病名に宿る価値について

僕は医療現場で仕事をしている。薬に関わることは僕の専門ではあるけれど、健康問題に関する医療情報の取り扱いも僕の専門である。


先日、Neurologyという脳神経関連では世界的に有名な医学雑誌に、日本人における認知症の有病割合や発症率に関する研究報告が掲載されていた。(Ohara T.et.al. Neurology. 2017.PMID: 28424272)


この研究では、1985年、1992年、1998年、2005年、2012年それぞれにおいて、横断的な調査が行われており、解析の結果、アルツハイマー型認知症の有病割合はそれぞれ1.5%、1.4%、2.4%、3.9%、7.2%と、1998年ころからやや増加、2005年から2012年にかけて、急激に増加していることが示されていた。


認知症治療薬アリセプト®がわが国で発売されたのが1999年。高齢化が進んだだけではない何かがこの年代以降に起こっているように思う。つまり新たに開発された薬の存在が、臨床現場で患者への病名付与を促し、結果として有病割合が増えていくというように……。


これまで認知症と捉えられなかった現象を認知症として捉えていく。新規に開発された治療薬の存在はこうしたプロセスを加速させる側面を持つことは誰も否定できまい。この研究では、1988年から2002年にかけてアルツハイマー型認知症の発症率が2.07倍増加していることも示されていて、この発症率増加は高齢化だけではやはり十分な説明が付かない。やや難しい話になってしまっただろうか。


整理するとこういう事になる。アルツハイマー型認知症患者は近年急増しているが、その理由は高齢化だけでは説明が付かない。病気の早期発見という考え方や、認知症治療薬を使いたいというような欲望が、結果として認知症という病名を付与された人たちの人数を増やしているのかもしれない。


一方で、アルツハイマー型認知症患者の5年生存率は、1988年の50.7%から、2002年の75.1%と大きく増加している。これは認知症患者に対するケアの充実という制度的な側面もあるかもしれない。認知機能の低下という現象に病名をつけ、人を医療の枠組みに取り込んでいけば、認知症と病名が付かない場合に比べて、手厚いケアを受けることができることは容易に想像がつく。しかし、それは本当に良いことなのだろうか。


5年後の生存率が上昇しているといっても、健康寿命が延びているわけではなく、不健康寿命が延びでいることに注意したい。認知症治療薬はあくまで認知機能低下の進展ををわずかに抑制する効果しかない。したがって薬を飲んでも、認知機能障害は確実に進行し続けるのだ。その状態の中で余命が延びるとはどういう事なのか……。


タイでは「認知症」というコトバがないという。それは「歳をとれば仕方が無いこと」として受け入れられている。タイでは「認知症」という概念は「老い」というコトバに包摂されている。そして「老い」は年を取れば仕方のないこと。そこには介護が必要だとか、病気だから治療しなくてはとか、そういう価値はこびりついていない。「老い」を病気としてではなく人のごく自然な変化として受け入れていく……。かつて日本人もそうであったのだろうか。

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