(6)
夕焼月、二十日。
夏の熱気も遠くに去って、よく晴れた空に涼しい風が吹いていた。気持ちの良い初秋のこの日は、デュケイにとって一生忘れられぬ日となった。
アーソから正騎士昇格を祝う昼食に招待されたデュケイは、いつかの春の日のように曇った鏡に写る自らの姿を見つめていた。
あの日からほんの少しばかり背が伸びたくらいで、見た目は何も変わらないのに、デュケイを取り巻く環境は一変した。ルネやアーソ、王子たちと知り合い、正騎士位を得た。
不思議なものだと思う。
今日までずっと時間は途切れず流れているのに、こんなにも変わってしまうなんて。
ご家族も是非、と言われ、金剛騎士アーソに会えるとはしゃぐジェスティンと、緊張してうまく紅を引けない母とともに、アーソをおとなった。
アーソの邸宅の、いつも訓練所として使っていた庭にはテーブルが広げられ、傍らに小さな石の竈が設しつらえてあった。テーブルには花が飾られ、飲み物を冷やす氷水の他に、食べ物が一面に並べられている。
山と盛られた果物、きらきらと水滴を輝かせたサラダ、きつね色に揚がった皮つきのじゃが芋、骨付きの鶏肉。彩りのよいサンドイッチ、ずらりと並べられたチーズと腸詰め肉。
竈では石板が熱されていて、火の具合をみるアーソを王子たちが興味津々といった様子で見つめていた。
「あっ、ディーク! やったな!」
ラグナシャスが飛び跳ねてこちらにやってきたのを制し、まず王子らに母と弟を紹介した。性格が似ているせいか、ラグナシャスとジェスティンはすぐに打ち解けて庭を走り回り、ゼクサリウスとアーソはしきりに恐縮する母に食べ物を勧めている。
アーソの妻、ソアラが香辛料に漬け込んだ肉や魚を運んできて、アーソが石板で焼きはじめる。すぐにいい匂いが漂ってきて、誰かの腹がぐうと鳴った。
「元は戦場での調理法だと聞きますが、こうして焼きたてを食べるのも悪くないでしょう?」
王子ふたりとジェスティンはアーソの隣で物も言わず焼けた肉を口に運び、デュケイとルネはソアラに教わってパン生地をこねて焼き、シャルロッテは飲み物がなくならぬよう、またアーソの取り分がなくならぬように気を配っていた。
笑い声の絶えない庭。麗らかな陽射しと涼しい風。食べても食べても尽きない料理。母とジェスティンがいて、王子たちがいて、アーソとソアラがいて、ルネとシャルロッテがいる。
年齢も性別も身分も隔たりなく、皆が同じものを食べて同じ冗談に笑い声をあげて。
――夢のようだ、とデュケイは思った。
シャルロッテは昇格試験を二週間後に控えている。恐らく年が変わる頃にはどこかへ嫁いでいくだろう。ジェスティンは見習いに昇格し、ルネは初等部でいっそう励むだろう。王子たちもまた、それぞれの道を歩むに違いない。
シャルロッテとこうして食事をするのは、これが最後かもしれない。
もしもそうならば、笑っていたい。シャルロッテとの想い出が、少しでも明るく輝かしいものであるように。
夢のように美しく楽しい想い出を。
それぞれに何かしら、思うところのある集まりだったのだろう。皆が夢のような時間に我を忘れていたのだ。
だから、誰も動けなかった。
塀を乗り越えて庭に降り立った黒い影が、ゼクサリウス王子目掛けて走ってきた時には。
ただ、ぽかんと侵入者を見つめることしかできなかったのだ――彼女を除いては。
「ごっ……ぐぁ……」
白昼に現れた覆面の男が、口許を覆う布越しに大量の血を吐く。
――ルネが、いた。
右手の白刃を血に濡らし、ゼクサリウスを庇うようにして。
ルネは自らの左腕をかざして凶刃を防ぎ、覆面の男の心臓を一突きにしていた。
「ルネ!」
叫んだのは誰だったか。
ルネが剣を捻りながら引き抜く。男が前のめりに倒れ、その手が剣から離れたと同時に、半ばまで断ち切られていたルネの腕が、支えを失って地に落ちた。華奢な身体がぐらりと傾ぐ。
デュケイはルネに駆け寄り、その身体を受け止めた。驚くほど熱い、小さな身体を。
絹を裂くような悲鳴、騒然とする邸宅。
「力を」
ルネが何か言ったような気がするが、よくわからない。
青ざめたアーソが、全くの無表情で真っ赤に焼けた火かき棒を持っている。
「強さを」
ルネの左腕からとめどなく、葡萄酒よりも赤いものが流れ出している。
金剛騎士アーソの邸宅に賊が押し入り、昼食に招かれていた王子が襲われた。王子は無事だったものの金剛騎士の姪が重傷を負い、賊は死亡――悪夢のような惨劇は一昼夜にして王都中に広まり、混乱と動揺が都を駆け抜けた。
ジェスティンは取り調べに現れた瑠璃騎士の威圧的な態度に反抗心をむき出しにし、わざと汚い言葉で騎士たちを罵り、嘲るなどしていたが、それが虚勢にすぎないことは誰の目にも明らかだった。
「兄ちゃん、オレら、平民だから瑠璃騎士に馬鹿にされてるのか」
「違うよ。瑠璃騎士団は騎士団内部の事件を調査するのが仕事だし……いまの市街地の警備担当は青騎士団だけど、事件に関わったのと同じ騎士団の者が調査をしちゃいけないって規則があるんだ」
「でも、瑠璃騎士って貴族なんだろ? オレたちを見下してるに決まってる」
「瑠璃騎士の全員が貴族ってわけじゃない。落ち着けよ」
瑠璃騎士たちの態度に傲慢さを感じぬほど、デュケイはお人好しではなかったが、ジェスティンのように反抗してみせることが何の解決にもならないことはわかっていたし、下手に出ておだて上げて情報を得る方が得策だと判断したのだ。いくら平民出の新米騎士が相手であっても、暴力をふるわれることはないだろう。シャルロッテや王子たちの威光を、初めて有難いと思った。
度重なる瑠璃騎士たちの査問に疲れ果て、デュケイたちは謹慎が解かれるまでの三日間を融けた飴のような状態で過ごした。
謹慎が解けたのも、陰険な瑠璃騎士たちが何を問おうとも、デュケイたちに王子を暗殺せんとする動機は見当たらず、音を上げたというのが本当のところだった。王子やシャルロッテ、アーソの口添えもあったことだろう。
謹慎が明けて騎士団長のところに出頭すると、決してデュケイに好意的ではない青騎士団長でさえ、「災難だったな」と眉間に皺を寄せていた。
「ご迷惑をおかけしました」
「都はその話でもちきりだぞ。本当のところ、どうなんだ。何があった」
デュケイは口ごもった。あの日の光景は、何から何まで瞼の裏に焼きついているし、瑠璃騎士に何度も同じ説明を乞われたせいで、復唱することは易い。ただ、その裏にある意図が何なのか、どこの誰が暗殺計画を命じたのかがわからないのだった。
「あの日、アーソさまが試験の合格を祝おうと昼食に招いてくださいました。母と弟、それから王子とシャルロッテと初等部のルネ、アーソさまと奥方さまが集まっていましたが、母と弟はシャルロッテ以外の方と面識は……あ、弟は初等部でルネを見かけたと言っていましたが、ほぼ初対面です。食事をしているところへ、急に覆面の男が現れて、ゼクサリウス王子に切りかかりました。昼食会ということで皆が丸腰でしたし、咄嗟のことで誰も対処できず……唯一冷静に対処できたのが、ルネ・カンディードです」
「重傷を負ったと聞いたが」
抱きとめたルネの左手、肘の下で断ち斬られた左手から噴水のごとく吹き上がった血の色が、肉の焼けるすさまじい臭いが、今も全身にこびりついているような気がする。
「左腕で刺客の剣を受け、返り討ちにしたのです」
「何と……!」
「初等部の年齢でか!」
黙って聞いていたカーライルまでもが、身を乗り出す。
「ルネは……剣は抜群に上手いのですが、それほど感情を表に出す子ではありませんでした。ゼクサリウスさまともラグナシャスさまとも距離を置いているように見えましたし、一番親しかったのはシャルロッテですが……。だからどうして……あの、こう申し上げるのは不適切だとは思うのですが、その、ルネが腕を犠牲にしてまで王子を庇ったのか、まったくわからないんです」
「ディーク」
カーライルに咎められ、デュケイは口が過ぎましたと頭を下げた。
「いい。聞かなかったことにしてやる」
「本当ならば、ルネではなくて俺が動かなければならなかったんです。それはわかっているのに……」
惜しげもなく自らの肉体を差し出し、刺客を仕留めたルネと、ただ呆然と見ているしかなかった自分。騎士たる資格なしと瑠璃騎士に責められた言葉が、ずっしりと胸にのしかかる。
「デュケイよ。聞くところによると、刺客はサリュヴァン人だったそうじゃないか」
団長の言葉に頷くが、確かな情報ではない。刺客の肌が浅黒く、サリュヴァン人のようであった、というだけで。戦乱の時代に混血が進んだ国境付近では、イルナシオン人であっても浅黒い肌の者はいる。見た目で判断はできない。
「……そう、聞いております」
「ですが団長、南の国境をそう簡単に超えることはできないでしょう。疑いの目を国外に向けておいて、その隙に、という魂胆やもしれません」
「そうだな。それにしても、白昼堂々とはやってくれる。身のこなしはどうだった。剣の扱い方は」
市街地の警備を担当していた青騎士団が聞き込みを行っているが、アーソの邸宅の周辺は閑静で人通りが少なく、有力な手掛かりは得られていなかった。刺客の手にしていた剣が市場に大量に出回っている安物ではなかったため、その筋からの調査を進めることになっていたのだが、手柄を挙げたい瑠璃騎士団に、捜査権限を奪われてしまったのだという。
「アーソさまのところへ見舞いを届けてくれるか、ディーク」
カーライルから花屋の引き換え証と菓子折りを預かり、デュケイは一礼する。青騎士団としてのお咎めはないらしい。よかった、と安堵できるほどの余裕はまだなかった。
「それから、デュケイ。何か気づいたことがあれば瑠璃騎士ではなく、私たちに報告するように。……いいな」
「はい。失礼します」
詰所を出て市場へ向かう。
あの日と同じように、太陽は無慈悲に、黄金の恵みを等しく投げかけていた。
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