第10話「GO MAD LAND」

「……いや、そもそも殺人事件じゃないから……」


 小さくつぶやいて、僕は思索の海から顔を上げる。

 息苦しさを感じた僕は、とにかくこの部屋を出ようと皆に提案してヨランダの手を引いた。

 一歩踏み出した僕は、その場にとどまった彼女に引かれてがくんとバランスを崩す。


 不思議に思って後ろを振り返ると、僕が引いているのとは逆側の腕をドンソクにつかまれたヨランダが、恐ろしい者でも見るように目を見開いていた。

 左手でヨランダの手首をつかみ、右手に小さなペーパーナイフを握ったドンソクが「止まれ」と唸り声を上げる。


「殺人犯と行動を共にするなんて御免だ。ヨランダには今日の夜、身柄を国際警察へ引き渡すまでここに居てもらう」


 思わず動きを止めた僕たちに見えるように、ドンソクは鋭くとがったセラミック製のペーパーナイフをヨランダの眼前に突き付けた。

 空気が張り詰め、僕は彼女の手を握る指に力を入れる。

 にらみ合った僕とドンソクの視線の隅で、短く刈り込んだグレーの髪がふっと揺れた。


 パシッと乾いた音をたてて、ナイフを持ったドンソクの手首を掌底がカチ上げる。同時に反対の手でヨランダを掴んでいる手をひねり、わきに抱え込んでひざ裏を引っかけると、ジェラルドはドンソクに体重をかけ、行動を束縛しようとした。


 それは、さすがは元海兵隊員と称賛されるべき訓練された動きではあった。


 しかし、彼には誤算があった。

 ここは宇宙。重力の無い無重力空間だと言う事を忘れていたのだ。


 地球上であれば、膝を崩されたドンソクは自分の体重でその場に崩れ落ち、腕をひねって体重をかけたジェラルドに押しつぶされていたことだろう。

 だが、無重力空間では反動を受けてくるりとバランスを崩し、お互いが絡まるようにして宙に舞っただけに終わった。


「む、なんじゃ、これはいかん」


「ミスタージェラルド! 邪魔をしないでいただこう!」


 ドンソクたちが宙を舞い、ヨランダが自由になった隙をついて、僕は彼女の手を引いて廊下へと逃がす。

 天井付近に漂ったナイフをもう一度掴みなおしたドンソクがヨランダに向かって飛びかかろうとするのを僕は身を挺してかばう形になった。

 ナイフの先端が、まっすぐに僕の胸へと宙を進む。

 身を躱せば、背中にかばったヨランダが大けがをしてしまうのが分かっていた。

 何とかして、ドンソクの動きを止めるか、せめて方向を替えなければならない。


 海兵隊でならしたジェラルドや、若いころに兵役を経験しているドンソクとでは、身のこなしに大きな差があることは分かっていたが、それでも、今はやるしかなかった。


 まだドンソクにも理性が残っていたのだろう。衣服が破れ、丸い血液の球体が宙に舞ったのを見て、ナイフの切先がわずかに鈍る。僕は1cmほど突き刺さったナイフの反動で後ろに跳び、ついでにドンソクの腹をけり上げた。

 体勢を整えたジェラルドが、そこを狙ってナイフに飛びつく。

 再びお互いに絡まるようにして宙を舞ったジェラルドとドンソクは、ナイフの奪い合いをしながら天井に激突した。

 僕はヨランダに手を引かれ、廊下へと身を引く。

 その瞬間、背後で獣の咆哮にも似た絶叫が部屋に響いた。


 僕の流した血とは比べ物にならないほどのおびただしい赤い血液の球が、風に舞い散る桜の花びらのように部屋を舞う。

 その中心で、右目から真白い骨のようなペーパーナイフを生やした真っ黒な服の男が宙を漂っていた。


「……ゆるさん。……許さんぞ貴様ら……」


 ドンソクは、ペーパーナイフに手を掛け、絶叫と共にそれを引き抜く。さらに大量に宙を舞った血液の中から、ジェラルドが僕たちの方へ文字通り飛んできた。


「逃げるぞ!」


 ジェラルドの勢いに押されるようにして、僕たちは通路を走る。

 たどり着いたのは操縦室。ジェラルドがドアを閉め、ロックを掛けた。


「助かった……」


「宗也! 怪我は?!」


 思わずへたり込んだ僕に、ヨランダが心配げに寄り添ってくれる。

 幸い傷は浅く、出血もそんなに多くはなかった。


「無重力だともっと出血が激しいかと思ってたけど、そうでもないね」


 軽口をたたく僕に、ヨランダが微笑む。しかし、見る見るうちに凍りついたその表情は、僕の背後を見つめていた。

 慌てて振り向いた僕の目に飛び込んできたのは、お腹を抱えながら宙に浮くジェラルド。

 そして、その周囲を舞う、真っ赤な丸い粒だった。


「ジェラルド! 怪我を?!」


「……宇宙はどうも勝手が違ってのう……」


 僕の傷と違って、彼の傷は深く、出血量も多い。

 とにかく出血だけでも止めようと、上着を脱いでジェラルドのお腹に巻きつけている僕たちの目の前で、ジェラルドがロックしたはずのドアが、気圧調整の小さな音とともに、何事もなかったかのように開いた。


 僕たちを見下ろしてドンソクが笑う。

 その右手には自らの血とジェラルドの血で赤く染まったペーパーナイフが握られ、左手には……人間の手首が握られていた。


「貴様らはバカか?! 私にはマスターキーがあるのだよ! ロックなど何の意味もない!」


「アランの……手首?」


 勝ち誇るドンソク。呆然とするヨランダ。

 僕は、もう身動きもとれないほどの深い傷を負っているジェラルドと震えるヨランダの前に立ち上がり、大きく両手を広げた。


「ドンソク。キミはこれで本当の犯罪者だ。窃盗に殺人未遂、脅迫、遺体損壊、数え上げたらきりがない」


「パク・ドンソクだ! バカめ。少しは頭を使って生きたらどうだ?」


「キミも……もっと頭をつかった方がいい。妄執に陥って正確な判断が出来ないのは、頭の悪いもののする行動だよ」


「黙れチョッパリ! 私の判断は正確だ! 私は自らの安全のために危険を排除する権利を持っている!」


 ナイフを握りなおしたドンソクが、赤黒いそれを高く振り上げる。

 僕はやれやれと首を振り、大きくため息をついた。


「時間だよ、ドンソク」


 その瞬間、ドアからなだれ込むように入ってきた国際警察隊は、4方向からドンソクを取り囲み、無反動銃の銃口を彼の眼前、10cmのところに突き付けた。


 後から現れた国際救急隊員にジェラルドを預け、僕も治療を受ける。

 ナイフを手放したドンソクは、両手両足をプラスチックバンドで縛りつけられていた。


 女性警察官に連れられ、個室へと避難するヨランダと目が合う。

 彼女は小さく微笑み、そして僕の横を通り過ぎた。

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