2.
大陸の西、国境の半分が海に面した小国・アルカンドラ王国には、とある噂がありました。
『魔女の涙は、百薬の長 どんな病も、たちどころに治る』
ある人にとっては、絵空事。
ある人にとっては、最後の頼みの綱。
そして、ある人にとっては、とても興味を惹かれることでありました。
◆ ◆ ◆
森の入り口に、真っ黒いローブで頭から足の先まで覆った人影がありました。
唯一ローブから覗いているのは、これまた真っ黒な細身のブーツだけ。
これでは、男性なのか女性なのかすら分かりません。
分かるのは、子どもじゃない。そのくらいです。
ローブの人は、木々の生い茂る森の中に足を踏み入れました。
少しすると、前方から女性が走ってきました。顔色は悪いのに、そのブルーの瞳には光が満ちていました。
女性は、大事そうに、胸に小瓶を抱えていました。
「ふむ」
女性が、自分の来た方へ走り去っていくのを見ていたローブの人は、呟きました。その声は、低い、けれども澄んだ男性の声でした。
ローブの青年は、森の奥へと足を進めました。
踏みしめられた道を進んでいくと、一軒の小さな家が見えました。木造の家からは、オレンジ色の明かりが漏れています。
青年は、家の扉を叩きました。
トントン
けれども、応答はありません。
青年は、家の裏に回ってみることにしました。
家の側面を歩いていると、なにやら可愛らしい声が聞こえてきました。
どうやら歌声のようです。
青年は、少し早足で家の裏へと向かいました。
そこには、本を片手に小鳥たちと戯れる少女の姿がありました。シルバーホワイトのお下げ髪が、右に左に揺れていました。
軽やかなステップで踊っていた少女は、ふいに青年の方を向きました。
「あら」
ようやく青年の存在に気がついた少女は、途端に踊るのを止めてしまいました。
青年は、もう少し隠れていればよかったと少し後悔をしました。
美しい少女の歌声は、とても耳ごごちのいいものだったからです。
「わたしにご用ですか」
少女は、本を小さな机に置き、青年に近づいてきました。
「ええ。あなたが魔女のソーニャさん、ですよね」
男の問いかけに少女・ソーニャは頷ずきました。
しかし、それと同時にソーニャは首を傾げていました。
いつものお客さまとは、少し違う気がしたからです。
顔を隠しているのは、いつものことです。
ソーニャに名を尋ねるのも、いつものことです
けれども、声が違いました。いつもは、震えて切羽詰まった声なのに、この目の前の人の声は、生き生きとしているのです。
例を見ないことに、ソーニャは身を固くしました。
ジェイドの瞳からの視線が厳しくなるのを感じたのでしょうか。
青年は慌ててローブを脱ぎました。
「怪しいものではありません」
ソーニャは息をのみました。
青年の顔がたいそう美しかったから、それもあります。けれどもそれ以上に、彼のアッシュブロンドの瞳とワインレッドの髪に驚いたのです。その組み合わせは、アルカンドラ王家を象徴するものでした。
世間に疎いソーニャでも、彼の正体が分かってしまいました。
「あ、貴方さまは……」
「申し遅れました。アルカンドラ王国 第二王子 フレン・ナシャータ・エルカ・アルカンドラです。どうぞフレンとお呼びください。ソーニャ」
胸に手を当て、恭しく頭を下げる彼は、まさしく王子さまでした。
「フレン……さま。今日はどのようなご用件で? 王家の方がご病気になられたのですか」
とても王子さまを呼び捨てにできなかったソーニャは、そっと敬称を付けて呼びました。
青年・フレンは、少し不満げでしたが、何も文句は言いませんでした。
代わりに、自分が訪ねてきたわけを話しました。
「王家の者はみな元気です。今日は、ソーニャ、貴女と話をしたくてやってきました」
「話、ですか?」
ソーニャは前例のないことに戸惑ってしまいました。
9歳の時に母を亡くしてからかれこれ8年間、ずっと一人で暮らしてきました。
魔女は国の管理下にあるため、毎週日用品・食材が配給されます。
この8年間で話した人といえば、配給を持ってくる人と『魔女の涙』を貰いにくる人だけ。事務的な会話しかありませんでした。
ソーニャの話し相手は、本の中の登場人物、そして、森の動物たちでした。
「ずっと魔女について興味があったんです。この太陽の月(大体8月ごろ)から、森を抜けたところのバーナード領を治めることになりまして。
つい先日王都からやってきたんですが、なにやら近くに魔女が住んでいるというじゃないですか。思わず来てしまいました」
フレンは嬉しそうにアッシュブロンドの瞳を細めています。
一方ソーニャは、ジェイドの瞳をまんまるく広げていました。
魔女に興味がある人など聞いたことがありませんでした。
みんなが興味をもつのは、『魔女の涙』の効果だけだからです。
ソーニャは、胸がとくんと脈打つのを感じました。
なんとも言えないむず痒さがありました。
放っておけば、頬の筋肉が緩みっぱなしになってしまいそうでした。
ソーニャはそれを避けるため、フレンを家の中へ案内します。
「立ち話では申し訳ないので、よろしければ家の中へ」
フレンは、顔を綻ばせながら黙ってソーニャに着いていきました。
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