感情の情景と風景と……
星崎ゆうき
しばらく泣いていない君へ
僕は、調和という言葉があまり好きではない。個別性が重要だとか、多様性が大切だ、なんて言われている社会で、結局重視されるのは調和だったり規律のように思う。それは“空気を読め”という仕方だったり、“みんなそうだからお前もやれ”という仕方だったり……。
あるいは“こういう生き方をすれば間違えない”というような言説も良く目にする。無難な生き方が好まれる社会。いや、無難に生きるより他ない社会という言い方の方が適切だろうか。ひとたび、調和を乱すような発言を、あるいは行動をすれば、社会から疎外されてしまう恐怖と隣り合わせに日々を生きている。それがリアルなところではないか。
調和と規律、両者は密接に関わっている。調和を乱すような発言すらさせない強力な抑止力としての機能が規律の核心である。つまり“如何に空気を乱さないか”ということが社会生活を営むうえでポジティブな価値を帯びるのだ。
争い事が起こらないように、平等な社会が実現するように、規律と調和は重んぜられるのかもしれない。人の行為の規準として定めたものが守られ、全体が具合よくつりあい、整っていること。そのような社会で人々は安心して生活をし、そして無難な日々を送ることができるという側面もあるのだろう。そして調和を目指す人間関係、そこには思いやりとか、優しさとか、そういったことが当たり前のように語られる。
しかし、僕にはこの文脈で言う優しさとか、思いやりなどという心の分節線が理解できない。優しさは、対価としての優しさを要求する。人に要求しなくては保たれない調和などに意味があるのだろうか。優しさが人にとって重要なファクターなのか、僕はいつも分からないのだ。
理解を求める期待はより人を苦しめる。期待は裏切られるものだから。控えめに言っても自分の期待を十分に満たすものは他者から得られるものではない。想いは伝わるかどうかじゃなくて、そこに在るかどうかではないのか?
互いが抱く想いの存在に触れ合うことができるのなら、ほんの少しだけ「わかりあえる」ということができそうな気がする。伝えなければ意味がないなら、伝えようもない想いは絶対に触れ合うことなどできないではないか。僕は冷たい人間だろうか。
でも、僕は思う。「あなたのために言っている」というのは、結局は誰のためにもなっていないし、あるいは「自分なりに精一杯やっている」なんて想いはしばしば伝わらない。
日々生きていくのは苦しい。程度の差はあれ皆そうだ。苦しみは絶対的なものであり、他者との相対的関係で示されるようなものではない。その苦しみは他者には理解しがたいもの、多くの場合でそうだろう。だから人は他者から理解されたと感じた時になぜか涙か出る。
君はしばらく泣いていないかい?
そうなら少し休むといい。世界は本来、世界があるだけで選択肢を生み、そして多様性に満ちているものだ。生物学的に見れば人類の遺伝子のほとんどがみな同じかもしれないけれど、ヒトはこんなにも個性にあふれている。
しかしながら、ヒトがなした最大の功績、否、功罪は世界の複雑性、多様性の減縮である。画一化、同質化、均一化こそが人間の文明力であり、それはまた同時に人間存在そのものを非自然化させる。調和や規律を押し付ける力は多様性を押しつぶす力、そんな力に僕も抗うよ。ヒトは思った以上に同じであり、でも思った以上に違っているのだから。
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