他者の理解不可能性を想う

 ハイデガーがヒトという存在者をと呼んだことは他者の理解不可能性をより際立てているように思う。ヒトにとって世界の有り様は個別化された「場」であり、人それぞれ存する世界は異なる。だからこそ現存在は他の存在者に比べて極めて個別性が強いのだ。僕に現れている世界象は、君に現れている世界とは厳密には重ならないし、君は僕の世界を知るよしもない………。


 他者理解不可能性は、なにもシニフィエの相違だけではない。存在の捉え方、その存在論的差違に対する関心の相違が個別性、理解不可能性を規定している。これは、誰かを理解しようとする行為が偏見やある種の差別に繋がっている可能性を指摘する意味で重要である。


 理解するというのは実は能動でも受動でもない仕方で、他者を偏見のまなざしでとらえ、そして自分と他者との境界線の存在を前提としている。誰かを助けるだの、誰かを守るだの、誰かを傷つけることも、誰かを失う事も……。理解するという振る舞いは単純な話じゃない。


 誰かを「心配している……」というのは、相手のことよりも自分の不安を解消するというような、ある種の満足感獲得に関心があることの裏返しである。言い過ぎかもしれないが、誰かを思いやる行為は、時に誰かを追い込んでいることもある。生きることの真の意味なんてそもそも存在しないのに、それをあたかも存在するように語って、勇気づけた気になっている……。希望を無理やり押し付けて、「少しは楽になった?」みたいに、上からの視線。


 たぶん人って生きている限り、贈与なんだと思う。希望と絶望を誰かに与え続ける。でも僕はできれば他者と理解しあえるような、希望を与えることができるような、そういう人間関係がきっと良いのだと思っている。あったかもしれない希望に気づきたい。気づかせたい。そういう気持ちが常にある。問題を抱えながら素敵な明日を願うという矛盾が生きることの基本構造なので。


人はなぜ社会をつくるのかという問いにルソーは人は憐れんでしまう生き物だからと答えたそうだ。でも、だからこそ他者の理解不可能性を前提にしなくてはいけない、僕はそう思うのだ。


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