聞きませんでした。囚われて責められているか、それとも人知れず処刑されているのか……。ですが、ジェスティンが酷い性格っていうなら、間違いなく見せしめとして公開処刑にするでしょうね。責め殺されていないなら、逃がし屋たちはまだ生かされているはずです」

 うーん、とジュライは唸った。額に刻まれた三本の縦皺は、ここ数日ですっかり癖になってしまったようだ。レグルスも同じ気持ちだった。

 抜け穴の存在、ダリスタン領との密接なつながり、イルナシオンに潜む密偵たちの存在。逃がし屋たちがジェスティンに話してしまえば、今度はこちらが危険に晒される。死人は語らないが、生かさず殺さずの苦痛を与え続けられれば、どうか。逃がし屋たちがジェフラに恩義を感じていることは疑いようがないが、責め苦に耐えきる保証はない。

 ――ただ、ルネは。

 ルネは、口を割るまい。

 根拠はないが、それは確信だった。

 レグルスはルネの透明な高空の眼を思い出す。フレイを産んでからはさまざまな感情の光を灯すようになったルネも、それまでは人形のように味気ない無表情を装うことがあった。イルナシオンの騎士、王の剣であり盾である彼女らは、時に感情を殺してただの道具となる必要があったのだろう。

 自暴自棄というのでもなく、がむしゃらというのでもなく、ただ淡々と自らを駒だと割り切れる冷徹さとある種の潔さが、レグルスは哀しい。

 ひとたびルネが口を閉ざせば、何人たりとも、どんな手段をもってしても、彼女から望む言葉を引き出すことはできないだろう。彼女は人であることをやめ、ひとつの「もの」として、あらゆる苦痛に耐え抜き、そしてやがては壊されてしまうのだろう。

 ――そうなる前に、何としてでも救いたい。

 ルネの救出を願った自らの心の動きに、レグルスははっとする。

 居場所すらわからぬ囚人を探しだし、綿密な計画を立てて救出するよりも、一思いに口を封じてしまう方がはるかに易しい。ジェフラを、アヴェンダを危険に晒さぬためにも、すぐさま実行すべきだった。

 ルネの救出を願ったとしても、ジェフラが頷く可能性はないに等しい。彼女を救う利が何ひとつないからだ。

「ひとまず、あたしの出番かな」

 黙っていたヴァーチュアが、うっそりと立ち上がった。

「逃がし屋たちが捕まったなら、多少警戒は緩むでしょ。彼らをどうするにせよ、居場所くらいは掴んでおかなくちゃね」

「……ヴァーチュア」

「情けない声出さないでよ、レグルス。別に何をしようってわけじゃないわ。いつも通り、あたしはあたしの仕事をするだけよ」

 ヴァーチュアは戸棚を探り、黒い染料を取り出すと、裏手の井戸端へと消えていった。

 彼女の赤毛は目立つ。ソル・ソレラの使節団の一員としてロズルノー入りするために、髪を染めるのだ。




 圧政に苦しむイルナシオンにも、逞しく生きようとする民はいる。彼らはロズルノーをはじめとする国境地帯に移住し、関が開くのを待つ民や駐在の騎士らを相手に商売をはじめた。食堂、宿、雑貨店などで、急造された店構えこそちゃちなものだったが、一帯は歓楽街としてにわかに活気づいた。

 息抜きの場まで奪っては騎士たちの士気にかかわると踏んでか、歓楽街が規制の対象になることはなく、ヴァーチュアはそのうちの一軒に落ち着いた。女将もまたジェフラの息のかかった者で、女たちは密偵であることも、そうでないこともあったが、下手に頭角を現しては目をつけられ、目立たない店のままでは情報も集まらない。そのあたりの匙加減が非常に難しく、女将の手腕が問われる。

 ヴァーチュアは娼婦である。ジェフラとの面識がどのようにしてできたのかは、恐ろしくて訊いたことがない。

 華やかな美貌と少し鼻にかかった甘い声、大きな目と長い睫毛、一度も陽の光を浴びたことがないのではと思われる白い滑らかな肌を武器に、どこの街、どこの店でも人気を博した。彼女が得た情報は、ジェフラにとっても店にとっても有益なものが多く、一体どうすればそんな話術が可能になるのかとレグルスはいつも疑問に思う。尋ねたところで、「試してみる?」などとかわされるのが落ちだろうが。

 カーヴィンも再びロズルノーに渡り、使節団の活動の傍らで引き続き情報を集めることとなった。ルネや逃がし屋の安否はまだ明らかになっておらず、またしても、待つだけの苦しい時間が流れた。

 レグルスはタレスに呼び戻され、ジェフラの執務室で氷柱のような視線に射抜かれていた。

「ルネを助けたいって? 何のために? 危険に見合う価値が、ルネにあるとでも?」

「……いえ」

 ジュライめ、告げ口しやがったな。内心で毒づくが、ジェフラの正論を切り崩すだけのものを、レグルスは持っていなかった。

「フレイのため、とか」

「落第だな」

 ジェフラの声は冷たい。だが、フレイのためという取ってつけた返答が落第ということは、及第点をもらえる答えもあったのだろうか。

「……おまえはすぐに諦める。もう少し我を通してもいいんだぞ」

「我を通す、とは……」

「昔のような悪たれに戻るってことだ。おまえたちは禁止されたことばかりをしたがっただろう。禁止されようが罰を食らおうが、したいことをしていた。今はどうだ。ルネを助けたいんだろう?」

 はい、と素直にレグルスは頷いた。今更否定したところで、ジェフラがすべてお見通しなのはわかっていた。

「ルネはきっと、口を割らないでしょう。何をされても。だから恐らく、ルネはまだ生きている。生きているなら、助けに行きたい」

「助けるのはルネだけか? 他の逃がし屋たちが生きていたらどうする」

 いいえ、とレグルスは首を振った。ジュライ並みの直感が、それはないと告げている。

「ジェフラさまもデュケイを見たでしょう。フレイを宿した身で民のために崖を下り、川を渡ってきたルネを見たでしょう。イルナシオンの騎士らは、自分のことを単なる道具だと思っているふしがあるから、いくら傷つけても無駄です。だけど、他人の痛みにはひどく敏感だ。おれがジェスティンなら、ルネの目の前で他の逃がし屋たちを責め殺しますね。一人ずつ、時間をかけて」

 ジュライが想像した、ジェスティンの劣等感と鬱屈。そのはけ口がルネに向けられるなら、ルネだけは殺しはすまい。死ねばそれまでだが、死ぬまでは苦痛を与え続けられる。永遠に。

 デュケイは最期、生きよと言ったという。ルネは生真面目に、愛した男の言葉を護り続けるだろう。希望に縋ることでデュケイの言葉は反転し、ルネを縛めるものとなってしまった。死に逃れるという選択肢を持たぬルネを生かすのは容易い。

「悪人の考え方だな。誰に似たのやら」

 ジェフラが口調に笑みを滲ませ、何やら短く書きつけた。

「言っておくがな、私とてルネをむざむざと見殺しにする気はない。一度助けた身だ、それを壊そうとするやつがいることが許せんのだ」

「ルネの剣はゼクサリウスに捧げられたままじゃないでしょうか」

 うるさいな、とジェフラは手紙を書き終え、封を落とした。

「……人は貸せんぞ。ヴァーチュアと……あとは、カーヴィンとだ。やれるか。もちろん、誰も死んではならん」

「その顔ぶれなら、おれとルネだけが国境を越えればいいんでしょう。居場所さえわかれば十分です」

「いつからそんな自信家になった?」

 レグルスはひょいと肩をすくめる。確実にできるという自信があるわけではないが、為さねばならぬことだった。ならば、くよくよしているよりも具体的な段取りを考えていくべきだ。

 ジェフラは手紙をレグルスに手渡し、ちらとあらぬ方角を見遣った。

「……もちろん、フレイには母親が必要だしな」

 レグルスに否やはない。

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