傘をさすことは、薬をのむことと似ている。
「傘をさすことは、薬をのむことと似ている」
至言だった。この短いセンテンスにすべてが集約されている。
朝からどんよりした灰色の空だが、まだ雨は降っていない。しかし、天気予報によれば今日の降水確率は50%だ。あなたは傘を持って家を出るであろうか、それとも傘を持たずに家を出るであろうか。いや、降水確率が何%であったら、あなたは確実に傘を持って家を出るであろうか。
10年後の心血管リスクを30%減らす薬があったとしよう。心血管疾患ハイリスクと言われているあなたはその薬を飲むだろうか。それとも飲まないだろうか。いや、心血管リスク減少が一体何%であったら、確実に薬を飲むだろうか。
提示された確率が実際の振る舞いに与える影響は人それぞれであり、一律に規定できないことが良く分かる。つまり客観的な統計指標を前にしても、人の感じ方、実際の振る舞いは個別性を帯びているということだ。しかし、この短いセンテンスには、それ以上の示唆が含まれている。どういうことか。
例えば、朝は雨が降っていないけれど、今日の降水確率が100%だったら、多くの人が傘を持って家を出るであろう。この“傘を持つ”という振る舞いは、一見すると自分の意志で能動的に判断したように思われる。しかし、本当にそうであろうか。天気予報など見なかったら、あなたはどうしただろうか。むしろ、天気予報によって“傘を持たされている”傾向があるとは言えまいか。つまり、この場合の意思決定は能動的でも受動的でもない。そしてこのことは薬をのむと言う行為に対しても全く同じ構造として捉えることができる。
今僕は、心血管リスクが減るから薬を飲んだほうがいいという専門家のコンセンサスによって、「薬を飲まされている傾向」について考えている。
銃で脅された人間が、自分の手でポケットからお金を取り出し、それを相手に渡すことは、自発的行為なのか、非自発的行為なのか。そう考えたときに、そこには能動 / 受動というパースペクティブでは概念化できない何かが立ち現れる。英語であれ日本語であれ、言葉には行為の帰属を尋問する力がある。その行為は一体、誰に帰属しているのか?と。 つまり意志の所在を要求しているのだ。しかし、「中動態の世界」が明らかにするのはこうした尋問的事態とそこから逃れる可能性についてである。
尋問的事態を回避するために、能動、受動を「行為の方向性」ではなく、「行為の質」として捉えらえること肝要だ。能動と受動は二者択一ではなく度合いを持つものである。僕らは完全な能動的振る舞いをすることはできないが、受動の要素を減らし、能動の要素を増やすことができる。これは臨床における意思決定においても同様だろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます