公共的な錯覚としての因果

 現代思想2017年12月臨時増刊号の「分析哲学」を読んでいる。その中で青山拓央さんの「原因または錯覚としての行為者」という論考がとても面白かったので、少しメモ。


 出来事が出来事を引き起こす連鎖の中で、行為者が出来事を引き起こすという僕らのナイーブな直観はまさに行為者因果説を肯定的に受け入れるものかもしれない。行為者因果説とは行為する「人」を新たな因果系列の出発点とみなす考え方である。


 例えば、喫茶店にいる私が手を振って店員を呼ぶと言う場面において「私が手を振った」という行為の原因はなんだろうか。店員を呼ぼうという「私の思考」だろうか。それとも、その思考を引き起こした「脳の活動」だろうか。行為因果説によれば、行為の原因は「私」そのものである。「私」という行為者こそが手を振ると言う行為の始点なのだ。


 しかし、自然科学的な因果理解を突き詰めると、どのような原因においても、それに先立つ原因が存在し、原因と結果の関係をどこまでも過去に遡ることができる。(原理的にはビックバンまで遡れる)物理学的な法則性の連鎖は延々と続き、ある特定の出来事間のみに因果作用を切り出す必然性は本来皆無である。その意味で、物理学的世界には法則性はあっても因果作用はない。


 行為者因果説はこうした物理学的世界に原因を見出していく。つまり、出来事の擬人化、自然現象の行為化という観点を描き出す。人の認識は出来事と出来事の連鎖の中に行為を読み取ってしまう傾向があり、出来事に含まれる対象を抜き出してはそれに主体性を持たせ、後続の出来事を引き起こしたかのように語る。


 しかし、行為者は一見すると原因のように見えるが、出来事因果は公共的な錯覚として語られているに過ぎない。そして、錯覚としての行為者という概念の受け入れ困難さこそが、公共的な錯覚をより強固なものにしていく。



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