雪の下
睦月の半ばに大雪が降った。
まる二日を降り通す雪で、宮中でも物置の仮小屋が一つ潰れた。
まして庶民に被害のないわけがない。
大寺などに指示を飛ばし、暖かな粥を配らせた。
源氏の君を追放したせいではないかなどとささやく声がする。もちろん貴子にそんなことを言うものはいないが。
いや、一人だけ。
貴子の子である帝だけは、折々にそんな話を持ち出して、貴子の翻意を促す。
貴子は帝に故院の遺勅も、東宮の秘密も話してはいない。
話せば帝が必要以上に東宮に肩入れするだろうとわかっているからだ。
源氏に魅入られ、源氏の愛したものを自分も愛したいと願う傾向は、故院よりも帝に強い。
尚侍結子が良い例だ。
貴子の末の妹にあたる結子に、帝が是非にと入内を進めるようになったのは、結子が源氏と関係を持ち、しかも源氏の正室に迎えられはしないことが決まってからだ。
先ごろ伊勢に出立した斎宮晶子内親王にも心を動かしたようだったが、こちらは母の御息所が、世間にも知られた源氏の通い所だった。
今でも帝は東宮を気遣い、東宮の暮らす梨壺を頻繁に訪れて、東宮の遊び相手になったりしている。源氏に生き写しの、年の離れた弟が可愛くてしょうがないのだ。
果物などの幼子の喜びそうな献上品があれば、包みも解かずに梨壺に下げ渡すことさえあった。
そういう意味では東宮の出生にまつわる秘密が暴露されない限り、東宮の地位は概ね安泰であるとも言える。帝は東宮の廃太子をまず受け入れはしないだろう。
御簾を上げさせて庭を眺める。
雪灯りで目が痛くなるような眩しさだ。草木のまわりだけ、なだらかに雪が消えているのも面白い。
朝早くに屋根から下ろした雪が、そこここでこんもりとした山になっていた。
空の青さと雪の白。
なんと美しいのだろう。
あの日もおそらくそうだったはずだ。
待ちに待った故院の元服の日。
はず、というのは貴子は直接にはその光景を見てはいないからだ。添臥の貴子が入内したのは、日が落ちた後だった。
吉日を卜して決めたその日の前日は大雪になった。雪が儀式の障りになるのではないかと気を揉まされたが、夜半に雪は止み、むしろ清らかに美しい雪景色の中での元服となった。
この儀式に先立って、一宮、
日が暮れても雪灯りで仄かに明るい道に、さらにあかあかと松明を焚き、貴子を乗せた車はしずしずと進む。
単と唐衣は鮮やかな紅。重ねた五つ衣は紅匂。表着が雪の下なのは今日の景色にふさわしい。裳の摺り模様は唐草、唐衣の紋様は向蝶で、春を待つ心を表している。
車は東宮の待つ梨壺に横付けされ、待ちかねた態の東宮が貴子の手をとって降ろした。
いや、本当に待ちかねていたのかもしれない。幼い頃から斎継親王にとって、貴子は頼りになる姉であり、この上ない遊び相手だったのだから。
二人はそのまま大殿ごもり、妹背の仲になった。
光の殿上の札を削る理由になった密通をやらかした結子は、変わらずに尚侍として仕えている。貴子は、さすがに謹慎させようかとも思ったのだが、帝が必要ないと言い切った。
「結子は尚侍。厳密に言えば女官であって妃ではありません。歴代の尚侍には夫を持った者も多くいます。なんの問題がありましょう。」
そう言って、相変わらず頻繁に清涼殿に召している。
源氏が愛しんだ者を愛しみたい。
そのあり方を貴子は歪んでいると思う。
人としての倫を明らかに外している。
国をしろしめす者が、これでいい筈がない。
「私にはあの方を、振り払うことなどできないのです。」
憔悴した様子で、結子は言った。
実家で現場を父に押さえられ、結果源氏が京を落ちたという身の置きどころもない身で、清涼殿への廊下を渡る事は辛いことであるに違いない。もしかしたら謹慎するほうが、ずっと楽だったのではないか。
大雪の見舞いを口実に久々に顔を合わせた妹は、まるで面変わりしていた。明るくて朗らかな、そして幾分軽々しくもあった笑顔は消え、大きな黒目がちの目に泣き出しそうな揺らぎがある。
「帝の寵を賜るようになり、もうあの方にはお会いするまいと思っておりました。でも、だめなのです。あの方の呼ばう声を聞けば心騒がずにはいられない。あの方を拒む事など出来ようはずもないのです。」
きっとそうなのだろうと思う。
結子もまた見鬼だ。
だからこそ、本来ならば入内する筈だった。宮中で源氏に出会ってさえいなければ、今頃は女御として時めいていたはずだ。
その事に関しては、今も胸が痛む。
貴子がもっと気を配っていれば、あんなことは起きなかったかもしれないと思わずにはいられないのだ。
結子は泣かなかった。
泣くまいと決めているのか、それとももう涙も枯れ果てているのだろうか。
夕刻になり、清涼殿からのお召を受けると、裕子は暗い目を清涼殿に向けた。
祖父永成が亡くなったのは貴子の入内の次の年だった。惟成は清仲卿の先例に従って、父の左大臣位を自分に賜るよう働きかけたが、人事は慣例の順送りとなり、清成卿が左大臣、惟成は右大臣に位を進めた。
この年の初めに清成卿には嫡男が誕生している。正室の雅子内親王の所生で、皇太后を狂喜させる慶事だった。
嫡男誕生、左大臣昇進と慶事続きの清成卿に引き換え、惟成邸の空気は重い。まだまだ支柱であった永成も亡く、その階位の相続も認められなかったのでは、明るくある理由もない。
雅子内親王の出産は惟成にとっても姪の慶事のはずではあったが、直後に永成の急死があり、清成の昇進を指をくわえて眺めていなければならないのでは、祝いが通りいっぺんになるのも無理はなかった。
その中で貴子は雅子の祝いに心を尽くした。背の君の妹君というだけでなく、幼い頃から親しく育った従妹でもある。十六での出産は若すぎるとまではいえなくても、大仕事であるのは間違いない。安産だったという知らせには胸を撫で下ろした。
そしてその年の暮。
清成邸と惟成邸がくっきりと明暗を分けている雰囲気の中、惟成の正室温子がひっそりと、初めての子である女児を産み落とした。
父の足音は相変わらず大きい。ドカドカと踏み鳴らすように歩く。式神の蝶で妹たちを遊ばせていた貴子は、御簾を跳ね上げる音に振返った。
紅の蝶が一匹、はずみで父の顔を掠めたが、父は気づいた様子もない。全く見えてはいないのだ。
「内大臣の姫の入内が決まったぞ。」
憤懣やるかたない様子で、父は女房の差し出した円座にドスンと座った。群がり飛んでいた蝶がぱっと散り、消えた。
さっきまで蝶を追っていた朱姫は、既に貴子と温子の間で小さくなっている。温子に抱かれていた赤子が、不満の声を漏らした。
赤子の名は雪姫。
惟成の三女であり、貴子には二人目の妹になる。惟成はいくつもの通いどころを持ち、そちらにも子は生まれているようだが、その子供たちの事を本邸には知らせず、貴子たちも本邸の子供だけを数える習いにしていた。
雪姫の名の由来はまことに簡単で、紅梅の盛りに生まれたのが
もっとも生まれてすぐにつけられる幼名は、半ば記号のようなものなので、それで構わないのであった。
「致し方ありません。まさか東宮の後宮が私一人というわけにもいきますまい。」
貴子の背の君、東宮斎継親王は二人目の妃を迎えようとしていた。内大臣の長時卿は、大納言、権大納言の最年長だからと言うことで昇進した人物で、入内する娘も貴子よりも年上のはずだ。東宮よりは帝に入内する方がふさわしいように思えるが、そうはならない事情がある。
長時卿の娘が一人、帝に入内しているのだ。この女御はすでに皇子を一人あげており、更に二人目を懐妊中だった。そんなところへ娘をもう一人入内させて、姉妹で寵を競わせても意味はない。妹の方は東宮へとなるのは当たり前だ。
「紅姫は東宮にとってはもっとも気安い方。新しい方が入ろうと、そこは変わらぬかと存じます。」
温子が夫を宥めるように話しかける。
貴子が諱を得て入内しても、温子は変わらず紅姫と呼ぶ。貴子もそう呼ばれるのは嫌いではなく、それを言うなら帝も貴子でなく紅姫と呼んだ。
「む、それはもちろん、さもあろうが。」
惟成も傍らの脇息にもたれて息をついた。
温子のまろやかな丸みを加えた姿を、貴子は眩しいような気持ちで見る。子を産んで温子には底光りするような艶が加わった。
貴子はまだ懐妊していない。
祖父がなくなって里がちになっているとは言っても、今のところまだ斎継親王の妃は貴子一人で、夜の床を独占しているというのに、まだ懐妊の兆しはなかった。せめてそれがあったなら、惟成もまだ平静な気持ちでこの入内の話を聞けたのだろう。
「とりあえずは貴子、宮中に戻れ。そうでなければ始まらん。」
惟成の思いも同じだったのだろう。確かに背の君から離れて懐妊することは不可能なわけで、貴子も黙って頷いた。
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