遠謀
新年は闇の中で明ける。
年の初めは睦月の
月のない夜だ。
闇の中で煌々と燃える松明は鮮やかに美しい。
大晦日の冷え込みは厳しく、追儺の終わる頃から雪になった。
雪は静かに降り積もり、京を白く染める。
厳しい寒さをついて燃やされる松明に照らし出されながら、年は明けた。
年が明けても貴子は源氏が戻ることを許さなかった。
まだ、早すぎる。
今戻せばあの青年は、また無思慮な振る舞いを重ねるだろう。万が一にも東宮の出自に疑問を持たれるような事があってはならない。
実際、危ないところなのだ。
男八宮を産み参らせた故院の承香殿女御安子は、今でも東宮の座を諦めてはいない。左大臣清成卿の、猶子の資格で入内した安子は、貴子に次いで出自がいい。だからこそ格式の高い承香殿を賜ったのだ。
輝子内親王の立后は、安子の野心を折るためにあったと言っても良い。輝子が出家し、東宮の後ろ盾である源氏が都を落ちた今、安子が策動しない訳がなかった。
安子はある意味わかりやすい女だ。帝の寵愛も、その結果の皇子の出産も、すべては権力の源泉であると心得ている。
彼女などに、決して秘密を知られてはならない。東宮、照継親王が帝の皇子ではなく、源氏の御子なのではないかなどという疑問をもたせてはならない。
貴子は八宮、
照継親王は飛び抜けて幼いけれど、行律親王もまだ大人ではない。早々と元服させて形を変えさせたのが、哀れに見えるような線の細い少年だった。同じ年頃に元服した源氏が、稚いながらも雛人形めいた美しさであったのと比べればかなり劣って見える。
いや、これは比べるのが酷というもの。
源氏は全てにおいて飛び抜けて優れているのだ。まるで何者かが悪意をもって、彼を造形したのではないかと思える程に。
源氏と引き比べるような事をしなければ、行律親王は十分に聡明な少年だった。
馬に乗るとか弓を射るようなことは得意ではないが、楽の道に優れ、四書五経をことごとく諳んじている。史書を紐解くことが好きで、文意について博士に質問なさることも多いという。
立坊するにこれという傷はない。
むしろまだ、幼すぎて海のものとも山のものともつかない照継親王よりも、よほどはっきりと期待できる。
亡き娘の婿である源氏が、照継親王の後ろ盾である手前、左大臣清成卿は今のところ表立って行律親王擁立の動きなど見せてはいないが、仮に立坊が叶えば、後ろ盾として動くだろう。十分に強力な対抗者だ。しかも面倒なことに行律親王の添臥は、貴子の姪である典子だ。
さて、どうしたものか。
当然ながら安子は貴子に接近しようとしている。
源氏を失脚させた母后。
傍から見れば貴子は源氏の敵そのものだ。
安子にしてみれば当然、照継親王にも敵対しているものと思っているのだろう。貴子自身あえてそう見えるように振る舞ってもいる。
自然な流れで安子の野望を折り、東宮の対抗者を除いてしまわなければ、源氏を京には戻せない。
急がないことだ。
無理に急げば不自然さが際立ち、貴子の立ち位置がバレてしまわないでもない。
貴子が実は、東宮照継親王即位のために動いていることさえ気づかられなければ、たぶなんとかなるだろう。
安子や行律親王の事にかかずらわなくても、貴子は忙しい。源氏が京を抜けた反動が、ゆるゆると現れ始めているからだ。
まず、宮中の陰が増えた。今まで宮中に入り込めなかった弱いものの中にも、入り込んでこられるようになったものが現れているのだ。それは宮中の様々なつりあいを動かす。
安定していたつりあいが一つ動くと、他のつりあいも連動して揺れ始めるからだ。全てを安定させるのには、それなりに時間がかかるだろう。配下の術者や式神を使って、全体が大きく揺れないよう支える必要があった。
そうでなくても故院の崩御に伴っての変化の分をなんとか吸収できたかというところだったのだ。負担は決して小さくない。
しかもそういう変化を有利なように利用しようとするものもいる。
高位の貴族が政変を目論むような大きな話ではなくても、市井の拝み屋などだって自分の仕事を増やしたり、祈祷の値打ちを上げるために介入してくる事もある。しかもそういう介入は、力は弱くても無茶な割り込み方をしてくるので、案外馬鹿にならない被害が出ることも多い。
油断すれば何処からどんな形で綻ぶかわからないのだ。
なので貴子は宮中の祭りや行事なども厳格な履行を求めた。連綿と続けられているものにはそれなりの理由と効果があるもので、きちんと実行すれば宮中の安定にしっかりと寄与してくれる。
もっとも、世間では太后が自身の権力を誇示すためにやっている事と考えているようだった。
とにかく細かなことに心を砕く事に忙しい貴子に引き換え、貴子の父は有頂天であるらしかった。
ついに我が孫が帝位を踏み、故院も崩御した事で全ての実権を掴みうる立場になったのだ。何かと目障りな源氏もいまでは京を落ち、その舅であるだれより目障りだった清成卿も大人しい。まさに我が世の春というところだろう。
無理もない。
貴子の父である右大臣維成にとって、清成卿はもっとも苦い敗北を味あわされた相手なのだから。
貴子は息をつき、少女の日に思いを馳せた。
車宿りの方からざわめきが渡ってくる。
どかどかという荒い足音は父のものだ。どうやら父は機嫌が悪いらしい。
足音はざわめきを引き連れて近づき、そのまま手荒く御簾を持ち上げて、貴子たちのいる居間に入ってきた。
「おかえりなさいませ、殿。いかがなさいましたの?朱姫が怯えておりますわ。」
その頃貴子は十八歳。
妹の朱姫は三歳。
そして義理の母温子は本邸に迎えられたばかりだった。
義理の母、といっても貴子と幾つも変わらない。宮家の出身の温子は、貴子の母よりもはるかに出自がいいが気取らない人柄で、貴子たちとの関係も良い。人見知りな朱姫ともすぐに打ち解けてしまった。
「どうしたもこうしたもあるものか。」
足音と同じく父の声は大きい。
朱姫は怯えて温子の袖を掴んでいる。温子はそっと朱姫を膝に抱き上げた。
「あいつが、あの癪な清成の奴が」
興奮のあまり息切れした父に、貴子はそっと水の入った椀を差し出した。水は女房からさらに差し出されたものだ。父の癇癪には一家をあげて慣れている。
「叔父様がどうなされました。」
叔父と呼んではいるが、清成卿は父惟成の弟ではない。祖父の弟清仲卿の子、つまり惟成にとっては従弟に当たる。
ただでさえ祖父とは歳の離れた清仲卿に、長く子供が生まれなかったので、清成卿は随分と若かった。惟成よりも十五は下。貴子ともせいぜいニ、三歳しか違わないはずだ。
この清成卿は年明けに内親王の降嫁をうけた。父の姪にあたる雅子内親王は十四歳。生涯を独身で過ごす事の多い皇女としては早い結婚だ。何より皇女の兄の今上一宮でさえ、まだ元服を終えていない。皇太后の強い後押しあっての降嫁だった。
その時も惟成はピリピリとしていたのだったが。
椀を受け取った惟成は、あおるようにしていっきに飲み干した。そうして一息をつき、息を整える。それから絞り出すようにうめいた。
「昇進だ。右大臣だぞ。くそっ」
それで貴子には大方の話がわかった。
惟成は現在内大臣だ。昨年の除目の折に任命されてまだ半年もたたない。皇族の長老格であった当時の左大臣の引退に伴う昇進であった。
現在太政大臣は空位。左大臣が祖父成隆、右大臣は清仲卿だったはずだ。普通であれば清仲卿が引退したということであれば、順に位が繰り上がる筈が、息男の清成卿に直接位階が譲られてしまったらしい。
本来私せざるべき位階が、いうなれば相続されてしまったわけで、例外中の例外と言うべき措置だった。
当然、皇太后の意向が働いていると見なければならない。
イライラと落ち着かない惟成のために、さり気なく酒肴が運ばれる。温子は膝に乗せていた朱姫を、そっと貴子に寄こした。貴子も朱姫を抱いて静かに立ち上がり、父の相手を温子と代わる。
朱姫をあやしながら自室へ戻ると、祖父がいた。
「聞いたか。」
「はい。」
何を、などと聞く必要はない。
父惟成が位階を越されたこと以外に、何を話す必要があるだろう。
「してやられたわ。」
円座にあぐらをかく祖父の向かいに座る。
腕の中で朱姫は、ウトウトと眠りかけていた。
座って、朱姫を抱き直す。
「仕方がありません。皇太后さまのお気持ちはわかっていたことです。」
皇太后がかくも清仲卿、清成卿親子を身びいきする事には理由がある。そもそも清仲卿の正室が皇太后を生母とする内親王なのだ。
中々子を産まなかったこの内親王を大切にして、他で子を作らなかった清仲卿は、皇太后にとっては気に入りの婿。?やっと生まれた一粒種の清成卿は可愛い孫だ。
引き換えてこちら側は、皇子、皇女を産んだ御母女御を亡くしていた。皇太后の帝への働きかけに、対抗する術がない。
「ここは堪えるしかあるまい。」
あと数年。
お互いに声には出さずに確認する。
今上一宮の元服と、貴子の入内の準備は着々と進んでいる。来年、代替わりを受けて一宮は立坊し、その添臥を貴子がつとめる。
譲位の意向はすでに帝から伝えられているから、あとはただ手順通りに事を進めるだけだ。
次の帝は今上の弟。
その次こそ、貴子の亡き叔母の生み参らせた一宮だ。
そうは言ってもまだしばらく皇太后の天下は続く。今上と同じく東宮も、皇太后所生の皇子だから、当分の間皇太后の威勢の衰える事は無いだろう。それがわかっているからこそ、祖父も我が孫娘である雅子内親王の降嫁に同意したのだ。
それにしても位を越されると言うことは、腸の煮えくり返るような屈辱だ。ひしめく横並びの多くの公卿から、ひとかきでも前へ上へと望むのが当たり前というもの。やっと前へ出たひとかきをたちまち無に帰されたのではたまったものではない。
それでも。
一宮の立坊を、さらに即位を期するなら、軽挙妄動は許されない。いかに煮え湯を飲まされようとも、ここのところは祖父の言うとおり、堪えるしかないのだった。
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