(5)
翌月、長く続いていたサリュヴァンとの国境付近での小競り合いに決着がついた。ゼクサリウスが兵を退いたのである。平和的解決の一環としての撤退であると王は説いたが、実質的な敗北であることには違いない。
南方の守備に当たっていた赤騎士の余力は十分であったのだが、王が戦の終結を宣言したために撤退せざるを得ず、騎士団からは不満の声があがった。
形式的には和平が成立したのだが、賠償交渉は難航した。余力を残していたとはいえ、退いたのはイルナシオン側である。勢いづいたサリュヴァンはイルナシオンに賠償金の支払いと、周辺地域の非武装化を要求し、イルナシオンは受諾した。そうでもしなければ、またもや戦になることが明らかだったからである。
不利な条約の受諾に騎士のみならず、国民からも非難の声が寄せられた。しかし、戦のきっかけが何だったのかも曖昧になっているほど古くから断続的に続いていた戦であっただけに、戦の被害が大きかった南部地方の民や、戦と聞いて顔を顰める老人や女たちにはゼクサリウスの和平路線は強い支持を受けることとなった。
不満を訴える騎士たちの先頭に立ったのは、ラグナシャス王弟である。
彼はイルナシオン騎士の誇りを説いた。
「有利な戦況にあったにも関わらず兵を退き、不利な和平条約を結ぶなど、勇猛果敢たるイルナシオン騎士の恥である。戦場で散るは騎士の定めであり、誉れである。人命を重んじるあまりに通すべき筋を曲げて戦を終結させた王の政策を遺憾に思う」
一方のゼクサリウスは騎士たちを労い、長期間にわたる戦で疲弊しきった南部地方を慰問しては、勝利できなかったことを詫び、復興支援を約束した。
王の和平政策と王弟の鼓舞の狭間で、騎士たちも揺れた。
周辺諸国と足並みを揃えて友好政策を採るのは国として当然の選択であると言う者、いやこのままではイルナシオンは諸国になめられると危惧する者、戦功をたてずして何が騎士かと唾を飛ばす者、命あっての物種だと胸を撫で下ろす者。意見はそれぞれだったが、声高にイルナシオン騎士の理想を説いたラグナシャスに傾倒する者が多くみられた。
表だって王への批判を口にする者こそいなかったが、ラグナシャスの毅然とした態度は概ね好意的に受け入れられていた。
騎士団内部でも意見が割れた戦後処理を経て、ゼクサリウス王は軍事に関わる権限の半分を正式にラグナシャス王弟に委譲した。穏やかな性格で和を重んじる王と、時に過激なまでに我を押し通す性格の王弟。真逆の性格の二人に権限が半分ずつ存在することの危うさに気づいた者は賢明にも口をつぐみ、そうでない者は「王にも向き不向きがあるから」と若々しい情熱を露わにするラグナシャスの政治参加を前向きに受け入れたのだった。
そんな静かな混乱の最中に、病床にあった元金剛騎士アーソ・カンディードが息を引き取った。イルナシオンの騎士位に在る者ならば名を知らぬ者はないとまで言われた伝説の騎士、「銀戦車」の異名を取り、国外にも広く知られた猛将の死の報せも、動揺する騎士たちを正気づかせることはできなかった。
アーソの葬儀は密やかに、しめやかに執り行われた。弔問客たちは諦念に似た静けさを身に纏い、慎み深く、しかし篤い情をもって永久の別れを交わした。
ルネの眼にも涙はない。
喪章をつけたデュケイに深く一礼したルネは小さな声で、アーソの言葉を伝えてくれた。
「騎士たる者、御旗をお護りするが役目。――それが、どれほど暗愚な王であっても。……そう言っていました」
騎士の道を説くために敢えて暗愚と言ったのか、それとも現状を憂いていたのか。アーソの本心を知るすべはない。
「……今のこの国を、どう思う」
ルネにそう尋ねたのは、同じ質問をされてもデュケイは答えられないからだ。卑怯な先手の打ち方に、アーソさまが聞いて呆れる、と自嘲の思いがかすめた。
「不安です。とても。……それから、ゼクサリウスさまをお諌めする方がおられないのは、見ていて何というか……とても、お可哀想で。先王は果断の方でしたが、ゼクサリウスさまはお優しすぎるのです。大臣さまがたもそのあたりの事情はよくご存知ですから、うまく態度を変えていらっしゃいます。誰か一人でも、ゼクサリウスさまが心を許して政のことを相談できる方がいればいいのですけど」
ルネは真珠騎士として王を守護するうちに、王の孤独と苦悩をひしひしと感じるようになったのだと言った。
「もちろん、ゼクサリウスさまがそう仰ったわけではないんですが……大臣たちは私腹を肥やすことと保身しか頭にないような対応をなさいます。先のサリュヴァンとの和平交渉も、彼らがもっと王に協力的であれば違った結果になったのではないかと思うんです」
大きく息をついて、ルネは上目遣いでデュケイの様子を窺う。
「あの……ディーク」
「わかってる。誰にも言わない」
デュケイもまた、息をついた。
「ルネの言うことはもっともだと思う。いま宮中には、ゼクサリウスさまの味方がほとんどいない。本来なら、ラグナシャスさまが補佐なさるべきなんだろうけど……」
王弟の名前を出したことで、新年の儀の夜会で耳にした噂が脳裏に蘇った。ラグナシャスがルネにご執心だというが、ルネにその気がないのは明らかだ。相手がジェスティンであろうと翡翠騎士であろうと、変わらない。
しかし、デュケイにさえ縁談がひっきりなしにやって来るのだ。ルネはその比ではあるまい。かっ攫われるぜ、とジェスティンの歪んだ笑みに、わけもなく不安になる。
「……ラグナシャスさまとはどうなったんだ」
「え」
ルネの白い頬が引きつる。あまりに唐突すぎたかと自らの話術の至らなさに逃げ出したくなるが、発した言葉をなかったことにはできない。
「どう、というか。たぶんラグナシャスさまはわたしのことを、外国製の珍らかな玩具のように思っていらっしゃるんです。誰も持っておらぬものを手元に置いておきたいとお考えなんですよ。ディークは誰からそのことを聞いたんです?」
言い逃れはできまい、と観念して、ジェスティンの名を告げる。ルネのおもてが嫌悪と怒りと困惑に彩られ、いつもの冷静さを欠いたその動揺に、デュケイもまたたじろいだ。
「ジェスティンが……どうかしたのか。何かあったのか」
ルネは首を振るばかりで答えない。ジェスティンがルネに何らかの働きかけをしたのだろうということはデュケイにも想像がついたが、これ以上ルネから聞きだすことは無理そうだった。
「俺で力になれることがあるなら、言ってくれ。何でもする」
「ディーク……」
ルネの右手が縋るようにデュケイの袖を掴み、けれどもその手は力なく落ちた。凛とした眼差しが揺らぎ、涙さえ浮かんだように見えたのは気のせいだっただろうか。力ない様子のルネの手を握ることも、肩を抱き寄せることもできない。強張る肩に手を置くのが精一杯だった。
青い眼がまっすぐにデュケイを見上げる。高空の眼に映る自らの冴えない表情に絶望するしかなかった。
もっと強く、近くにルネを感じることができたら、胸の内に轟く言葉を紡げたら、どんなにいいだろう。ルネも同様にデュケイを待っているのだということは痺れるほどに理解できたが、デュケイにはどうしても、ルネの望みを叶えることができなかった。
かっ攫われるぜ、とジェスティンが、ラグナシャスが笑う。
黒々とした感情が炎となって、その笑みを焼き尽くした。
デュケイたちの懸念を察したかのように、ゼクサリウスは宮中でことさら明るく振舞い、精力的に王の職務と向き合っていた。
先王の崩御により、大きく乱れるかと思えた政治体制も、新王の若さと明るさで持ちこたえているように見えた。少なくとも、表向きは。
真珠騎士として御前を護るルネは、執務室や会議室にも入室を許されている。城内で時折すれ違いざまに見せる彼女の表情は、とても評判通りに事が進んでいると喜べるものではなかった。
ゼクサリウス新王の政治方針は、一貫して和平路線だった。騎士の国の王としては異例だが、周辺諸国も同じような政策を採っていることからして、奇妙ではない。小国が生き残るためには、突出していることこそが最善とは言い切れないからだ。
「武力ではなく、法による統治を」
と、ゼクサリウスは唱えた。国祖シオンの時代から、武力と法はどちらが欠けてもならぬという考えがあったのだが、多くの騎士を抱えるイルナシオンには騎士制度に関しての法があるばかりで、法治国家とはとても呼べないのが現状だった。
「法で平和を維持すべきなのだ。そのためにも、基盤となる法をきちんと整えねばならぬ」
文官たちが法の整った諸外国へ派遣され、他国の現状を鑑みた新法が準備された。また、ラグナシャスの提言により、形骸化していた騎士法も同時に見直されることとなり、手始めに瑠璃騎士団の権限が強化された。
イルナシオンの騎士団が高名であっても、戦乱の時代が終わって久しい。平和の世にあって騎士たちの規律は緩んでおり、腐敗も進んでいる。瑠璃騎士は騎士団内部の監査役として機能しているが、その瑠璃騎士自身がもっとも腐敗の進んだ騎士団であるとも言われていた。賄賂によって告発を取り下げたり、騎士団による犯罪を見逃したりということが日常的に行われていたのだが、ゼクサリウス新王とラグナシャス王弟の梃入れにより、瑠璃騎士団の構成員が見直され、騎士団内の変革が始まった。これまで習慣的に行われてきた贈収賄や推薦状の売買なども新生瑠璃騎士団は容赦なく取り締まり、重い罰を与えた。
焦ったのは貴族たちである。
貴族たちは子弟を騎士団に所属させていることが多い。上級騎士ともなれば箔がつくし、騎士であれば給金が出る。行き場のない三男坊、四男坊をとりあえず預けておくにはちょうど良い場だったのだが、金で騎士位が買えないとなれば話が違ってくる。騎士法改正で譲った分、新法発布にあたって貴族たちは一歩も退かぬ姿勢を見せた。
「……それで、このようなことに」
ルネのため息は止まらない。
「政治手腕という点では、ゼクサリウスさまよりも貴族たちの方が何枚も上手です。だいたい、踏んできた場数が違います。理想に燃える若き王をあしらうことなど、きっと何でもないのでしょう」
諸外国に倣って新たに定められた法は、イルナシオンの法治国家としての第一歩だったが、蓋を開けてみれば民や騎士に対する規定、罰則や税制を複雑化し、増やしたばかりで、貴族、官吏、大臣たちの縛りはごく緩いものだった。
新法は王宮前や公園、広場などに大々的に掲げられたが、それを読んで理解することができる者は不公平だと嘆き、文盲の者はその嘆きを聞いて憤慨した。
「平和になるってのは、いいことばかりじゃないんですかねえ」
デュケイの行きつけの食堂の女将はそう言って、ルネと同じように深々とため息をつくのだった。
「これでは誰のための法なのかわかりません。民の嘆きをお聞きください」
たまりかねたルネが友人として進言した時も、ゼクサリウスは笑い飛ばしたという。
「こんな時にまで政治の話か? ルネも相変わらず真面目だな。菓子はどうだ? ルーナシルの焼菓子だぞ」
それならばとシャルロッテに訴えても、アヴェンダへの嫁入りを控えた彼女はろくに身動きがとれない。何もかもが悪い方向に動いているようで、デュケイは落ち着かなかった。
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