初雪
吹き出した風は夜半にかけて強くなり、そのまま冬の嵐となった。嵐は強い寒気をもたらし、遅れていた冬が一息に追いついて、京に初雪をふらせた。
海辺の須磨では、多少の風の被害がでたらしい。
源氏は大丈夫だったろうか。
須磨にはひそかに使いを送り、源氏の生活に不自由のないようはからわせてある。
源氏に何かがあれば、貼り付けた
それでも貴子は空中にそっと指を掲げて呪を唱える。
現れたのは蝶だ。真紅の翅の優美な蝶。
蝶は力強く羽ばたくと、須磨の方角へと消えた。
悪い癖だ。わかっている。
それでも自分が育てた子が困っているのではないかと思えば、探らずにはいられない。
母を失った源氏を育てたのは、実際には貴子だったのだから。
故院が源氏の手をひいて弘徽殿にあらわれたとき、困惑しなかったと言えば嘘になる。母を失ったとは言っても源氏の祖母はまだ存命で、源氏は祖母に養育されているはずだった。
この祖母が中々に難物で、珠子よりも彼女のほうが、貴子のことを嫌っていた。
源氏の祖母宮子は、「ニ国の王家の血を引く王女」と自分をたのむ女である。
故院の祖父に当たる四代前の帝の落胤だという触れ込みは本当のようで、見鬼であるだけでなく弱くはあるが天孫の力らしきものが宿っている。母方に祖国を落ち延びた異国の王家の血をひいているというのも、ありえる事だと思う。
実はそんな血筋はそれほど珍しいわけでもない。その王家の血筋は遠に他の氏族に吸収されてしまっているのだから。たまたま宮子の母方には伝承が残っていたのだろう。
宮子は貴子を嫌い、事あるごとに攻撃した。
攻撃するといっても大したことができたわけではない。貴子が珠子を妬んで虐めていると言いふらし、故院に讒言する程度だ。
さすがに故院はそれを信じなかった。
貴子がそんな事をするはずがないことをわかって下さっていた。
故院以外に言いふらしたことは、皮肉な結果を産んだ。
本当に、珠子が疎外されるきっかけになったのだ。
そもそも珠子は決して好かれているわけではなかった。
寵愛を一身に集める後ろ盾のない更衣。
その母は寵愛を頼みに好き放題囀り、「ニ国の王女」とやらであることを喧伝している。
これで好かれるはずがない。
まして珠子は「美しい影」のような娘だ。特別に印象づけるようなものをもたない。
母の印象は人々の中で、そのまま珠子の印象になった。
そんな折に宮子が流した「貴子が珠子を虐めている」という噂。
これではまるで、珠子を排除したかった人々に、わざわざ口実を与えたようなものだ。
実質的な後宮の主宰者である貴子におもねり、意を迎えるために、誰もが珠子を避けるようになった。
これは貴子にはどうともし難かった。
珠子が排除されていることに気付いた宮子が、貴子の差し金だと騒いだことでいっそうどうしようもなくなった。
貴子が否定すればするほど宮子はさわぐだろうし、さり気なく動くことも難しい。
そのうち珠子が清涼殿に上ることも難しくなり、故院が桐壺まで通うようなことまでなさった挙句、後涼殿に住まう更衣の一人が後宮を出され、珠子がその局を控えの局として賜った。その処置もまた、宮子が故院へ陳情した結果である事を宮子自身が喧伝し、当然ながら憎しみをかった。
珠子は半ば宮子に殺されたようなものだ。
貴子はそう思っている。
宮子の虚栄心と無思慮が珠子を殺したのだ。
本当に娘のことを思うなら、宮子は慎ましく振る舞うべきだった。そもそも珠子を出仕などさせるべきではなかった。
ほどよい婿をとっていれば、珠子はそれなりに幸せに、今も生きていたかもしれない。
珠子が身罷った後、宮子の家で養育されていた源氏が後宮に戻ったのは、故院が恋しがられたからというのもあるけれど、宮子の容態がおかしくなっていることが大きかったようだ。
宮子は珠子を喪って老耄し、以前にもまして繰り言ばかりを源氏に聞かせるようになったという。その繰り言も日に日に辻褄がおかしくなっているとかで、幼子への影響を心配した周囲がさり気なく引き離したらしい。
そんな事情を聞かされれば、源氏を養育する事に否やはなかった。似た年頃の兄妹が三人いる弘徽殿は源氏を遊ばせるのにはうってつけだ。その折にさり気なく目を配ってやればいい。
源氏は屈託のない子供だった。
祖母から貴子の陰口を聞かされていないはずはないのに、構える事なく貴子に馴染んだ。
幼い源氏には祖母の言葉が理解できていなかったのか、あるいは幼いながらに無意識に、祖母の流し込もうとする毒気を避けようとしたのかもしれない。
貴子は源氏を可愛いと思った。
そう思わない人はおそらくいなかっただろう。
白いふわりとした頬。
くっきりと黒目がちの目。
淡い紅を捺したような唇。
容姿がまず愛らしい。
仕草も話す言葉も、大人が愛らしい子供に期待するような、無邪気さに満ちている。
たとえ天孫の力の魅惑なぞなくても、十分に人を魅了するに足る子供だった。
源氏は貴子だけでなく、貴子の三人の子供達も魅了した。
一番歳嵩の女一宮、明子内親王。
今上である男一宮、倫継親王。
そして唯一源氏より年下の女二宮、照子内親王。
三人は源氏に親しみ、共に遊んだ。
故院はどの女君の局にも源氏をお連れになったし、誰の局でも源氏は歓迎されたが、弘徽殿で一番良く遊んだのは、やはり年の近い兄妹が多くいたからだろう。
貴子は自分の子供達と同じように源氏を扱った。
悪いことをすれば叱り、飲み物やおやつを支度した。
いつだったか源氏が木の枝を振り回して、女房の髪にひどく絡ませてしまったことがあった。貴子は自ら源氏のお尻を打ち、言い聞かせた。
「皇子である方が仕えてくれる者を苦しめるなどあってはならぬ事です。まして女の髪は命とも申します。天孫の血に恥じる行いですよ。」
源氏は言い聞かせれば同じ失敗はしない。
とても聡い子供なのだ。
ただ、接するうちに気づくこともある。
源氏は見鬼ではなかった。
溢れるほどの天孫の力を宿してはいるが、あやかしは殆ど見えていない。気配ぐらいは感じているらしい様子もないではないが、見事に無頓着だった。
すがりつくものたちを当たり前のように蹴散らして歩いている。当然自分の光に焼かれるものがいることにも頓着しない。
貴子の子どもたちはみな見鬼でもあるので、当然のようにあやかしを見、それについて話してもいるが、源氏にはどうもわからないようだった。
ただ、源氏は決してその事を認めもしなかった。どちらにしても源氏の周りには穢れたものはよりつけないのだから、見えなくても困らないと言えば、困らない。源氏があやかしのことにはふれずにいても、それほど不自然にはならない。
実際、貴子の他にその事に気づいた者はいないようだった。
そして子どものころの源氏に関わるうちに、貴子は一つの思いを強めた。
この子は愛される力には溢れていても、愛する力は実は乏しいのではないかと。
初雪は根雪にまではならず、天候の回復とともに儚く消えた。須磨に放った式神は源氏の生活に変化のないことを伝えてきた。
きっとこの式神も、源氏には見えないのだろう。もちろん貴子の心遣いが源氏に届くことはない。あの見栄っ張りなところのある青年は、きっと自分の不運を嘆いているのだろう。
殿上の札を削られてから、源氏は無紋の直衣を着ていたそうだ。
馬鹿な子だと思う。
殿上しないのに直衣など着る必要はない。狩衣でも着ていればいいのだ。自分の待遇に不満があると、口に出しているようなものではないか。
父の寵姫に子を産ませ、兄の寵姫に手出しする。
それが倫に反した行いであることぐらい、考えればわかりそうなものだ。少しくらい我が身を省みればいいものを。
それでも、貴子は今も源氏が可愛い。
故院の遺勅がなくても、切り捨てるのは難しかったろう。
結局のところ貴子もまた、源氏に魅了されているのだ。どれだけ心を砕いても届かないことを知りながら。
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