霊安室にて

人夢木瞬

霊安室にて

 その男が霊安室に立ち入るのは初めてのことだった。とある病院の地下一階にあるその部屋はとても暗く冷たい。できることなら生きているうちは入りたくないと思えてしまう。そして、その男の願いは成就した。

 男の目の前に横たわる遺体、それは男の肉体そのものであった。直感が、本能がそう語りかけている。身体の大半は白いシーツで覆われ、それとは別に一枚の小さな布が顔に乗せられていた。とてもではないが、この状態の遺体を見て、個人を判別できるとは男自身、思ってもいない。けれども自分のことは自分が一番知っているらしかった。

「この度はご愁傷様です」

 不意に女の声が部屋に響いた。

 男が顔を上げると、そこにある闇から溶け出すようにして一人の女が現れた。喪服姿に、頭には黒いヴェールがかかっている。黒衣を身に纏っているはずのその女であったが、闇の中では淡く輝いているようにも映った。

「アンタは一体?」

 男が尋ねると、女はまるで台本を読むかのように決まりきった文言を口にした。

「死神です。ですが誤解なきようお願いします。私はあくまで三途の川の渡し守のような存在。貴方の命を奪ったわけではありません」

「やっぱり俺、死んでるのか」

「ええ。ですが、やはりもなにも、貴方が認識できる事実といえばそれだけでしょうに」

 女にそう告げられ、男ははたと気がついた。

 どうして自分は死んだのだろうか、ということではない。そもそも自分はどこの誰で、どんな人間なのか、という当たり前のことがまるで思い出せないのだ。ただ、自分は人間のオスで、死んでいる。その事実だけが目の前に突きつけられていた。

「死、といいますのは実に強烈な刺激です。ですのでほとんどの方が記憶を失うのです。貴方だけに起こった出来事ではございませんので、どうかご心配なく」

 女は男の心を読んだかのようにつらつらと台詞を吐き出していく。きっと決まり文句なのだろうと男は感じた。

「随分と落ち着いていらっしゃるようですね」

「今更慌ててどうこうなるわけじゃないんだろう?」

「その通りでございます。貴方の肉体は命を終えました。それは不可逆の出来事であり、覆しようのない事実です」

 他の方々はよく、私に八つ当たりをするのですが。そう女は小さくつぶやいた。

 その言葉の最中にも男の手は目の前の遺体へと伸びていた。正確には遺体の顔にかけられた布へと。しかし無情にもその手はするりと布と遺体をすり抜けていった。

「自分がどのような人間だったのか気になりますか?」

「多少は」

 男がそう答えると、女は彼と同じ動作を取った。ただし、今度こそ布は取り払われた。

「これが貴方のお顔です」

 遺体を見て、男はようやく幾つかの自分に関する情報を手に入れた。

 歳はまだ若い。二十歳前後といったところだろうか。自分で言うのも何だが、顔立ちはそれなりに整っているように思える。イケメンではないにしても、不細工というわけでもない。

 だが、これを見ても男には記憶というものがこれっぽっちも戻ってこなかった。

「実にいい笑顔をなされていますね」

 女の言うとおり、遺体の表情は苦悶に喘ぐわけでも、絶望に叫ぶわけでもない。ただただ安らかな笑顔を浮かべていた。

「俺は、死ねて嬉しかったのか?」

 自問自答、ただ独り言のように吐き出されたその言葉に、女は答えた。

「少なくとも、貴方は自ら死を選びました」

「自殺?」

「いえ。大切な人を守るため、代わりに自らの命を犠牲にしたとでも言いましょうか」

「そりゃ笑顔で死ぬなぁ」

 男は自嘲するように、そして自らに同情するように笑う。

 事情は知らないが、自分が死んでは台無しだろうに。少なくとも、記憶を失った今の男にはそう思えて仕方がなかった。

「では、これからどうなされますか?」

「どう、っていうのは?」

「貴方が現世に留まり続けたいというのであれば、ここで私の仕事は終わりです。ですがそれを望まないというのでしたら、私は貴方を導く義務があります」

 その言葉に男は考え込むフリをした。

 本当は初めから決まっていたのだ。現世に留まる理由は一つもない。何一つ思い出もなければ、何一つ未練もない。強いて言うのであれば、記憶のことが気がかりだが、それも時間が解決してくれるだろう。

 頭の中ではそう思っているはずなのに、何故か男は躊躇っていた。

 万一、記憶を取り戻したあとで現世に未練を抱いてしまったら、という話ではない。目の前の女が信用できないということでもない。

 理性では分かっている。だが本能がそれを良しとはしなかった。

「お悩みのようですね。それでしたらこうしましょう」

 女の言葉に反応するかのように、霊安室の入口のドアが消え、次いで二つのドアが現れた。

「二つの内、どちらかをお選びください」

 右か、左か。

 二つのドアに違いは見当たらない。ただ、どちらかを選び、ドアノブをひねる。ただ、それだけだ。

「多分、こうするのが正解なんだろうな」

 そう言って男は二つのドアの真ん中、その壁をすり抜けていった。


◇◇◇


 霊安室には一人の女と、一つの男の遺体があった。

 男は相変わらず笑っていて、女は左目から一筋の涙を流していた。

「貴方は、いつだってそうなのですね」

 女は横たわる遺体にキスをすると、男と同じように霊安室を後にした。

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霊安室にて 人夢木瞬 @hakanagi

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