(4)

 木々の葉が赤や黄色に美しく染まる頃、ルネは半日かけて赤子を産み落とした。ルネと同じ金の髪と、意志の強さを感じさせる鋼鉄の色の眼を持った男児だった。

「デュケイの眼だな。将来が楽しみだ」

 と、ジェフラなどはすっかり祖父気取りで、空き時間を見つけては抱き、あやし、話しかけてと忙しい。きりりと整った顔が赤子を前にでれでれと崩れていくさまは、切れ者と名高いジェフラ・ダリスタンと同一人物であるとはとても信じられなかった。

 ジェフラの屋敷の使用人たちも皆、赤子の誕生を寿ぎ、古着や乳の出が良くなるという郷土料理を土産に持ってきては赤子を抱き上げ、ルネに養生を勧めていくのだった。

 マリアンも大喜びでルネと赤子の世話を焼き、可愛いわねと褒められるたび、自分の子でもないのに鼻高々な様子で「そうでしょうそうでしょう」と大仰に頷いているのがおかしかった。

「こんなに、たくさんの方に祝っていただけるなんて思ってもみませんでした。わたしは……この子も、幸せ者ですね」

 眠る赤子を見つめ、ルネは右手の親指で指輪を撫でている。デュケイに託された生命をこれ以上なく愛おしみ、慈しむルネは何よりも誰よりも美しく、レグルスは何も考えることができなくなる。

 フレイと名付けられた赤子はよく泣き、よく眠り、よく乳を飲んだ。顔をくしゃくしゃにして泣く姿にルネはおろおろしていたが、元気でよいことだと誰もが笑うので、大らかに構えることにしたようだった。真珠騎士の制服を身に纏い、ぴんと張りつめたような無表情を保っていたかつてのルネとは別人のようによく笑い、フレイにも優しく語りかけるようになり、母になるとは別の生きものになるということではなかろうかと、レグルスは感嘆とともに見つめるのだった。

 マリアンが知己を訪ねて、フレイに乳をやっても良いという女性を見つけてきた。フレイはわずかに泣いただけで乳母の存在を受け入れ、ルネはフレイの首が据わるのを待って逃がし屋稼業に戻ることになった。

 クリスティナは例によって、無茶だ、フレイが可愛くないのかとルネを詰ったが、「大切に思うからこそ祖国の混乱を一日でも早く収めたいし、一人でも多くの命を救いたいのです」と冷静に切り返されては、継ぐ言葉がないようだった。

 ルネとて、フレイと長く離れているのは辛かろう。出立の前夜、長いことフレイを抱いて揺らしながら小声で何やら言い含めていた。

 ルネがロズルノーに戻ったのとほとんど入れ違いで、クスレフに急報がもたらされた。

 ラグナシャスの腹心であるジェスティン・ラスラがロズルノーの国境警備隊長に就任したというのである。

「ジェスティンはデュケイの実弟ですが、性格は真逆と言っていいほど違っています。ラグナシャスの推薦で瑠璃騎士に昇格した、王弟派の中心人物といえるでしょう。内乱前の王派の騎士、貴族らの検挙、処刑にも深く関わっています」

 ルネの人物評と密偵らの調査結果は一致していたが、内乱勃発からほぼ一年、彼がいったいどこで何をしていたかは不明のままだった。だが、国境の関の封鎖から時間が経ち、やや風紀の乱れていた国境警備騎士たちは背中に鋭利な刃を入れられたかのように姿勢を正し、ロズルノーの市街巡回や深夜の見回りを強化したという。

 また、ジェスティンは着任早々、これまで三交代制だった勤務を四交代制にするなど、体制の見直しを積極的に進め、警戒を強めているようだった。

「ラグナシャスよりはわかりやすい……というか、筋が通っているな」

 とは、ジェフラの言である。

「だが、ラグナシャスの腹心がロズルノーにやってきたということは、こちらを疑っているということでもあるな。いや、何らかの確信があってのことかもしれん。レグルス、気は抜くな。警戒に警戒を重ねろと皆に申し伝えよ」

「はい」

 イルナシオンからは再三にわたり、難民、脱走兵などは鎖国法を犯した罪人であるから、発見次第引き渡してくれるようという申し出が届いている。ジェフラはすべて見て見ぬふりを決め込み、ロズルノーとクスレフの連携が途絶えぬよう気を配り、難民を受け入れていた。弟のジュライを名代としてクスレフに遣り、連絡を密にし、迅速な判断を下せるようにした一方で、サリュヴァンやルーナシルの国境付近の視察に出向いては、両国にアヴェンダ国ダリスタン領領主の存在を印象づけ、打倒ラグナシャスの意向をそれとなく伝えるという離れ業をやってのけたが、両国の反応は芳しいものではなかったという。

 ジェスティンの着任以降、ルネら逃がし屋も警戒を強めていた。彼女らは抜け穴の存在だけではなく、ダリスタン領とのつながりも隠し通さねばならない。王弟派の中心人物とあって、ジェスティンの苛烈さ、冷酷さ、残酷さは群を抜いているという。民を逃がす回数を減らし、様子を見つつ安全対策を講じるとの連絡を最後に、ロズルノーからの音信が途絶えた。

 何事かと気を揉むレグルスらのもとに届いたのは鳩便で、誰もが嫌な予感を胸に黙り込んだ。

 よほどのことがない限りは必ず人を使って連絡を取り合うという暗黙の了解がジェフラ配下の者にはあり、国境の関が閉ざされてからも、唯一イルナシオンに行き来できるソル・ソレラ教の使節団に密偵が混じり、情報の交換を行ってきた。それにも関わらず鳩便が届いたということは、ロズルノー側に何らかの――悪い変化が起きたに違いなかった。

『烏、燕らを急襲。巣は壊滅の模様、安否確認できず』

 烏はジェスティン、燕はルネらを示す暗号だ。レグルスは紙を破り捨てたい衝動をこらえ、傍らのヴァーチュアに回した。小さなため息が彼女の気持ちを代弁している。

「ジェスティンってやつ、なかなかどうして優秀じゃないの」

「確かにデュケイと同じ血が流れてるんだってことだ。ラグナシャスと同等だろうと思うと、痛い目をみるってことだな」

 レグルスはジュライにこの凶報を届け、ジェフラへの連絡を頼んだ。

 レグルスと同い年のこの弟ぎみは、最前線での激務にすっかり面やつれし、剃り残した髭が顎できらきらと光っているという有様だったが、まともな判断力は残しているようだった。

「明日にはカーヴィンが戻ってくるだろう? 詳しい様子を確かめてからその後の対策を練ろう。兄上には知らせておくよ」

 私兵の一人の名を挙げ、ジュライは兄と同じ、白銀髪をぐしゃぐしゃとかき回した。

「これはさあ、僕の勘なんだけど。……デュケイは金剛騎士だろ。剣が上手くて強いって、アヴェンダにまで噂が流れてた。でも、その弟のジェスティンの名がこっちに伝わってきたのはラグナシャスの台頭の頃からだ。しかも常にラグナシャスと抱き合わせの格好で」

「まあ、そうだよな。で?」

 同年の生まれで、同じマリアンの乳で育ったこともあり、レグルスとジュライは気安い仲である。乾いた洗濯物の山に飛びこんだり、調理場に忍び込んで盗み食いをしたり、川で取ってきた魚を浴槽に放してみたり。

 総じて、ろくなことはしていない。拳骨、閉じ込め、食事抜き、いろいろな罰を食らったが、マリアンの尻叩きが一番強烈だったよなあというのは共通の思いである。

「そういうの、僕ならすごく傷つくんだよ。ジュライ・ダリスタンじゃなくて、ジェフラの弟のジュライ、って言われるとさ。兄上はまあ、別格だから諦めもつくけどさ、ジェスティンってのは結構気が強いんだろ。デュケイの弟、とか、ラグナシャスの腹心、とか呼ばれるの、絶対嫌がると思うんだ」

「……と、ジェフラさまの弟ぎみは考えたわけだな。鬱憤の溜まったデュケイの弟は何をしでかすかわからない、って」

「そういうことなんだけど、何だかすごい腹が立つな、その言い方」

 ジェフラとジュライとは十二も歳が離れている。レグルスとジュライがつるんで悪行の限りを尽くしていた頃には、ジェフラはとうに一人前の大人で、周囲の大人たちに叱られるよりも、ジェフラにこんこんと諭される方がこたえた。次期領主としての自覚を持って大人たちと対等に渡り合うジェフラの姿は二人の理想で、彼を失望させたくない、という気持ちは早くから芽生えていた。

 だが、レグルスとは違って、ジュライは兄のことを重荷に感じることも多かったようだ。期待と羨望を浴びて光り輝くようであったジェフラと自らとを比べ、僕は何なんだろうとよくこぼしていた。なまじ歳が離れているだけに競争相手として並ぶこともできず、はじめから不戦敗を宣告されている虚しさを、ジュライはレグルスだけに打ち明けていた。

 諦めにも似た劣等感はやがて、末子ならではの要領の良さに変わった。周囲の人々の顔色をよく読み、わずかな表情の変化も見逃さない。顔は笑っているが目は全然笑っていない、など細かなところにも気がつき、体調不良をおして働く使用人にそれとなく休憩を勧めたり、時間はかかるが簡単な用事を頼んだりと、いつしかジェフラとは違った気の遣い方ができるようになっていた。

 あの悪たれのジュライさまが、という感激の声はジェフラの耳にも届き、その聡さを重用されるようになって今に至る。

「これは、僕のことじゃないってあらかじめ言っておくけど。……デュケイたちはルネと親しかったっていうだろ。それこそ、家族ぐるみで。で、ルネはデュケイを選んだわけだ。でも、そのデュケイはもういない」

 なんだ、シャルロッテさまに横恋慕していたのか、とはさすがに不謹慎が過ぎて茶化せない。レグルスは黙って、ジュライの言葉を吟味した。

「……つまり、ジェスティンはルネを狙ってるってことか?」

「人んちの白壁は綺麗に見えるって言うだろ。言葉は悪いけど、人のものって良く見えるものじゃないかな。特に、相手に劣等感を持っていたり、僻んでたりする場合は。ジェスティンにしたってルネだけが狙いじゃないとは思うけどさ、逃がし屋の摘発を行ったら生死不明だったルネが現れた、なんてことになったら……僕なら、冷静じゃいられないな」

 仮に、ジェスティンがジュライの言うとおり「冷静じゃいられな」くなったとして、と考えかけて青ざめる。

「おまえ、怖いことをさらっと言うよな」

「そうかな? 怖いことをさらっとやっちゃえる人の方がよっぽど酷いよ」

 ただ、想像だけで動くことは危険すぎるし、ジェフラも許さないだろう。

「僕はさ、結局兄上にはなれないんだなって見切りをつけられたからいいけど……今も劣等感を引っ張ってるなら、相当こじらせてると思う」

 レグルスのきょうだいは亡くなった姉一人で、性別が違ったからそれほどの思いを抱いたことがない。だが、ジェフラという偉大な兄を間近に育ったジュライの暗い気持ちも、わからないではなかった。

「カーヴィンの帰還を待とう。勝手に動くなよ、レグルス」

 明日、ソル・ソレラ教の使節団が戻ってくる。カーヴィンは使節団の一員として、これまでにも重要な情報を何度も持ち帰ってきた。

「わかってる」

 念を押してから、ジュライは兄に宛てた急報をまとめはじめた。

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