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 ジェフラ・ダリスタンが真珠騎士ルネの要請に応え、難民の受け入れを承諾したということはクスレフを経由して、イルナシオン国内のアヴェンダの密偵たちにもすぐに広まった。密偵たちとつながりのあるイルナシオンの逃がし屋たちにも希望の光が感じられたことだろう。

 逃がし屋は王都から逃れてきた王派の騎士たちが中心となり、地元の若者らを取り込んで緩く組織されている、とルネは語った。街中で騒ぎを起こして騎士たちの目を逸らす陽動班と、実際に民らを抜け穴に案内し、川を渡る手伝いをする渡河班、新たな抜け穴となる逃走路を確保する調査班に分かれているが、誰もが生命を擲つ覚悟で任務に当たっていた。

 これまでにルネが利用していた抜け穴は、ユラ川に降りる崖下りが相当な危険を伴い、体力、体格に問題のない者しか連れ出すことはできなかったのだが、ジェフラが協力することで下流側に新規の抜け穴が拓かれた。移動距離こそ長いが、上流のものより危険の少ない道程であったので、女子どもや老人、怪我人や病人らを逃がすのには下流の抜け穴が使われることになった。

 ただし、ジェフラはルネがイルナシオンに戻ることは許さなかった。ルネは産み月を間近に控えており、まずは宿った子のことを考えるべきである、とジェフラやクリスティナ、マリアンにこんこんと諭され、哀願され、ついには頷いた。産後、血の道が戻るまで養生につとめることを約束したのである。

 喜んだのはマリアンだった。

 レグルスには姉が一人いたが、難産の末大量に出血し、姉も赤ん坊も亡くなった。もう十年も前のことで、当時悲嘆に暮れていた母もすっかり立ち直ったように見えるが、ルネの世話を任せるというジェフラの判断が正しいのかどうか、レグルスにはわからない。ただ、まったくの他人であるルネのもとへ嬉々として通い、赤子の肌着やおしめを揃えてきてせっせと水通ししている姿を見ると、これでよかったとも思えるのだった。

 ルネもまた、過酷な状況にある祖国を思わないではいられないだろうが、変装のために染めた髪の色を落とし、目立たぬ格好で敷地内を散歩したり、丘を下ってタレスの市街を見て回ったりと、つとめてゆったりと過ごしているようだった。逃がし屋の仕事はレグルスやヴァーチュアら、ジェフラの私兵が後を継ぎ、ロズルノーからの脱出とクスレフへの案内を引き受けていた。

 抜け穴を増やしたことが良かったのだろう、脱出に成功し、アヴェンダで受け入れた難民は百名を超えたが、依頼が増えるにつれて警備の目も厳しくなり、細々と難民を逃がすのではなく、根本的な対処を望む声も上がり始めた。すなわち、アヴェンダをはじめとする周辺国の力でラグナシャスを倒せないか、ということである。

 ジェフラは王に状況を説明し、諸外国との連携の必要性を説いたが、イルナシオンと隣り合わない領主たちは難民問題に関する意識も低く、交渉は難航しそうだった。ジェフラは独自にルーナシル、サリュヴァンへ人を遣って、国境周辺の様子や国内の動向、イルナシオンへの感情などを探らせているが、隣国へ侵攻するとなるとアヴェンダ王の許しが必要だった。どのみち、ダリスタン領が有する武力だけでは勝ち目はない。

「国内の状況が変わるまで、何とか現状を維持するしかない。困難も多いだろうが、頼んだぞ」

 ジェフラは頻繁にクスレフへ足を運び、密偵や逃がし屋稼業に携わる私兵たちを労った。時には、イルナシオンの逃がし屋を招いて酒や食事を振る舞うこともあった。レグルスもまた、一月の半分はクスレフで逃がし屋を手伝い、残り半分はジェフラの命で国内のあちこちに旅するという忙しさだったが、用事を済ませてタレスへ戻り、マリアンとルネと三人で食卓に着くひとときは何よりも心安らぐ時間だった。

 ルネの腹はもういつ生まれてもおかしくないというほどに大きくせり出し、赤子は元気よく腹を蹴っているという。勧められ、レグルスも恐る恐る触ってみてその激しさに驚いたが、腹の中にいる赤子に腹を蹴られる感覚というのは、どれほど頭を絞っても想像できるものではなかった。マリアンはルネの過ごす家に泊まり込み、出産に備えている。

「隣り合っているのに、イルナシオンとアヴェンダではずいぶん違うのですね」

 芋と豆、野菜を煮込んだ熱いスープをゆっくり食べながら、ルネが言う。

「身分制度も騎士制度もこちらにはありませんし、逆にイルナシオンには領土、領主という考え方がありません」

「そうですね……身分制というと、生まれた家によってその人が規定されてしまうわけでしょう。領主や国王でさえ、アヴェンダではひとつの職業といった捉え方ですから。国王の子であっても、王位を継ぐことを望まないのであれば王位継承権を他者に譲ることができますし、在位中の王でも、その器量が王に相応しくないのであれば退位を迫られます」

 ルネは手を止め、遠い目をした。

「もしもイルナシオンにそういった制度があれば、内乱も起きなかったのかもしれませんね……」

「良し悪しですよ。イルナシオンは伝統や家柄を重んじるがゆえに身分制があるのでしょう。アヴェンダは商業で栄えた国ですからね。それぞれの領土や領主によって雰囲気が違いますし、王は領主と議会のとりまとめ役でしかない。今回、残念ながらイルナシオンでは王弟殿下が反旗を翻すという形で内乱が起こってしまったけれど、アヴェンダなら別の形で内乱が起こりうるわけです。領主が他の領土に攻め込むというのは、過去何度もありましたよ。鎮静にはイルナシオンの騎士の方々のお力も借りたはずだ」

 はい、とルネは頷く。マリアンが呆れたようにため息をついた。

「あんたたち、よくそんなお堅い話をしながら食べられるね? もっと楽しい話とか、明るい話とかがあるでしょうに。……そうだね、例えば、レグルスは八つの時にお屋敷の」

「ちょっ! その話を今しなくても!」

「聞きたいです」

 生真面目に答えるルネに、母はレグルスの幼少期の話を次から次へと披露した。中にはレグルス自身の記憶にないものもあり、赤面するしかなかったが、ルネの緊張がほぐれて笑い声が聞けた時には、こういうのも悪くはないかなと思いを改めたのだった。




 丘を下ってタレスの市街地に戻ると、大通りでクリスティナと出くわした。仕事上がりなのか、疲れた顔をしている。

「クリス、久しぶり」

「レグルス、帰ってたのね。食事は済んだ? よければ、一緒にどう?」

「いや、今上で済ませてきたんだ」

 ええっ、とクリスティナはしょげる。一日の仕事を終えての食事を一人で食べるのは味気ないものだ。街へ戻ってきた時に声をかければよかった、とレグルスは反省した。

「気がつかなくてごめん。次からは声をかけるよ。母さんも喜ぶと思う」

「……そう、ね。ありがと」

 クリスティナはタレスの街の診療所で働く、若手医師である。まだ駆け出しであることは否めないが、その熱意と細やかな気配りで女性や老人からは評判がいいという。

 レグルスたちが住んでいた家の三軒隣で産声をあげたクリスティナは、小さい時からレグルスの尻を追いかけ回しては一緒にはしゃぎ、悪さをしてはともに拳骨をもらう仲だった。

 レグルスがジェフラの私兵として国内を駆け巡るようになるとつきあいは減ったが、クリスティナが診療所で見習いを始めると、怪我の手当てやジェフラから医師団への連絡などで再び頻繁に顔を合わせるようになった。

 気が強く、意地っ張りで、同じ年頃の少年たちに負けじと木に登って降りられなくなり、レグルスが助けてやったのもいい思い出である。木の上でべそをかいていた小さな女の子が今やこうして人命を助ける医者なのだと思うと、何だかおかしいような、くすぐったいような気になるのだった。

 生命を賭して患者を救うクリスティナと、ジェフラのために生命を差し出すレグルスと。進む道は違ってしまったけれど、気安い相手であるのは変わらない。

「しばらくゆっくりできるの?」

「いや、明日からまたクスレフに行くんだ。逃がし屋の待ち人数が膨らんでるらしくてさ。一人でも多く人手が欲しいんだそうだ」

「ふぅん……。ねぇ、本当のところ逃がし屋ってどうなの? 危ないんでしょ」

「そりゃあね」

 立ち話も何だからと二人で食堂に移動し、クリスティナの食事につきあう。食べながらする話でもないよなと母に注意されたことを思い出しながら、レグルスはこれまでに経験したことをかいつまんで話した。

 レグルスはイルナシオン側の崖下で待機し、渡河の手伝いとクスレフへの道案内を任されていたから、直接イルナシオンの国境警備騎士と剣を交えることこそなかったが、夜のとばりに覆われた急流を渡るのは身の軽いレグルスにとっても易しいことではなく、ひとたび足を滑らせて川に落ちた者を救出し、無事に対岸まで連れてゆくことは至難の業だった。

 レグルスがめいっぱい伸ばした手を掴みながらも、力尽きて急流に呑まれた者、ロズルノーからの脱出に失敗したのか、いつまで待っても現れなかった者。逃がし屋たちは状況が許す限りの努力をしていたが、それでも救えぬ生命があるのは否定できず、無力感に苛まれながらの行程であることも多かった。無事にクスレフへ到着した時の、難民たちの心からの感謝と笑顔、涙がなければ到底続けることはできなかったに違いない。

「だからおれは、安全な仕事しかしていない方なんだよ。ロズルノーで陽動に参加したり、実際に街を脱出してユラ川まで民を連れてくる方がずっとずっと危険だ。ルネはあの身体でよくやったと思うよ」

「……でも、ルネはイルナシオン人なんだから、危険に身を晒すのは当然じゃない? 身体のことは差し引いても、レグルスが危ない目に遭うのはおかしいわよ。赤ちゃんにしたって、ルネは極めつけに運が良かったのよ。赤ちゃんを授かって無事に産むって、そんなに簡単なことじゃないんだから。わかるでしょ」

「ああ、そりゃあ……わかるよ。うん」

 クリスティナの剣幕に、慌てて頷く。医師という仕事柄だろう、彼女がイルナシオンの騎士制度やジェフラの私兵にさえも、いい感情を持っていないことは知っている。

「私たちが半年かけて治療する怪我も、つくるのは一瞬」

 そう言って争いを嫌っていることも、レグルスの姉の死をきっかけに、より一層生命を尊ぶようになったことも、知っている。

 そんなクリスティナに、立場が逆であればと説いても仕方ない。兵や騎士といった、荒事を引き受ける者たちがいるからこその日常であることも、彼女ならばよく理解しているだろう。理解していても、ついこぼさずにはいられないに違いなかった。

「……ごめんね、言い過ぎたわ」

「いや。クリスの言うこともわかるよ」

「みんなのことが心配なのよ。危ないことはしないで、レグルス。ね?」

「ああ」

 気まずい雰囲気をなかったことにするかのように、その後は他愛ない話に花が咲いた。

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