(9)
目を開けると、ルネがいた。目には隈が浮き、唇は乾いてささくれだっている。顔色も悪い。
「……どこか悪いのか」
尋ねると、ルネは無言のまま首を横に振って、そのまま顔を伏せて泣きだした。左の袖が力なく垂れ、右手は腿の上で固く握られている。
「シャルロが……亡くなりました」
嗚咽混じりであったが、ルネの声はしっかりと、事実をデュケイに伝えた。奥歯を噛むぎりぎりという音が聞こえ、たまらず腕を伸ばしたが、全身が熱く痛んで叶わない。そうか、とため息をつくのが精一杯だった。
自分は、生き延びたらしい。シャルロッテを護ることもできず、のうのうと生きてしまった。護衛としてそのことが何よりも恥ずかしく、辛い。ルネのように涙を流すことさえ許されぬ気がして、刺すように痛む目を閉じる。
ルネは憚らず泣き声をあげている。
腕を失ったことにさえ、涙のひとつも浮かべなかったルネが、泣いている。
頬を打たれたような衝撃に、痛みまでが鎮まるようだった。デュケイはもう一度腕を伸ばそうと試み、勢いで上体を起こし、震えるルネの肩に手を置いた。
「痛いでしょう……横になっていてください」
「いいんだ」
ルネが寝台に腰を下ろし、デュケイの肩に額を押しつける。
表情に乏しいルネだが、涙はこんなにも熱い。
血斑のドレス姿のシャルロッテも、燃えるように熱かった。
――この熱は、生命そのもの。
包帯に覆われた腕は痛む以上に動かしづらかったが、ルネの背に手のひらを重ねた。
「ディーク……」
「いいんだ」
「……はい」
そのまま、二人で互いの肩に顔を埋め、静かに泣いた。騎士として戦場に斃れたのではなく、一方的に毒を盛られたシャルロッテの無念と、それでもなお貫き通した想いの強さに、泣いた。
やがて、どちらからともなく身体を離した。くすぐったいような笑みを浮かべながらルネがデュケイを寝台に横たえて、首を傾げる。
「どこまで覚えていますか」
「アヴェンダの……兵が広間に入ってきて、混戦になった。俺は……そうだな、当たるのを幸いに剣を振り回していたような気がする」
ルネが頷いた。目は赤いものの涙は乾き、表情はもう、いつもの凪に戻っている。
「ここは、クスレフです。ナターシャとミミがダリスタン侯に連絡を取り、こちらの公館に滞在していた侯が兵を率い、ロズルノー来てくださいました」
ダリスタン侯らがロズルノーの王家別邸を制圧した時には、シャルロッテはすでにこと切れていた。致命的な外傷はなく、床に散らばった食事や酒から毒物が発見されたため、候は王都へ厳重な抗議を申し入れると同時に、デュケイら生き残った護衛を保護し、有無を言わせずクスレフに匿っているというわけである。貴重な参考人としてクスレフに留め置かれているという意味合いもあろう。
候が事前の報せなく兵を連れて越境したこと、ロズルノーの屋敷を制圧したことについては外交上の問題に発展する恐れもあったが、それ以上に、シャルロッテらが襲われたこと、少なくとも紫騎士が犯行に関わっていることなどが王都に衝撃を与えているという。
特に、若い騎士らに反体制の思想が広がっていることを知りつつも具体的な対策を執らなかったと紫騎士団長を責める声が大きく、本人もひどく憔悴しているのだそうだ。
事件の調査はイルナシオンとアヴェンダが共同で行うことになり、ルネら調査班がロズルノー入りした。ルネはシャルロッテとデュケイ、双方の共通の友人ということで特別に病室へ出入りを許されたのだと話した。
「ダリスタン候にもお会いしましたが、シャルロの言っていた通りの方でした。兵の信頼も篤いですし、すごく有能な方に思えます。ディークが目を覚ましたら一度話を聞きたいということでしたが……」
「もちろんだ。こんな格好でよければ、いつでも」
「わかりました。伝えてきます」
ルネが静かに部屋を去り、デュケイは大きく息をついて窓に目をやった。ひどく疲れていて、何もかもが億劫に感じられる。
空は冬に向けて青みを失いつつあり、薄い雲が流れていく。揺れる梢の具合からして、ここは二階か、三階か。寝そべったままでは街の様子はわからない。きつい消毒薬の匂いと、身動きすらままならぬほどの手当てが、自身の負った怪我の深さよりも、ダリスタン候の人情を表しているようだった。
部屋には華美な調度こそないが、目に優しい壁紙やカーテンの色合い、寝台の柔らかさと清潔さ、どれをとっても居心地は悪くなかった。寝台の向かい側が部屋の出入り口で、部屋の端に置かれた書きもの机に、デュケイの剣が立てかけられている。柄がぴかぴかに磨かれていることからして、手入れがされているに違いなかった。
考えなければならないことはたくさんあるはずなのに、どうしてかその気になれなかった。巨大な繭に包まれて外界から遮断されているかのように、感覚のすべてが曖昧で遠い。シャルロッテはもういないのだという喪失感ゆえか、大怪我に身体が休息を求めているのか。そういえば、ルネに看病の礼も言っていない。
控えめに扉が叩かれ、ルネが戻ってきた。ダリスタン候ではなく、栗色の編み込みを垂らした若い女性を連れている。白い上っ張りと黒い道具入れが目に入ったので、どうやら医者らしいとわかった。
「クリスティナです。ジェフラさまと共にイルナシオン入りし、怪我人の救助にあたりました」
「……それは、どうも。お陰で助かりました」
クリスティナと名乗った医師は、寝台の傍らの丸椅子に腰を下ろした。膝の上に道具鞄を置いて、まじまじとデュケイを見つめる。
「あの日、護衛の方々の食事には痺れ薬が、広間で出された葡萄酒には毒が入れられていました。単なる痺れ薬と思われるかもしれませんが、酒と同時に服用すると効果が倍増するような性質のもので……端的に申し上げて、死んでもおかしくない取り合わせでした。実際、護衛の方の中には、この薬の作用だけで心の臓が麻痺してしまった方もおられます」
デュケイは頷いた。戦場では兵たちの士気を上げるために酒が振舞われることも多いが、護衛任務の食事で酒というのは変だと思ったのだ。酒をあまり口にしなかったのがよかったのだろうか。
「加えて、デュケイさんの場合は大小さまざまな傷を負っておられました。血も失っていたし、旅路の消耗もあったでしょう。私のもとに運ばれてきた時は呼吸も止まっていて、正直なところ、助けられないと思いましたが……あなたは息を吹き返し、こうして目覚められた。医師としては、少しでも長く眠って回復に努めてほしいと思っています」
「はい」
ですが、とクリスティナは肩をすくめる。
「事件の調査のために、ぜひお話がしたいとジェフラさまも仰っておられます。許可したくはありませんが……気分はいかがですか」
「良くはありませんね」
「でしょうね。決して無理はしないでください。疲れたら眠ること。疲れていなくとも眠ること。よろしいですね」
わかりました、とデュケイは神妙に頷いてみせた。若い医師の熱意が眩しく、有難かったのもあるし、はきはきとした口調が昔のシャルロッテのようで、微笑ましかったのだ。
「まだか、クリス」
戸口に顔を出したのは、ジェフラ・ダリスタンその人だった。自ら名乗ったのではなく、紹介されたわけでもないが、一目でわかった。
仮にも領主たる男の催促にも、クリスティナは動じない。
「まだです。本当は明日……ううん、一週間後だって言いたいくらいなんですからね。ほどほどにしてくださいよ」
「わかっているよ」
本当かしら、とぶつぶつ言いながらクリスティナが退室し、代わりにジェフラが丸椅子に腰かける。アヴェンダの貴人は男女を問わず髪を長く伸ばす習わしだと聞くが、ジェフラもまた、白に近い銀髪を首の後ろでひとつに束ねていた。
「ジェフラ・ダリスタンだ。どうか楽に。……あなたもだ、ルネ」
扉の脇に直立の姿勢で控えていたルネは、勤務中であるかのように、は、と短く答えて顎を引いた。
「今回のことは……私たちの力が及ばず、このようなことになってしまい……何とお詫びを申し上げてよいか」
ジェフラは右手を挙げて制し、無言で頷いた。胸元と右腕の喪章が、何よりも雄弁にシャルロッテの不在を語っているようで、デュケイも黙る。
「あなたは十分に働いてくれたよ、デュケイ。自身も死の淵に立ちながら、我が妻の生命を汚させんと奮闘してくれたと聞いている。これがイルナシオンの騎士かと、兵たちも感じ入っていたようだ」
「ですが……しかし」
シャルロッテの生命を護るのが護衛だ。いくらその生命が毒という卑劣な手段で奪われたのだとしても、毒の行使を予期して護衛計画を立てるのが筋というもの。もちろん毒見役はいたのだが、毒見として機能していなかったのだとすれば、敵はこちらが想像していた以上に規模が大きく、シャルロッテ殺害の意志も固かったということだろう。
「怒りがないといえば嘘になるがね。ただ、怒りをぶつける先は正当なものであるべきだと考えている。事のすべてを明らかにし、黒幕を断罪することをシャルロッテも望んでいると思う。少なくとも、そちらの体制を責めることは無意味だ。護衛は少数でと申し入れた私にも責はある」
「申し訳ございません」
「謝らないでくれ。あなたの生命はシャルロッテの希望だ。謝意があるのならば、彼女のために使って欲しい」
ジェフラ・ダリスタンの言葉には、すでにシャルロッテの死を乗り越えた毅然とした響きがあった。だがそれも、領主としての立場がそうさせているに過ぎぬことを、デュケイはぼんやりと察した。騎士たちが戦場で散った同胞のことを、いつまでもくよくよと気に病まないのと同じだ。私人としての想いは、また別にあろう。
「承知いたしました」
頷いたジェフラは、デュケイに断わってから一人の青年を招き入れた。年の頃はデュケイとそう変わらなさそうだが、格式張った格好というわけではないのに恐ろしく隙がない。武人としては細身の部類だろうが、立ち姿だけで力量が感じられた。彼は穏やかな表情で、ルネとデュケイに対して一礼する。
「レグルスという。今回の事件の調査を任せている」
「レグルスと申します。ご負担かもしれませんが、調査のためにお話を伺ってよろしいでしょうか」
「もちろんです。こんな格好で申し訳ありません」
寝台にデュケイ、丸椅子にジェフラ、入り口を護るルネとレグルス。部屋は適度に広く圧迫感はないが、イルナシオンとアヴェンダの面々が入り混じる様子に、シャルロッテを思わずにはいられなかった。
促され、デュケイは口を湿しつつ、あの日のことをロズルノー入りしたときから順に語った。
別邸で紫騎士と合流し、騎士たちは打ち合わせの後食事を摂って、各自の持ち場に散ったこと。シャルロッテたちは湯を使い、身支度をしてから広間へ向かったこと。立ち番の最中に意識を失ったかもしれないこと。紫騎士に誘い出され、囲まれたこと。屋敷へ戻る際に辿った小路や屋敷内でどう動いたかは、レグルスが見せてくれた地図に沿って説明した。
委細を省いたとはいえ、話し終えるとどっしりと重い疲労がのしかかってきて、デュケイはゆるく息をついた。
「続きは明日にしますか?」
「いや……大丈夫です。続けてください」
ルネは手本のように乱れない直立姿勢を保っていたが、不安げな視線を寄越した。心配するなと頷いてみせる。ジェフラは椅子に腰かけたまま、腕を組んだり顎を撫でたり、何やら思案に沈んでいるようだった。
では、とレグルスが一歩前に出て、続ける。
「合同調査の結果、襲撃に加担したのは紫騎士を中心に、各騎士団の若手騎士や見習いたちであることがわかりました。襲撃に加担したのは全部で三十五名、そのうち死亡者は二十名、残りのうち十二名までは捕えましたが、残りの三名は未だ逃走を続けています。尋問により襲撃加担者の氏名や所属は明らかになっているので、恐らくは仲間たちに匿われているのだと思います」
「……護衛側の被害は」
「隊長であるイーラン殿をはじめ、六名が亡くなられました」
訊けば、デュケイと瑪瑙騎士のナターシャ、ミミの他にもうひとり、白騎士で生き残った者がいるというが、痺れ薬と外傷の影響で意識を失ったままだという。
「毒か。気にいらんな」
呟いたジェフラの低い声に、彼の怒りと苛立ちがはっきりと表れている。デュケイとて、同じ気持ちだった。
もしも、剣と剣での勝負であれば。万全の体調であれば。過去の仮定に意味はないとわかっていても、毒という一方的で卑劣な手段によってシャルロッテが殺されたのだと認めたくなかった。金剛騎士イーランもまた、どれほどの屈辱と怒り、怨みとともに死んでいっただろう。勇猛果敢として名高いイルナシオン騎士としてこれ以上ない恥であり、ジェフラに対して何と言うべきか、どれほど考えても答えは出なかった。
「騎士の方に用いられた痺れ薬も、食事に混ぜられた毒も、決して珍しいものではありません。ですが……イルナシオンでは毒という手段は、これまであまり使われてこなかったと」
「イルナシオンは騎士の国です。老若男女を問わず、誇り高き騎士の子孫たる自負がある。毒などという卑劣な手段を用いることは、何より不名誉なことと考えられています」
「だが、実際に毒は使われた」
ジェフラに遮られ、デュケイは黙る。
「あなたがたとは考えを異にしている一派があるようだ」
やはり、ラグナシャスとジェスティンらか。威勢のいいことを言っていたが、ここまで非情な振舞いに及ぶとは、デュケイも考えていなかった。ラグナシャスにとって、シャルロッテは従姉妹だ。祖父を同じくする者を、こうも簡単に手にかけてしまえるとは。
それとも、血を重んじるデュケイこそが甘いのか。
そのとき、乱暴に戸が叩かれた。ジェフラの返答も待たずに扉が開かれ、ルネとレグルスが身体をたわめる。
「兄上!」
「……どうした、ジュライ。不作法が過ぎるぞ」
ジュライと呼ばれた若者は荒い息の下で申し訳ありませんと非礼を詫びた。ジェフラと同じ色の長い髪が乱れ、額に張りついている。
「イルナシオンから連絡がありまして、ラグナシャス王弟殿下が暗殺の首謀者を捕え、処刑したと……!」
ジェフラは勢いよく立ち上がり、早口で指示を出した。
「カーヴィンとヴァーチュアを呼べ。デュケイ、ルネ、すまないが失礼する。レグルスも来い。情報を整理して、後でお二人に伝えろ」
「は」
慌ただしく三人が退出し、時間が止まったような空虚さの中、デュケイとルネは顔を見合わせた。
何がどうなっているのか、にわかには想像がつかない。
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