醜いアヒルの子と中動態の世界

 アヒルの子とアヒルの子は言うまでもなく同じに見える。ではアヒルの子と醜いアヒルの子はどうだろうか。同じには見えない、そう思うことに疑念の余地は少ない。


 障害を持つ人と障害を持たない人、ここには明確な差異があるように思える。そしてその差異は、極言すればアヒルの子と醜いアヒルの子の差異と同型である。これはつまり「異常」と「正常」の区分とも言える。


 では、この差異というものを僕たちはなぜ認識できるのだろうか。想像してみてほしい。僕らとは言語や思考、文化など全く考え方が異なる知的生命体が、障害を持つ人と、障害を持たない人とに、どのような差異を見出すだろうか。障害を持つ人と、障害を持たない人、おそらくこの二者において差異よりも共通点の方が多いだろう。身体を構成している様々な化学物質、臓器の形や配置、細胞内小器官の種類と役割、循環器の機能と循環動態、話す言語……。つまり両者の類似点は、無数に存在し、障害を持たない人同士の類似点とほぼ同等である。


 あらゆる2群間の統計学的有意差は、ある価値観に基づいて差があるというだけで、両群の共通点の「数」の点では明確な差がない。アヒルの子と、醜いアヒルの子の区別が容易なのは、どこを比較すれば両者が別物なのかを先に決めて掛かっているからなのだ。


 二者の比較とは、両者の間に、なんらかの関心に基づく視点を持ち込み、そのパースペクティブで相違点を見出していくプロセスである。しかし、比較観点というものは無限存在し、本来そのどれを重視するかは完全に比較する人間の関心に依存している。もし、着目する観点に対する関心を一切排除するのならば、両者はそれが何であれ、ほぼ同じものとして捉えることができるだろう。


 あらゆる二物の共通点は等しいという、このすさまじい定理を「醜いアヒルの子定理」という。1969年に情報理論学者・理論物理学者の渡辺慧が提唱した。


「関心がない二物は同じである」というテーゼは明確に差別的思想に抗うものである。薬物治療を行った場合と行わなかった場合で、将来的な心臓病リスクに差が出るかもしれない。しかし、心臓病発症という関心を排除すると、そこで浮き彫りになるのは治療を受けようが受けまいが、それほど変わらない人生の存在だ。例えば死亡リスクは変わらないというように。あるいは、心臓病を経験したことで、人生においてより豊かな何かを手に入れることができたというように。


 僕たちは差異を見つけようとすることに対して、ある種の安心感を抱いている。関心対象に区分を付けようとすること、世界のパースペクティブをより明確に浮き彫りにしていくプロセスに自らの不安を隠しながら生きている。


 こうした考え方は医療現場に満ちている。薬を飲めば(あるいは医療を受ければ)健康的に生きられるとか、長生きできるとか、そういう関心に基づいて、薬を飲まなかった世界に比べ、良い生き方をしていると考える。したがって、こうした関心のもとでは、自分の意志で薬を飲む(あるいは医療を受ける)と多くの人は思っている。しかし、本当にそこには自分の意志なるものが存在するのだろうか。薬を飲むという行為はと言えるだろうか。


 確かに患者が薬を飲んだり、医療を受けようとする行為は方向性としては能動的だと言える。そして、そこには明確な意志が存在するように思えるし、医療を受けさせられているとか、薬を飲まされている、といった受動的な要素は少ないかもしれない。しかし、受動的な要素が完全に存在しないと言い切れるだろうか。「能動」「受動」という関心を取り去って考えてみる必要がある。


 現代英語において、文は必ず能動態(active voice)か受動態(passive voice)のいずれかに属すると言われている。しかし、必ずしもこの2つの態で人の振る舞いのすべてが記述できるわけではないだろう。とはいえ、現実にはこの2つの態によって僕たちは思考しているし、そうせざるを得ない言語世界にいる。


 ともすると、「受動(passive)」という語によって「~される」という日本語と結びつけ、「行為を受ける」という概念と結びつけてしまいがちである。つまり能動/受動のパースペクティブには自由意志という概念が浮かび上がる。このような能動/受動の『態』に注目すると、そこに垣間見えるのは意志の存在。つまり意志とは言葉の運用の上に構築される概念とはいえないだろうか。


『われわれは希望しようと思って希望するのではない。不確かな未来に、しかし期待せざるをえないとき、主体(主語)をその座として希望するという過程が発生する』

(國分功一郎. 中動態の世界 p89.2017.医学書院.東京)


 能動/受動を行為の方向性の差異ではなく、質の差異として捉えてみると能動性の中に受動性が含まれていることが理解できるかもしれない。困っている人にお金を手渡す行為と、脅されてお金を手渡す行為、どちらも行為の方向性では能動かもしれない。しかし、外部の原因に刺激されることでもたらされる行為の質は全く違う。


 これを医療における人の振る舞いに置き換えて考えてみよう。病院へ行くのは僕の意志ではなく、それはどこか外部にありはしないだろうか。薬を飲むより他ない。病院へ行くより他ない……というように。薬を飲むのも、医療をうけるのも、僕の意志、つまりそこにある能動性など希薄なものとはいえないだろうか。


 外部からの刺激は僕たちに内在している感情を動かすが、その感情の動かされ方は人それぞれだ。つまり外部からの刺激を受動性ととらえれば、僕たちの行為の受動性には幅がある。ときにそれは能動性をまとった行為として。


 この能動性から受動性の連続したスペクトルを無理やり分節したのが能動態/受動態という言葉が生み出すパースペクティブに他ならない。そして僕たちには、このパースペクティブに対する関心があまりにも自明なため、受動性が含まれている能動的行為を純粋無垢な能動的行為だと信じている。そこで失われるのは、行為の選択の自由であり、多様な生き方の否定である。


 臨床で渦巻く「仕方なしに……」「……するより他ない」という想い。それは強制でも自発でもないが言葉として概念化されない何か。これこそが、受動態の世界でも能動態の世界でもない中動態の世界である。中動態の世界に気づくことは自由を志向する。世界の在り様が中動態のもとに動いていると認識された時、そこに自由への道が開かれる。

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