中動態、誤配、観光客と勉強の哲学

 ※この記事は拙ブログ「思想的、疫学的、医療について」に掲載した”学びを駆動するために~勉強の哲学-中動態の世界-観光客と誤配~”より転載したものです。

http://syuichiao.hatenadiary.com/entry/2017/06/08/060000


ツイッター等のSNSで話題になっていた人文・思想系の書籍、3冊を読んでみた。その三冊とは、東浩紀さんの「ゲンロン0」、國分功一郎さんの「中動態の世界」、そして千葉雅也さんの「勉強の哲学」である。


 本のタイトルだけでは、この3冊はまるでばらばらのテーマを扱っているように思われるだろう。しかし、これらの本で取り扱われている主題はどこかでリンクしている。僕はそのように感じている。


 おそらくゲンロン0で語られている「観光客の哲学」の射程はかなり広い。その広大な景色を自分なりの言葉で落とし込むには、もう少し時間が必要な気がしている。そこで本稿では、「勉強の哲学」で語られているラディカルな勉強論、特に同書の前半部分の理論的パースペクティブを中心に、”中動態の世界”と”観光客の哲学”の接続を試みる。


[環境依存的な振る舞いからの逃走]


 千葉さんは「勉強の哲学」の中で以下のように述べている。


『勉強とは、かつてノッていた自分をわざと破壊する、自己破壊である』(千葉雅也 勉強の哲学 P20)


“ノッテいた自分”とは、つまり場の空気を読んで環境依存的に振舞っていた自分のことである。常識や場の空気にコミットしていることは、ノリの良さに繋がっている。他方、空気が読めない、常識に抗っている人は、どちらかといえば「出る杭は打たれる」というような仕方で排除される傾向にある。これは経験的にも明らかであろう。


 環境依的とはやや難しい言葉かもしれない。そもそも「環境」とは何か。千葉さんのいう環境とはつまるところ他者であり、他者とは自分自身ではない全ての物である。僕たちは「場の空気を読め」というような、環境における暗黙のコードに従って日常を生きている。この場合のコードとは「勉強の哲学」では以下のように定義づけられている。


『環境における「こうするもんだ」とは、行為の「目的的・共同的な方向づけ」である。それを、環境の「コード:」と呼ぶことにする」(前掲p26)』


 周囲に合わせて生きる、空気を読んで生きるというのは、環境におけるコードによって規定された目的を目指して振舞うことと同義である。「勉強の哲学」では、僕らが学びを駆動し、それを深めるために、こうした環境依存的振舞いからの逃走に、一つの可能性を見出している。


 しかし、良く考えてみれば、僕たちは場の空気を読むことにポジティブな価値を見出しているし、常識に抗って生きることに対して、なにがしかの困難さの視線を向け、それはむしろ変わり者の人間がなすことである、というような価値観を抱いている。


 学校へ行くのは当たり前であり、会社に行くのは当たり前である。風邪をひいてもそう簡単に仕事は休めないし、将来経済的に困らない安泰な生活を送るためには大学に行かなければいけない、という常識的価値に抗うことは、やはり困難さを伴い、そうした振る舞いは奇異に映ることが多いだろう。


 こうした考察から明らかになるのは、僕らは多くの場合で、あらゆる常識的環境に依存して生きているということである。多くの人はコードに従順であれば無難であり、空気の読めないやつ、と言われずに済むと考えている。いや、考えさせられていると言った方が良いかもしれない。こうした事態を千葉さんは、環境のノリに無意識的なレベルで乗っ取られていると指摘している。


『刷り込まれた「こうするもんだ」を、他にやりようがないみたいに思い込んでいたりする。…(中略)…環境のノリに、無意識的なレベルで乗っ取られている。…(中略)…たいていは、環境のノリと自分の癒着は、なんとなくそれを生きてしまっている状態であって、分析的には意識されていない』(前掲p29)


 僕たちは意志が前景化していない状態で環境依存的に振舞っていると言える。この意志が前景化していない世界を自覚的に捉えるにはどうすればよいのか。つまり、環境のノリと癒着してしまった自分をメタ的に俯瞰するには、どういったパースペクティブが必要なのか。こうした問いかけに光を当てるのが、國分さんの「中動態の世界」である。


[中動態の世界がもたらす可能性]


 現代英語において、文は必ず能動態(active voice)か受動態(passive voice)のいずれかに属すると言われている。しかし必ずしもこの2つの態で人の振る舞いのすべてが記述できるわけではない。


『能動と受動の区別は、すべての行為を「する」か「される」かに分配することを求める。しかし……この区別は非常に不便で不正確なものだ』(國分功一郎 中動態の世界 p21)


 ともすると、「受動(passive)」という語によって「~される」という日本語と結びつけ、「行為を受ける」という概念と結びつけてしまいがちである。つまり能動/受動のパースペクティブには意志という概念が浮かび上がる。極言すれば、意志とは言葉の運用の上に構築される概念だといる。


 しかし、かつて能動/受動というパースペクティブは存在しなかったと言う。そこには行為を「する」/「させる」という二分法で捉えるのではない言語観があった。それが能動/中動というパースペクティブである。そして、驚くべきは能動/受動では明確に立ち上がる意志の概念が能動/中動では前景化してこないという点であろう。


『能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない』(前掲p97)


 さて、環境依存的に振舞っている状態。別言すれば、空気を読むと言う行為は受動的であろうか、それとも能動的であろうか。あらためて考えると、そのどちらともつかない振る舞いであることに気が付く。場の空気に行為させられているのか、それとも自分の明確な意志で場の空気を読んでいるのか。こうした能動/受動というパースペクティブを取り払うと、そこには環境依存的振舞いが、能動でも受動でもない何かであり、そこには意志が存在せず、無意識的な何かの存在が浮き彫りとなる。


 これが、千葉さんが指摘するような、場の空気を読むという行為の無意識性であり、それは能動/受動という概念を取り去って、初めて前景化してくる世界である。このように意志が前景化しない事態を言語化するパースペクティブこそが能動/中動という中動態の世界といえる。


[アイロニーからユーモアへ]


 深く学ぶために千葉さんはコードに従順な保守的な態度から、それを逸脱するような批判的な態度を取るべきと主張する


『コードに従順なデフォルトの状態は「保守的」であると言える。それに対し、勉強によって身に着けてもらいたいのは「批判的になる」ということ。』(千葉雅也 勉強の哲学 P60)


 そしてこの批判的な態度を「勉強の哲学」ではアイロニ-、あるいはツッコミという言葉で表現されている。前提となっている常識的価値を盲信せず、そこにまず抗ってみる。懐疑の目を向ける。学びを深めるににはその作業が肝要だ。場の空気にコミットしない、ノリが悪くなるということが、学びを駆動させるための初期条件になる。


『アイロニーによってコードの根拠づけを無理にもとめられると、コードそのものの不確定性、要は「空気でしかなかった」という事実が、露になる』(前掲p81)


 アイロニーによって明らかになる無根拠性こそが学びを駆動する源泉となる。しかし、アイロニカルな視点を突き詰めていくと、そこには際限のない世界が待ち受けている。学びはある意味で有限化していく必要がある。アイロニカルを突き詰めるのではなく、その先にはユーモアという視点が肝要になる。


 ユーモアとは千葉さんの言葉を借りれば「ボケ」である。つまり「勉強の哲学」ではアイロニ-とユーモアは、ツッコミとボケという対立概念を形成している。アイロニカルな視点から始め、アイロニ-に徹することなくユーモアへと移行する。一つのテーマに批判的にコミットしすぎず、そこからむしろボケてみる。これは東さんがゲンロン0‐観光客の哲学で述べられている「誤配」に近い考え方であるように思える。


[ユーモアと誤配]


『観光客が観光対象について正しく理解することなど、まず期待できない。しかしそれでも、その「誤配」こそが新たな理解やコミュニケーションにつながったりする。それが観光の魅力なのである』(東浩紀ゲンロン0 p159)


 観光客は観光対象を学術的に調査するために観光するわけではない。それはあくまで娯楽の一つであり、対象を学術的に正しく理解することなどは最初から目的とされていない。しかしそれにも関わらず、観光対象についての理解や、それに付随するコミュニケーションから、新たな世界が開けることがある。例えばフランスのモンサンミッシェルを見て、フランスとイギリスの歴史に興味を持つような仕方で。


 東さんは「配達の失敗や予期しないコミュニケーションの可能性を多く含む状態」(前掲p158)を誤配と呼ぶ。


 アイロニカルに振舞うとは、言ってみれば、場の空気と弱いつながりを保つことに繋がってる。完全には接続を切らないけれど、かといって場の空気に完全にコミットしない。そんな緩いつながりにこそ、誤配が満ちており、そこには「環境」に縛られない仕方で世界を見つめることができる可能性が開けている。こうした観光客的な立ち位置で学びを駆動することこそがユーモアのセンスを磨くことに他ならない。


[学びの有限化とマイルドな権威主義]


 学びを深めていくには、自由になることが必要である。しかし人は他者依存的に構築されていく。個性とはむしろ他者への依存を契機に発生するものだ。そしてその発生に大きく影響を及ぼすのが言語である。


『言葉の意味は環境コードの中にある』(千葉雅也 勉強の哲学 P33)


 環境依存的振る舞いというのは、身近に存在した言葉の語法により可視化された世界像から逸脱しないよう生きることだ。しかし、言語には潜在的に自由な語法という可能性が開けている。例えば詩や小説を書くように。環境から逃走するためには言語がキーになると言える。


『言語の他者性は環境による洗脳と、環境からの脱洗脳の両方の原理になっている』(前掲P36)


「学び」とは“言葉”に対するアイロニカルな視点と、ユーモアを意識的に取り入れる態度の継続的な営みに他ならないと僕は思う。そこで重要なのが、観光客的立ち位置と誤配可能性である。何かを知るということは、必然的と言うよりはむしろ、偶然的な仕方で僕たちの目の前に立ち現れる。


 しかし、こうした営みには結局のところ際限がない。行きつく果てがナンセンスにならないよう、どこかで有限化する必要がある。


『僕が言いたいことはシンプルです- 「最後の勉強」をやろうとしてはいけない。「絶対的な根拠」を求めるな、ということです。それは、究極の自分探しとしての勉強はするな、と言い換えてもいい。自分を真の姿にしてくれるベストな勉強など、ない。(前掲p136)』


 千葉さんは学びを有限化するために、マイルドな権威主義という立場をとっている。勉強の哲学では権威について触れられていないが、僕はそう解釈している。


『「まとも」な本を読むことが、勉強の基本である(前掲p171)』


 ここで言う“まとも”という言葉にマイルドな権威主義的意味合いが込められているように思われる。つまり、ある程度、信頼できる著者の本を読むと言うこと、一般書ではなく、専門書から学びを深めていけ、ということである。


 深く学ぶとは、信頼できる情報を批判的に吟味し、それを自分の言葉で書き換えていく作業に他ならない。学びの方向性として、マイルドな権威主義は有効な場合もあり得る。アイロニーとユーモアに徹する出なく、そこに有限性を持ち込むこと。これが効率的に学びを深める大きなポイントであろう。

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