過去を想う頃

なんだか切ないのは今朝見た夢のせいだ。もうだいぶ昔の。そう、過去の記憶。


夢の世界では、あのころのままで時間は止まっている。いつもの帰り道、いつも公園、見慣れた風景。夕日をあびている野良猫がいつものベンチに座っている。こんな時間がいつまでも続くと、信じて疑う余地もなかった少年の時代。踏み切りをわたって住宅街を抜けて、そして「また明日」と言う。


過去の記憶の再生はあまりにも恣意的だけれど、切り取られた文脈をただなぞるだけで、懐かしさがそこここに積もる。


記憶の世界は断片的。そう、取り出されたフラグメントは全体のうちの、ほんのわずかな過去の風景に過ぎない。僕は、そのフラグメントを拾い集めながら、過去の時間と空間を断片的に垣間見ている。「時は流れない、それは積み重なる」そういえば、そんなコピーがあった。


過去とは僕が生きてきた時間全てから、僕の関心に応じて切り取られたフラグメントが蓄積している世界。それは暖かくもあり、冷たくもある世界。あの場所で、あの瞬間の出来事に、ある運命に交叉することもあれば、永久に交わることもない。そして振り返る過去のフラグメントを取り出すとき僕は主に後者を感じざるを得ない。そこには、いつか僕の前を通り過ぎる君を感じていた自分の姿がある。


過去という時間の存在の仕方。あるいは存在論的な「過去」とでも言おうか。人は自分にとって良き過去をいつまでも懐かしむ。それはすでに限りなく透明な時間となっているのにいつまでも消えないようにと願う。


そういえば夢の記憶はなぜ消えていってしまうのだろうか。もう一度会いたい夢はあれど、二度と見ることがないというのは、ちょっと不思議だ。


夢の存在の仕方。あるいは存在論的な「夢」……。人は自分にとって良き夢をいつまでも自分の意志で見ることができない。だからその偶然の出会いをただ大事に、いつまでも消えないように願う。夢はどこか過去の風景と似ている。時間の流れが過去の記憶を透明にしていくように、朝の目ざめが夢の記憶を消し去っていく。


アインシュタインは相対性理論をまとめ上げたときに自分の生きるスピードについて何か考えたのだろうか。誰かの生きるスピートに追いつこう、という苦しみは、そのスピートを生きたものにしかわからない。


未来にしかない自分を想像して生き続けるのも大変だ。ただ暗闇の、気の遠くなるくらい向こうにあるだろう何か。未来のみに生きる意味を見出すことは果てしなく苦しい。


過去の過ちにどう向き合うのか、後悔が何一つない人生というのはあり得ない。してきたことにすべて満足している人は、ほんの一握りだろう。いつ思い出すべきか、いつ忘れるべきか、そんな判断は非常に困難だ。奥深くに刻み込まれた記憶に嘘をつき続けるのもまた大切なことだ。


生きがいなんてものは事後的に振り返って実感できるものだから。過去にとらわれ続け、明日のこともわからないってのは案外重要な生き方だったりする。

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