(8)
「……誰に頼まれた」
呂律が回らず、視界ばかりがぐにゃぐにゃと歪んで揺れている。頭に浮かぶのは、シャルロッテの安否だった。デュケイ一人に薬が盛られたとは考えにくい。護衛の騎士全員、あるいは食事をした者全員に盛られたのだとすれば、狙いはシャルロッテに限られる。
何故シャルロッテが狙われる? 国外に嫁ぎ、イルナシオンとアヴェンダの両国を良くしようと意気込むシャルロッテが、どうして?
考えはあちこちにばらけるばかりで、少しもまとまらない。脂汗を滴らせながら、デュケイは唇を噛む。震える手が使い慣れた剣の柄に馴染み、わずかばかり腕に力が戻ったようだった。
「仮にも騎士たる者が身を売って平穏を買おうとは」
「軟弱な王の考えそうなことだ」
覆面の下からくぐもった声が聞こえる。
王を軟弱と断じたことで、彼らがラグナシャス王弟の考え方に染まっているのだと理解が追いついた。一つの理解が、デュケイの混乱を急速に鎮めてゆく。
ゼクサリウス王の和平路線を支持しているシャルロッテが切れ者と名高い隣国の領主に嫁ぎ、国外から王の政策を支援すると公言している。有言実行の人である彼女はダリスタン領、ひいてはアヴェンダ国を背後に力をつけ、王の政治を支えていくに違いない。
ラグナシャスが国政の改革を目論んでいるのなら、シャルロッテの存在は邪魔なはず。国外では、自由に動けない。――動くならイルナシオン国内で、だ。
「他国におもねって、何が平和か!」
「騎士の誇りが泣くぞ!」
口々に喚き、騎士と男たちはデュケイに斬りかかってきた。彼らを締め上げて、ジェスティンやラグナシャスの名が出るのかどうかはわからない。だが、金剛騎士であるデュケイに薬を盛ってなお四人をぶつけてきたということは、彼らも相当怖気づいていると見て間違いない。顔を晒している紫騎士同様、覆面の男たちも実戦経験に乏しい若者たちだろう。デュケイを殺せと命じられているのだろうに躊躇い、自らを鼓舞するように主義主張を口にしていたのも、甘いの一言に尽きる。
勝機があるとすれば、その一点のみ。
デュケイは慎重に間合いを見極め、一人目の斬撃を受け流す力を利用して二人目の大振りを躱し、足払いをかけた。男の身体が剣を振りかぶる三人目の方へ倒れてゆくのを目の端に捕え、一人目の右手を狙う。
「ぎゃあっ!」
狙い過たず、デュケイの剣は男の右腕を手首から切断した。噴水のように血を吹き上げる手を掴み、男がのたうち回る。
血だまりを見て、残る男たちの動きが止まった。覆面の間から覗く目には、紛れもない恐怖の光が浮かんでいる。これならいけるか、とデュケイの胸に希望が兆すが、身体の痺れはどんどんひどくなっている。状況は好転しているとは言い難い。
少し血を抜くか。危うい考えが浮かんできて、吟味する。彼らの剣に曇りはなく、これ以上毒物の心配はなさそうだ。うまく斬られれば痛みで目も覚めるかもしれない。
仲間の一人がたったの一撃で戦線離脱し、騎士たちは焦っているようだった。恐らく、薬を盛って前後不覚に陥っているデュケイの息の根を確実に止める、そういう筋書きだったのだろう。反撃まではほとんど予測していなかったはずで、そうでなければ黒装束たちももう少し装備を固めてきただろう。
「散れ!」
騎士の号令で、残る三人がデュケイを囲む。残る集中力を振り絞って位置を把握し、一番動揺の激しい男を最小限の動きで斬り、すかさず反転してもう一人の黒装束に剣を叩きつけた。
大きな動きに吐き気がこみあげ、軸足が力を失ってたたらを踏む。好機を逃さず詰め寄ってきた騎士の剣を、敢えて受けた。身体を捻って直撃は避けたものの、熱した油をかぶったような灼熱感に呻き声が漏れる。
金剛騎士に一刃を浴びせた喜びにか、騎士の目が見開かれて頬が紅潮する。ふざけるなと一喝したいのをこらえ、剣を握り直した。
彼らの主張がどうであれ、力に任せてシャルロッテを排除しようという考えこそが浅ましく、卑しいものに思えた。
気に入らないもの、ことを暴力で解決するだけならば、法も政治も要らない。ただひたすらに体を鍛え、殴られれば殴り返し、あるいは殴られる前に先手を打って殴ればよいのだ。
だが、それでは人間としてあまりに程度が低い。何のための言葉、何のための思考か。騎士の誇りを取り戻すなどとうそぶいて、やることはこれか。イルナシオン騎士が聞いて呆れる。国祖シオンは誰彼構わず剣をもって黙らせてきた野蛮人などではない。人の倫を、情けを知り、非道を恥としたのだ。
「……それを、おまえたちは!」
考えるほどに腸が煮えくり返るようで、デュケイは吠えた。戦場にあっても久しく感じたことのない、壮絶な怒りだった。
踏み込んだ右足に体重を乗せれば、斬られた腹の傷が脈動に合わせてどうどうと抗議の痛みを訴え、剣を握る指は不協和音を奏でるがごとくに震える。頭の奥には眩暈が、喉には吐き気がわだかまり、霞む目は火花が散るように明滅する。全身が声高に休息を求めているのはわかったが、屈するわけにはいかなかった。
振り抜いた右手が騎士の制服の飾り紐を斬り飛ばす。デュケイの一撃によろめいた男は歯を食いしばって姿勢を保ち、滑るような突きを繰り出してきた。頬を掠めたのも気にせず身体を捻って下方から斬り上げる。が、左足が耐えきれずにがくりと折れ、デュケイは冷えた庭園に倒れ込む。ここぞとばかりに肩や背を斬られ、突かれて起き上がることもできずに、ただ苦鳴だけは漏らすまいと奥歯がきしむほどに顎に力を込めた。
死んでなるものか。こんなところで。
シャルロッテを護らねばならぬ。
圧倒的有利な体勢であるにも関わらず、紫騎士は止めとなる斬撃をいつまで経っても繰り出さなかった。中途半端な傷ばかりが増え、何度目かに突かれたとき、デュケイは持てる力の全てを左肩に注いで、血と脂に汚れた騎士の剣をくわえ込んだ。
「……人を斬るのは初めてか?」
喉の奥で唸るような、地を掠めるがごとくの低い声、墓から這い出た亡者の動きで立ち上がったデュケイに、肩に刺さったままの剣にぶら下がるような格好で騎士は震えはじめる。
「なんで、なんで……」
何故死なない、と彼は言いたいのだろうか。笑わせる。
「この程度で俺を殺せるとでも?」
黒装束のうち一人は腕を切断され地面に転がり、二人はそれぞれ首筋と腹を深く斬られて絶命している。銀騎士だった頃、各地の戦場を渡り歩いて学んだことの一つは、言い換えれば効率よく敵を無力化する方法だ。学び、実践しなければデュケイの生命はとうになかっただろう。
イルナシオンで騎士位を持つ者はたくさんいる。だが、実際に国境で、あるいは国外で実戦を経験したことのある者はほんの一握りだ。戦場に満ちる死と血の臭いと恐怖、畏れは体験した者でないときっとわからない。人の命を奪うという覚悟さえ、戦場で培われたものなのだから。
彼は模擬剣の扱いは人一倍上手いのだろう。だが、人を斬り、剣を汚し、返り血を浴びたことはきっとない。想像だにしなかった人肉の手応え、骨を断つ不快極まりない硬さ、歪む顔、迸る絶叫、やがて目から光が失われ、生命の抜け殻になっていくあまりに生々しい変化を目の当たりにしたことはあるまい。
その彼が、ゼクサリウスを軟弱と唾棄し、彼に連なる思想のシャルロッテの生命を奪おうという。こんな馬鹿な話があるものか。
「ゼクサリウスさまは、おまえが目にしたことのないものを見たのだ。失われてはならぬものがあると、誰よりも深く切実にわかっていらっしゃるのだ」
人形のような無表情を保ったまま、ゼクサリウスを庇ったルネ。胸を突かれて吐血し、苦悶の表情を浮かべて死んだ暗殺者。失血死を防ぐために、アーソが火かき棒で切断面を焼いたときの、ルネの絶叫と人肉が焦げる臭い。華奢な左腕が血に塗れて光降り注ぐ庭園に転がっているのを、誰も拾い上げることができなかった。
王として生かされるために、彼の目に触れぬところで傷つき死にゆく者がいること、歴史は、時間は、累々たる屍とともに語られるものなのだということを、ゼクサリウスはあの日に識しってしまったのだ。
美しいもの、雅やかなもの、綺麗なもの、楽しいもの。戦の減った時代に生まれた王子の身の回りにあったものはどれも選別され、安全と安心を保証されていた。つくりものに囲まれて育った王子にとって、むきだしの生命はどれほど重く、苦く、醜悪で――かけがえなく愛おしいものに感じられただろう。
デュケイにはわかる。父の死を知らされたときに感じた疑念。死に顔も見れず、遺品だけが送り返されたときの母の表情。国境で病死したと伝えられる父は、本当に病死だったのか。平民出の、人柄の良さだけが取り得のような父が受けたのだろう仕打ちをデュケイも体験し、疑念は確信に変わった。父は殺されたのだ、同じ騎士団の誰かに。
今度帰ってきたら――最後に交わした約束だけが燻り続けるやるせなさ。
ゼクサリウスが、誰も死なず、傷つかぬ平和な世をと望むのは当然のことなのだ。あとは王自身が、美しすぎる理想と、真逆の現実にどう折り合いをつけるかというだけの問題で。
それは力で、暴力で解決できるものではない。純粋な暴力がものを言う野蛮な分野は、デュケイたち騎士が引き受ける。その覚悟はできていた。
デュケイの豹変に立ち尽くす騎士の首を斬ることは、何でもなかった。手巾で剣の汚れを拭い、重い身体を引きずるようにして、走る。
水場に繋がる勝手口前には、同じくシャルロッテの護衛であった白騎士が制服を真っ赤に染めて倒れており、彼を手にかけたらしい黒づくめの男が二名、騎士の代わりに見張りに立っていた。暗闇からぬうと現れた血染めのデュケイを見て、男たちが飛び上がる。仲間たちに報せに走ろうとする一人を背中から斬り、腕を返してもう一人の息の根を止める。
水場には使用人のお仕着せ姿の女性と調理人らが折り重なるように倒れており、そのどれもが惨たらしい傷を負い、呼吸を止めていた。傷は汚く、使い手の未熟さを伺わせる。この傷ではずいぶん苦しんだだろう、とデュケイの胸は痛む。続く調理場でも調理人と給仕女たちの物言わぬ骸がデュケイを出迎えた。調理されることもなくなった鍋が焦げつき、嫌な臭いを放っている。隣の深鍋には油が満たされていて、油から引き揚げられぬままの何かが黒く漂っていた。デュケイはままならぬ身体を叱咤して火を消した。このままでは屋敷が燃えてしまう。
調理場からシャルロッテのいる広間までは、使用人たちが使う奥廊下で行き来できる。調理場の隣の配膳室を抜け、奥廊下に進むとまた黒づくめの男が二人現れ、これはデュケイの対応が遅れて増援を呼ばれ、結局は五人を相手取ることになってしまった。だが、狭い配膳室と奥廊下では数の有利を十分に活かせない。一人また一人とデュケイの剣に斬られ貫かれて血だまりに沈んだ。
デュケイとて無傷では済まなかったが、深手ではない。盛られた薬の影響の方が深刻だった。壁に手をつき、体重を支えるようにしてつたい進む。控えの間に倒れ伏す白騎士の遺体を横目に、驚愕と恐怖に目を見開く紫騎士を半ば殴り倒すようにして広間に転がり込んだ時、デュケイの剣は血と脂で汚れきり、単なる鈍器と化していた。
広間にいた者の視線すべてが、デュケイに集まる。希望に満ちた眼差しは、シャルロッテと護衛の瑪瑙騎士のもの。それ以外の二十ばかりは、化け物を見るかのごとくであった。
「ディーク……!」
シャルロッテは白いドレスを赤く汚しながらも、長剣を手に一歩も退かぬ気迫を放っている。護衛の長であった金剛騎士イーランは血まじりの泡を吹いて卓に突っ伏していた。三人いた瑪瑙騎士は一人しかおらず、彼女は額に青筋を立てて抜剣している紫騎士団長とは異なり、焦燥と緊張のために蒼白になっていた。
広間の隅では街長ら客人と給仕女が一所に固められ、剣を突きつけられて震えている。襲撃者は同じく、紫騎士と黒づくめの男たちだったが、騎士団長が彼らの反逆を予想していなかったことは明らかだった。
床には衝突の犠牲者が倒れており、それを挟んで両者が対峙している。数の上では圧倒的に不利ながらも、不屈の闘志を浮かべるシャルロッテと、余裕ににやけた紫騎士と。満身創痍のデュケイを加えたとしても、形勢は覆らない。
だが、それが何だ。
シャルロッテを失うわけにはいかない。力こそが正義だなどと、連中を驕らせてはならない。
デュケイの登場の衝撃からいち早く立ち直ったのは、やはりシャルロッテだった。瑪瑙騎士らを促し、デュケイを交えて壁を背にするよう、位置を変える。デュケイもまた棍棒同様の剣を構えたが、彼女のドレスを染めるものは葡萄酒でも返り血でもないことに気づき、シャルロッテの手にした剣を奪い取った。恐らく、護衛としての大役を果たせず毒殺されたイーランのものだろう。自分の剣を捨て、イーランの剣に持ち替える。
「ディーク!」
気が緩んだか、デュケイに寄りかかるようにして膝を折ったシャルロッテを支えた。結い上げられた銀髪は乱れてほつれ、汗で化粧がぐちゃぐちゃになっている。それでもシャルロッテは気高く美しく、勇敢だった。
「ナターシャとミミをクスレフへ遣ったわ」
掠れた声が耳元で囁く。アヴェンダへと走った瑪瑙騎士らの姿を、デュケイは見ていない。生きて無事に国境を越えていることを祈るほかはなかった。
「わかったから、もう喋るな。座っててくれ」
シャルロッテの喉の奥で、くつくつと笑いが弾ける。
「惚れちゃいそうよ、ディーク」
「馬鹿言うな」
本気だって、と軽やかに言ってのけるシャルロッテが咳き込んだ。その湿った音に、怒りで煮えたぎるようだった腹の底が急速に冷えていく。
「こんな……ねぇ、悔しいったらありゃしないわ」
「シャルロッテさま!」
瑪瑙騎士の声は、悲鳴に近い。デュケイはシャルロッテの腰を抱く左腕に力を込め、恐る恐る振り返った。紅ではない、糸を引く赤いもので口と胸元を汚した友は、出方を窺っている紫騎士たちを真っ直ぐに指差した。
「行きなさい、ディーク。私はここであなたのことを見てるから。……負けたら、承知しないからね」
「ああ」
壁に凭せかけるように、シャルロッテを座らせる。紫の眼も弧を描く唇も、不敵に輝いている。いつもの、変わらぬシャルロッテだった。
広間の外が騒がしくなり、大扉が勢いよく開かれる。そこからアヴェンダ式の武装に身を固めた男たちが雪崩込んできたのと同時にデュケイは床を蹴って
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