(2)

 ジェフラの屋敷の北側にある小ぶりの家屋は、使用人が家族とともに住むためのいわば寮だ。昔の領主が国中の有能な人材を住まわせるために建てたとかで、他にもいくつか同じような家が屋敷の周辺に点在している。ルネはそこに匿われ、レグルスの母マリアンが食事や身の回りの世話のために通うこととなった。

 ルネはただただ恐縮し、こんなにしていただくわけにはいかないと言っていたが、ジェフラが「身重の客人を冷遇したと、私に恥をかかせたいのか」と脅迫めいたことを口にしてようやく、大人しくなった。

 そんな騒ぎが収まる頃には夕食の時間で、結局ルネの話を聞く態勢が整ったのは食後だった。日没後の寒さが障らぬよう、レグルスは暖炉に火を入れ、大鍋にたっぷりの湯を沸かして茶を淹れる。

 座面の広い、ゆったりした椅子に腰かけたルネは、ぽつぽつとイルナシオンの内乱以降のことを話し始めた。

「あの日……わたしは、ミリスディン王子をお護りせよと勅命を受け、城外へと逃れました。後のことは任せる、とゼクサリウス王に申しつけられていましたから、まずは王子が落ち着ける場所を探そうと思い……ジェフラさまを頼ろうと考えて、ロズルノーを目指しました」

 ミリスディン王子は五歳。ルネの子に見えなくもないが、隻腕という特徴あるルネと幼子の組合せは非常に目立った。旅慣れぬ王子を連れ、人目を避けての旅路は決して楽なものではなかったが、利発な王子は聞き分けよく耐え、突然の両親との別れにも涙をこらえていた。

「ですが、ある日……知己を頼って一夜の宿を借りたのですが、王弟派に通報されてしまいました。王子をお護りするために荒事は避けられず……大事なかったのですが、王子はとても驚かれたようでした。これは、わたしの勝手な想像ですが、王子の生命よりわたしの生命の方が軽く、わたしの生命が王子を生かすためにあるのだということを理解なさったのだと思います」

「それは、辛かろうな」

 ジェフラの言葉に頷き、ルネは茶で唇を湿した。

「追手から逃げ続ける日々でも、ずいぶんご無理をさせてしまいましたし……。やがて、わたしの負担になるのは嫌だからいっそ殺してくれと仰って……」

 その時のルネの驚愕と悲しみを思うだけで、胸が詰まる。ジェフラをはじめ、誰もが安易な同情の言葉を躊躇っているのがわかった。

「ゼクサリウスさまと同じく、ミリスディンさまも王として人の上に立つには、お優しすぎたのです。わたしたち騎士が御旗の前に命を擲つのを、決して良しとはされなかった。……それは恐らく、甘さとでも呼ぶべきものです」

「そうだな」

 ジェフラが深く息をつきながら、同意する。レグルスもまた、同じ思いだった。もしもジェフラが、レグルスら私兵が傷つき死んでゆくのを厭えば、どうなるだろう。ダリスタン領は荒れ、ジェフラは無能な領主の烙印を押されるに違いない。危険を承知で命を下すのが領主たるジェフラの役目であり、それを受けるのが私兵たるレグルスの役目だ。領主の犬と嘲られたことは数知れぬが、その生き方を後悔したことはない。

 命を下す者と、受ける者。屍の上に立つ者と、死して道を切り拓く者。その前提を受け入れ、王家という血を背負って生きるには、王子はまだあまりに幼く、突きつけられる現実は厳しすぎた。

「同じ頃、体調が優れぬ日が続き、わたしは子を授かったことを知りました。ですが、王子はご自分のせいで、わたしが臥せっていると思われたのでしょう。……投宿していた村の外れの湖に、身を投げられました」

 マリアンがルネの肩に手を置き、何事か囁く。ルネは首を振って有難うございますと小声で返し、話を続けた。その肩が小刻みに震えている。誰が何と慰めの言葉を投げかけようと、ルネの傷を癒すことはできまい。集った者がそれぞれに我が身に置き換えてルネの痛みを感じているようだった。

「村の者が知らせてくれた時には、王子の息はすっかり止まっていました。村人たちは水辺で遊んでいて、誤って足を滑らせたのだろうと話していましたが、そうでないことはわたしにはすぐわかりました。街道から遠く離れた田舎村のこと、わたしたちは訳ありの親子と思われていたようで、皆が協力して王子を水から引きあげ、埋葬してくれました。わたしがどれほど取り乱そうと、悲嘆に暮れようと、何も疑われなかったのは幸いでした。それから……王子をお護りするという使命を失い、空っぽになったわたしは何も考えることができず、王都に戻りました。……もしかすると、誰かに呼ばれていたのかもしれません。王都に辿り着いた日、王城前の広場で、捕えられた騎士たちの公開処刑が行われるというのです」

 微かな希望を抱き、ルネは人混みに紛れて広場を目指した。

 もしかすると、誰か生き延びているかもしれない。見知った顔に出会うかもしれない。そんな儚い望みは、木っ端微塵に打ち砕かれることになる。

「王弟派になびかなかった将軍たち、貴族たち……立派な騎士たちが次々に首を落とされていきました。民は興奮するでもなく、ただうつろな眼差しで処刑を見守っていました。彼らの心がラグナシャスから遠く離れていることは明らかで、けれど何の力も持たない民たちは、これまで暮らしを守り、国を守ってきた騎士たちが、同じく騎士の手によって殺められる光景をただ見ているしかなかったのでしょう。……ひどい光景でした」

 死の匂いに烏たちが集い、ぎゃあぎゃあと不吉な鳴き声をまき散らしながら上空を旋回する。黒い羽が騎士たちの血とともに飛び散るさまが目に浮かぶようだ。

「やがて……ディーク……デュケイが現れました。内乱の勃発から処刑の日にまで、彼がどんな酷い目に遭ってきたのかが一目でわかるような……姿でした。ですがデュケイは一度だって俯かず、前を向いていました。そして……わたしを見つけました。目が合ったのです。遠く離れていましたけど、きっと気のせいではないと思います」

 金剛騎士デュケイは処刑台の上で朗々と語った。

「生きるのだ、何があっても。顔を上げよ。死んではならぬ、生をつなげ――デュケイはそう言いました。わたしに向けて。わたしが頷くと、笑ったようにさえ見えました」

 そして、ルネは愛する男の首が宙を舞い、生命の灯火が消え去る瞬間を見守ったのだった。

 呼吸することも躊躇われるような、濃密な沈黙がおりる。自らを鼓舞するかのように、ルネは右手を腹に重ねていた。彼女の内心で吹き荒れる嵐が鎮まるまで、しばしの時間が必要だった。

「わたしはロズルノーで、民を国外に逃がす裏稼業を手伝うようになりました。ラグナシャスの統治はひどいもので……本当に、どうして王位を望んだのかすらわかりません。あんな血腥いやり方が理想だったなんて、とても信じられないのです」

「泥沼にはまっていくような、とは聞いているが……」

「もともと気性の烈しい方でしたが……その……シャルロッテの一件からは常軌を逸しているとしか思えません。当初、ラグナシャスの掲げる理想に共感していた若い騎士たちも、今では造反すれば処刑されるからという理由で彼の言いなりになっているに過ぎません。恐怖が連鎖し、誰もがその鎖を断ち切ることができないでいるのです」

 ラグナシャスは兄王の処刑後、即位を宣言して玉座に就いた。彼の恐怖による独裁はまさに病的と言えるもので、誰も反対することができないでいるのをいいことに、自らの地位を固めるためだけの悪法を次々に打ち立てた。

 民の国外流出を防ぐため国境の関を閉ざし、ロズルノーをはじめとする国境の街に集う民らを武力で蹴散らし、国境の見張りを強化して、深夜の外出を禁じた。内乱の際に死亡した騎士の数を補うために徴兵制を採用し、それは新年から実施されるという。

 逆らえば死。

 逃亡の道も困難を極め、王の独裁に従うしかない民らは、ゆるやかに希望を失っていった。

 殺すほどに、血を浴びるほどに手当が増える新制度を歓迎した騎士はほんのわずかで、大半の者は震えあがった。互いが互いを監視し、密告しあう疑心暗鬼の雲に包まれ、言いがかりでしかない罪状で力なき民を殺める日々に心を病む者も後を絶たないという。

 国家としてのイルナシオンは滅びたとの報告が密偵から相次いだが、ラグナシャスという男の存在がある以上、問題は何も解決していない。

 ジェフラは定期的に、密偵からの報告をまとめて王に奏上していたが、アヴェンダ国としてもイルナシオンをどう扱うか、決めかねている部分があった。北のルーナシル、南のサリュヴァンも同様に、国境付近に兵を厚く配して慎重に動きを探っているようだ。

「その、裏稼業というのは?」

 同席しているクリスティナが尋ねた。彼女はジェフラの私兵として、医師団との連絡役をつとめている。時に汚れ仕事も請け負うレグルスやヴァーチュアとは違って、荒事には一切手を染めない「まともな」私兵の一人だった。

「国外への脱出を望む者を、国境線の抜け穴から無事に逃がしてやるのです」

「抜け穴?」

「国境線といっても、全ての場所に関や壁があって見張りの目があるわけではありません。ロズルノーとクスレフの間はユラ川が国境線となっています。ユラ川は流れも急ですし、深さも相当あります。もともと谷に沿って流れる川で、両岸は険しい崖ですから、川へ降りることすら難しい。ロズルノーの騎士たちは崖に近寄れぬよう、関に近いところを重点的に見回っています。わたしたちはその裏をかいて、街から離れたところから崖を下り、川を渡ってこちらへ逃げ出せる路を拓きました。それを便宜的に抜け穴と呼んでいるんです」

 クリスティナはまだ納得がいかないらしい。首を傾げている。

「でも、見つかれば処刑なのよね? イルナシオンの民が国外脱出を望むのはわかるけど、あなたがそんな危険を冒す必要性……というか、義理があるの?」

 ルネは瞬いて、クリスティナを見つめた。深い青の眼が、どうしてそのようなことを訊くのかという疑問に揺れている。

「義理とか……そういうのではなくて、わたしは騎士です。民を護るのが務め。これでは納得していただけませんか」

「わからなくはないけど……ううん、理解はできるけど、共感はできないわ。そんな身体で……赤ちゃんが大事じゃないの?」

 それは、とルネが口ごもる。処刑されたデュケイの子であるなら、大切でないはずがない。だが、無理を承知してでも民を逃がすために奔走せざるを得ないほど、イルナシオンの状況は悪いのだろう。

「ルネ。そなたは真珠騎士――いわゆる、近衛だろう。近衛ならば王を護るが第一義、民のために生命を賭すことはないのでは?」

「確かに、真珠騎士は王をお護りするが役目。ですが、王は民あっての王。民を護ることはすなわち、王をお護りすること。民を護らずして、王を護れましょうか。わたしが剣を捧げた王なき今、王が心を砕かれた民を一人でも多く生かすことが、騎士としての務めです」

 口を挟んだジェフラに、ルネは淀みなく応じる。あらかじめ用意された答えを読み上げるのではなく、魂に刻まれているがごとく、自然な口ぶりだった。高名なイルナシオン騎士の姿を見たようで、レグルスは身体の奥の方がじわりと熱くなるのを感じる。

 ジェフラも満足そうだった。聞きたかった答えなのかもしれない。

「そのことで、ジェフラさまにお願いがあってまかり越しました」

「……聞こう」

「重税と重役、法の名を借りた重い罰に、民は喘いでおります。不満を漏らしたもの、前王の世を懐かしむもの、体制を批判するもの、すべて処刑されます。すでにお聞き及びでしょうが、国民の流出を防ぐためだけの法も作られました。国内に留まるも恐怖、脱出するも恐怖、しかし安息が国外にしかないのならば、わずかでも希望のある恐怖……脱出を、民は望んでおります」

「自暴自棄だな」

 ルネは頷く。顎を撫でたジェフラは、眉間に皺を寄せた。

「王は何を望まれているんだ。それでは民の不満が募るばかりであろう」

「内乱前には誇り高き騎士の国、かつての強いイルナシオンを取り戻す、と掲げておりました。ちょうどサリュヴァンとの和平が成立した頃で、血の気の多い若い騎士らにとっては、ラグナシャスのお題目は勇ましく、麗しいものに感じられたことでしょう。ですが実際にラグナシャスが行っているのは、暴力という恐怖による束縛にすぎません。ある程度の恐怖によって統率が取れることもまた事実ですが、それだけで国を支配するとなると……彼の言う誇りとやらは何だったのかということになってしまいます」

 もとより武闘派の集団であり、処刑の恐怖から逃れるための寄せ集めにすぎぬ彼らは、指導者たるラグナシャスを諌め、よりよい国を目指すという理想がなかった。耳触りの良いお題目と、それとはかけ離れた恐怖政治。こんなはずではなかったと後悔したところで、遅きにすぎる。

「あくまで不満は切り捨てるか。……王がなさっていることは虐殺と変わらないではないか」

「仰るとおりです。……無理は承知です。わたしは、ジェフラさまの益となるものを持っておりません。ですが、どうか、難民へ寛大な処置をお願いしたいのです」

 国を捨てた民を受け入れてくれる土地があれば、彼らにも希望が生まれるだろう。ルネはジェフラに、国を脱出した民の受け入れを願ったのだ。

 ルネが脱出を手引きし、ジェフラがそれを受け入れる。ジェフラには何の利益もない。そればかりか、民の受け皿であることが発覚すれば、極めて不利な立場に立たされることは間違いなかった。

 どんな悪法であっても、イルナシオンの民はイルナシオンの法に縛られる。国外に出てはならぬと法によって定められたのであれば、ジェフラがイルナシオンからの難民を受け入れ、匿うことは、罪人の引き渡しを拒むに等しい。

 ルネはまろぶように椅子を下り、床に平伏する。

「民には何の罪科もございません。どうか、御慈悲を――!」

 ジェフラは答えなかった。ルネとて、容易に承諾が得られるような申し出でないことは十分にわかっていることだろう。アヴェンダ国でのジェフラの立場もあり、国を閉ざしているとはいえ、イルナシオンとの摩擦も避けられまい。

 しかし、ルネは折れないだろう、ということもレグルスには理解できた。ジェフラの協力を得なければ、イルナシオンの民は閉ざされた国内で、じわじわと殺されてゆくのだ。

 ――生をつなげ、と言った男の願いに反して。

 レグルスも席を立って、床に膝をついた。

「私からも、お願い申し上げます。どうか、イルナシオンの民をお救いください」

「レグルス」

 咎めるような声が、ジェフラとクリスティナの両方からあがるが、レグルスは頭を上げなかった。

 もしもアヴェンダが、ダリスタン領がイルナシオンと同じく圧政に苦しむことになったら、自分はどうするだろう。やはり、何としてでも国境を越え、イルナシオンに救いを求めるのではないか。そう思ったからだった。

 大仰なため息をついたジェフラが立ち上がり、ルネ、と呼んだ。

「そなたを頂こう」

 検分するような沈黙の後の一言に、レグルスは思わず顔を上げた。

 計算高い領主の顔で、ジェフラはにやりとくちびるを歪める。

「なかなかどうして、綺麗な顔をしているではないか。シャルロッテも還らぬことだし、そなたが私の妻になれ。そうすれば、愛しい妻の願いをかなえてやろうぞ。腹の子にも父が必要だろう? ……どうだ」

 おい、とつい昔の調子で罵りかけて、何とか思いとどまった。レグルスが口出しすべき場ではない。

「……ご覧の通り、満足な身体ではございませんが……わたしなどで、よろしいのでしたら」

 ルネの声には動揺も困惑も躊躇も、ひとかけらも含まれていない。覚悟と呼ぶことさえも生温いような、ただただ透明で冷徹な意志があるきりだった。

 民のため。この一念がルネを研ぎ澄まし、突き動かしている。大義はルネの目的であり、生きる意味でもあるのだろう。

 まるで道具じゃないか、とレグルスは思う。民に尽くして生きる。そのために手段を選ばないというなら、ルネは一振りの剣と同じだ。ルネ自身の、真珠騎士ではないルネ・カンディードそのひとの想いは、どこへ消えた? 腹の子を愛おしむ気持ちは。

「……デュケイと同じなのだな」

 ジェフラはぽつりとこぼした。あの夜の混乱のことは、レグルスも昨日のことであるように思い出せる。

 呼吸するのももどかしいような勢いで駆け込んできた瑪瑙騎士。ジェフラその人に率いられ、ロズルノーの王家別邸へ乗り込んだレグルスらアヴェンダ兵の目に飛び込んできた凄惨な光景。

 白いドレスに身を包み、胸元を血で汚したシャルロッテの前に立ち塞がるデュケイもまた、口の端から血の泡をこぼし、全身は大小様々の傷で覆われていた。血の気を失った顔、鋼鉄の色の眼に光はなく、それでも剣を手放さず、膝をつくこともせず、デュケイは次々と襲撃者たちを屠っていった。

 恐らく、とうに意識はなかったに違いない。機巧からくり人形のように、躾けられた番犬のように、向かってくる者を敵だと認識して剣を振りかざしているだけのようで、事実、襲撃者たちを斬り、捕えた後もデュケイは動きを止めようとせず、レグルスは苦労したものだ。

 そうまでして、彼らイルナシオン騎士は騎士であろうとする。大義のための礎たらんと、自らを押し殺し、物言わぬ剣になろうとする。世が世なら、それもひとつの生き方だっただろう。よき王があり、よき騎士があるならば。

 だが、今は。

「……お話はよくわかった。もはや隣国のことと見物していられるような事態でもない。できる限り、援助しよう」

 ジェフラはルネの手を取り、椅子に誘った。ルネは呆気にとられた様子で、ジェフラとレグルスを交互に見ている。

 にやにや笑っているジェフラに代わり、レグルスは助け船を出した。

「お戯れが過ぎますよ、ジェフラさま。……ルネ、非礼を詫びます」

「戯れにしたつもりはないぞ。試したと思われるのも心外だが……いや、やはり試したのかもしれんな。すまなかった、ルネ。気を悪くしないでくれ」

「とんでもない……有難うございます」

 ありがとうございます、と何度も繰り返し、泣き崩れるルネの肩を、マリアンが優しく包んだ。

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