(7)
意識のないルネを身体に縛りつけて崖を下り、真冬の急流を渡ってクスレフの隠れ家に転げ込むという曲芸じみたことをやってのけたレグルスは、ルネをジュライに託したところで気絶し、気がつけばタレスのジェフラの屋敷の客間に寝かされていた。
傍らに、クリスティナがいる。
「おはよう、レグルス」
「ああ……おはよう、クリス」
にっこりと笑ったクリスティナの額には青筋が立ち、彼女の怒りを雄弁すぎるほどに語っていたが、その怒りが何に由来するものなのかはレグルスにはわからなかった。
身体を起こしてみる。治療の跡はなく、特に痛みも違和感もないから、倒れたのは単なる疲労だったらしい。
「ええと……フレイは?」
「おばさまが見てるわ」
声が尖っている。これは、良くない予兆だ。良くないが、敢えて危険に飛び込んでいかねばならぬ時が、男子にはある。例えば今とか。
「……ルネの具合は、どうかな」
クリスティナの茶色い目が、猫のように吊り上った。
「生きてるわよ。死んではいない、って言った方が近いけれど。報告書は院長からジェフラさまに渡してもらったわ。とても私一人じゃ手当てが間に合わなくて、院長にも来てもらったの。暴力って言葉をこの世の紙がなくなるくらい書き連ねたくらいのことをされたようよ、ルネは。私がこんなこと言っちゃいけないけど、どうしてもっと早くに死ななかったのかって、生きていても苦しいのが長引くだけだって、そういう状態だったわ」
話し始めると止まらなくなったのか、クリスティナは顔を真っ赤にして唾を飛ばしながら、レグルスに喚き散らした。
「だいたい、フレイを産んで身体も元通りじゃないのに、どうしてロズルノーに戻ったのよ。そんなのへまをして捕まるのは当然よ。それをどうしてレグルスが……レグルスたちが危険を承知で助けに行かなきゃいけないの。ルネが自分で選んだことでしょ、責任はルネが負うべきだわ!」
「おれは無事だ。ルネも生きてる。……そんなふうに言われると、辛い」
クリスはぶんぶんと首を振った。
「ソル・ソレラの使節団が戻る時に、一人が川へ飛び込んだんですって。怪しいって言うんで使節団がロズルノーの騎士たちに取り調べを受けて……戻ってきたけど、今後はもう使節団さえ入国できなくなったのよ。逃がし屋たちが使ってた抜け道も発見されたと思った方がいいって、ジェフラさまが仰ってたわ。全部、ルネのせいよ!」
叫びながら、クリスは客間を出ていってしまった。
それは違う、と言いかけた言葉だけが口の中に苦く残り、レグルスは水を注いで飲み干す。まとわりつくような余韻を振り切って、湯を借りて髪を洗い、身体を拭いて髭を当たって身づくろいしてからジェフラのもとへ向かった。
執務室で、ジェフラは嬉しいような困ったような微妙な表情を隠そうともせず、レグルスを招き入れて軽食の準備を命じて、まあまずは良かった、と労いの言葉を寄越した。
「困難なことをよくやり遂げた。さすがだな」
「ルネから話は……まだ聞けてませんよね。クリスが火を噴きそうなくらい怒ってましたけど、一体何があったんです」
「何っておまえね……いや、それはいいんだ。ルネの情報を提供してくれた牢番が国境の橋から身を投げてな。あと少しで国を抜けるってところで、気持ちが擦り切れてしまったんだろう。使節団は取り調べを受けたが、無事に解放された。ただ、今後は使節団も出入り禁止だ。ヴァーチュアはほとぼりが冷めるのを待ってからこちらへ戻る」
炙った肉を挟んだパンとスープが運ばれてきて、レグルスとジェフラは無言でそれを胃袋におさめた。あんな酷いものを見て、よく食事が喉を通るなと我ながら呆れる。
「ユラ川は流れが速いから、死体は上がらないと思うが……牢番の失踪はすぐに知れるだろうし、そうなれば使節団のすり替わりにも気づかれるやもしれん。抜け穴が見つかるのも時間の問題だろう。ジュライに抜け穴からクスレフまでの路上も警戒を強めるよう言ってある」
「……ということは、ルネたちは喋らなかったんですね」
「そういうことだ。……イルナシオンの騎士とは凄いものだな。代々、彼らを敵に回すなと言い伝えられてきたが、まったくだ。今回のことでそれがよくわかったよ」
レグルスも頷いて同意する。だからこそ、その気高き騎士たちを踏みにじる者を野放しにはできないのだ。
身体と心に深い傷を負ったルネは、べったりとくっついて離れないフレイと寄り添い、マリアンの手厚い看病を受けるうちに起きていられる時間が長くなり、寝台を下りて歩く練習を始めた。
そろそろ人見知りが始まる頃だというフレイも、普段から多くの大人たちに囲まれているからか、ぐずって手がつけられないようになるのもほんのわずかで、緊張を強いられる屋敷においては春の陽だまりのように温かく柔らかな存在だった。
首や腰が据わり、色々なものに興味を示すようになったフレイは、高く抱き上げられて視界が広がるのが嬉しいようで、レグルスやジェフラに抱かれても嫌がらなかった。乳児の甘い匂いや温もりは顔を埋めたくなるほどで、夕方になって皆の疲れがたまってくると、フレイを抱いて癒されたいとルネの部屋の前に列ができることさえあった。
ルネの傷に障らぬよう、聴取は時間をかけて少しずつ進められたが、王都にいるラグナシャスの様子はわからぬままで、ジェスティンのロズルノー着任については概ねジュライが予想した通りのようだった。
「ジェスティンは……デュケイとは真逆の性格ですが、デュケイに憧れている部分も多かったのだと思います。憧れが強すぎて、裏返したような存在になってしまったのかもしれません。ロズルノーに着任したのも、わたしがジェフラさまと知己であることを聞きつけ、ご厄介になっていると考えたからのようです」
「つまり、ジェスティンはルネを探している?」
はい、とルネは頷いた。すっかり伸びた金の髪が肩に零れ、光を弾く。傍らで積み木を打ち鳴らして遊んでいたフレイが構ってほしそうににじり寄ってきて、ルネの膝に積み木を並べはじめた。フレイ、とルネが呼んで膝に抱きあげるだけで大人しくなって、きょろきょろと周囲を眺めまわしている。
「わたしが……デュケイを選んだので。彼はきっとデュケイと同じものを欲しがっているんです」
「抜け道は見つかると思うか?」
「逃がし屋がいて、いなくなった民がいる以上、国境を越える方法があると考えるのは当然です。下流側の新しい抜け道は女子どもや老人、病人にも通れるよう、かなり目立つよう岸壁に段を刻んでいますから、探す気でいれば、見つけるのはそう難しくありません。それに、ジェスティンの執念というか……粘り強さは侮れないものがあります。わたしが助け出された以上、ジェスティン自らがこちらにやって来るかもしれません」
「そうか……」
ジェフラは渋い顔のままルネに礼を述べ、身体をいたわるよう声をかけてから部屋を出ていった。
「……あの、レグルス。お願いがあるんですが」
ルネは膝の上でフレイを揺らしながら、レグルスを見上げた。ご機嫌な様子でフレイが積み木を振り上げているので、床に膝をついてそれを受け取る。
「まだまだ身体がついてこなくてもどかしいんですが、もう少し体力が戻ったら、稽古をつけていただけませんか」
「稽古って、剣の?」
「はい」
「それはもちろん構わないけど、どうして……」
ルネの表情は母のものであり騎士のものでもあったが、かつて
デュケイがルネに託した三つのもの――指輪と言葉とフレイのうち、指輪は失われてしまったけれども、デュケイの存在はルネの内面深くに宿り、今もなお息づいているのだとレグルスにはわかった。それを愛情と呼ぶのかもしれない、などとぼんやり思う。
「ジェスティンはきっと現れます。その時に、わたしの手で片をつけたいんです。もちろん、勝手な言い分であることはわかっています。これだけお世話になって、迷惑もかけて、心配も気配りもしていただいて……。でもこれは、わたしのけじめとして、区切りとして考えたいんです」
「……ジェフラさまはきっと反対なさると思う」
「レグルスが黙っていれば、わかりっこありません」
レグルスは思わず噴き出した。以前のルネならば、決してこんな言い方はしなかっただろう。だが、このしなやかさが好ましかった。
「わかった、約束するよ。その代わり、無理だけはしないこと。フレイを悲しませちゃいけない。いいね?」
はい、と神妙に頷いて、ルネはふと不思議そうに「約束」と繰り返した。
「どうかした?」
「いえ……あの、ディーク……デュケイが、約束することを嫌う人でしたから。何だか新鮮で」
ルネはフレイに、おとうさんの話よ、と優しく語りかけ、そのまま抱き上げる。
「デュケイのお父さんも騎士だったそうです。帰ってきたら新しい剣を買おうって約束して遠方に赴任し、そのまま病を得て帰らなかったとか。お父さんとの約束は宙ぶらりんのままわだかまっていたみたいで……。騎士が戦場で命を落とすことは少なくなりましたが、期待することもさせることも嫌って、デュケイは約束をしたり、『もしも』という未来の仮定を避けていたんです」
「真面目な人だったんだな」
ええ、とルネは笑う。遠くを見る目つきのまま、続けた。
「でも、内乱の少し前に……もしも生き延びることができたら、二人で遠くの国で暮らさないかって言われて、指輪をもらったんです。指輪はジェスティンに捨てられてしまいましたけど、すごく、すごく嬉しかった」
「……デュケイは、ルネに生きていてほしかったんだね」
「え?」
ルネの目が丸く見開かれ、レグルスは驚いた。
「だって、そういうことだろ。内乱が起きて国が混乱しても、きみに生きていく希望を持っていてほしいから、それまで避けてきた未来の約束をしたんだよ、デュケイは。だから死ぬな、生をつなげって言って、笑ったんだと思うんだけど……違うのかな。違うかもしれない。デュケイのことはきみの方がずっとよく知ってるだろうし」
ルネは考え込むように目を伏せ、しばらく黙っていた。レグルスはこれまでにルネから聞いた話を思い返し、わずか数日関わっただけのデュケイの人となりを思い描き、ルネの生真面目さを加味して、あまり的外れなことは言っていないはずだと結論した。
内乱の際、王派にとって絶望的な状況にも関わらず、真珠騎士としてルネは死さえも恐れず、王弟派の騎士たちと剣を交える心づもりだっただろう。だが、デュケイはそれを嫌った。ルネの生を望んだ。
だから、甘い言葉で包んだ未来を語り、さらに指輪を贈ることで約束を形にした。心折れそうになったルネが指輪を目にすれば、いつでも約束のことを思い出せるように。
だが、デュケイは夢想家ではない。王弟派の中核であるジェスティンに憎まれ、生き永らえることなどできないと冷静に現実を見つめていたに違いない。
デュケイとルネ、二人で生きられぬ未来を知ってなお、彼はルネの生を願った。イルナシオン騎士の理想が滅ぶのならば、まったく新たな人生を歩んでほしいと、過去に囚われず自由に生きてほしいと願った。もしかすると、フレイが宿っていたことを察していたのかもしれない。
それゆえに、彼は処刑台から生きているルネを見つけ、彼女に生を説いて、笑うことができたのだろう。
指輪はある意味、デュケイの呪いだった。ルネを生に縛りつけるための。ルネの考え方が変わり、指輪などなくとも生きられる強さと希望を得たとき、ようやく呪縛は解けて、デュケイの存在は永遠に刻まれる。
かなわないな、とレグルスは嘆息する。困難な状況下で、デュケイがどこまで計算していたのかはわからない。すべて無意識だったとさえ考えられる。けれど指輪の呪いの力でルネは今日まで生き延び、フレイというかけがえのない存在を得て、新たに羽ばたいてゆこうとしている。
恐怖も暴力も、ルネの生を絶つことはできなかった。――デュケイは、絶対の勝利を手にしたのだ。
「そう……ですね。きっと、レグルスの言うとおりです」
ルネは包帯に覆われた右手を見遣り、フレイの腹に顔を埋めるようにして、ディーク、と何度も呼んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます