第3話

 そう。

 そうなんだ。

『普通』は違うんだ。

 解ってる。

 でも。

 私の『家族』は。

 理由も無く、側に居てくれる筈の『家族』は。

 もう。

 蒼しか。

 もし、蒼が私から離れてしまったら。私は。

「…………ごめん、ね。香君」

 急に謝った私に対して、香君は僅かに眉を潜めた。伝わらなくてもいい。ごめんね。香君は優しい人なのに。とても優しい人だけれど。

 其れでも。

 きっと香君には、私の気持ちは解らないよ。

 そんな風に思ってしまう私は、きっと嫌な女なのだろう。

「色々、ありがとう」

 私は鞄を手に取って、立ち上がった。家に帰らなくては。蒼が待ってくれて居るかどうか、もう解らなくなってしまったけれど。其れでも。

 まだあそこは私達の家なのだから。

「……おかえりなさい。お姉ちゃん」

 何時もなら、子犬みたいに駆けてくる筈の弟は、距離を開けて小さく微笑む。まるで今の私達の距離の様。でも、此れが『普通』なのだろう。今までが、おかしかったのだ。

「……ただいま。蒼」

 だから、私も少し離れなくては。……寂しいけれど。

「えっと、晩御飯はどうする? いる? いらない?」

 そんな感情を誤魔化すために、私は明るい声を出した。いらない、と言われてしまっても、悲しんだ素振りは見せないようにしよう、とか。今日こそ『彼女』の人となりをちゃんと聞こう、とか。そんな事ばかりを考えていた。

「……えと、あのね、お姉ちゃん」

 私の言葉には答えずに、蒼は恥ずかしそうに玄関の床を指差す。其処には、私が見たことの無い女物の靴が置いてあった。

 ――――。

 え。もう。家に上げるような仲なの? え? いや、まだ蒼ちゃんは子供なんだから、ただ一緒にお菓子を食べたりしていただけだよ。彼女さんには何て挨拶すればいいんだろう。もしも、いい子じゃなかったらどうしよう? えっと。えっと。

 色々な考えがぐるぐる回って、言葉にならない。

「……こっち来て。お姉ちゃん」

 いつの間にか、蒼に手を握られていた。懐かしい。数日前までは、毎日手を繋いでいたのに。でも。もう。

 もう。私のじゃない。

「……? お姉ちゃん?」

 気が付くと、リビングの扉の前まで来ていた。蒼は心配そうな表情を浮かべて、私を見ている。……しっかりしないと。私は一応『お姉ちゃん』なんだから。離れようって、思ったばかりなんだから。

 だから。

 ちゃんと、笑って祝福してあげよう。

 そう思いながら、扉を開けると。

「――――へっ?」

 そこには、小さなケーキと、お花が置いてあった。ちらりと蒼の方を見ると、恥ずかしそうに笑顔を浮かべていた。もしかして、此れは。

「……彼女さんとの、予行演習?」

「――――違うよ!」

 予想以上に大きな声で否定をされた。

「何時も、お姉ちゃんにはお世話になってるから……だから、少しはお返ししたいと思って……。あの、玄関の靴は茜ちゃんので……」

 うつ向いてもじもじと爪先を見詰めるその姿に、私は懐かしさを覚える。

 数分前まで考え込んでいたのが馬鹿みたいだった。蒼は私の大事な家族で、たった一人の弟なのだ。これ以上を望むなんて、贅沢だ。

「ありがとう。アオちゃん。本当に、ありがとう」

 心から笑って、私は蒼の頭を撫でる。くすぐったそうに笑う蒼は小さな子供そのもので、姉の目から見ても可愛らしい。

 本当は抱き締めたかったけれど、流石に彼が嫌がるかも知れないと思って、止めておいた。暫く蒼は其のまま撫でられていたけれど、此方を見上げて口を開いた。

「……茜ちゃん。ぎゅーって、していい?」

「……うん。いいよ」

 彼も、同じことを考えていたのだと解って、私はまた嬉しくなる。

 うん。やっぱりアオちゃんは小さくて温かくて、安心するなぁ。ずっと此のままの大きさでいてくれればいいのに。そんな失礼なことを考えながら、私はアオちゃんの肩に頭を寄せる。彼は少しだけ強い力で、私の体を抱き締めてきた。

「……もう、ちょっと痛いよ、アオちゃん」

 ふふ。と小さく笑いが漏れる。勿論、痛くなんて無いのだけれど。ちょっとだけ意地悪をしたくなったのだ。きっとアオちゃんも笑いながら謝ってくれる筈、そう思ったのに。彼はぐいぐいと身体を押し付けてきた。

「――っえ、わ、なに?」

 どうしたの? と尋ねる暇も無く、私は壁際へ追いやられてしまう。もしかして、からかった事を怒ってるのかな? 謝った方がいいかな? そんな事を考えていると

「茜ちゃんはさ、本当に馬鹿だよね」

 低く、渇いた声がした。

 ……誰の声?

 そう疑問に思う暇も無いまま、聞いたことの無い声は、私の直ぐ傍から聞こえてくる。

「……普通の家族は、いい年して抱き締め合ったりしないんだよ?」

 其の言葉に反して、彼は腕に力を込めて、私を抱き締めてくる。

 背中が痛い。

 恥ずかしさよりも戸惑いよりも、先に浮かんだのはそんな事で。あぁ私はもしかしたら。

「ねぇ。誤魔化せるとでも思ってたの?」

 こうなる事を解っていたのかも知れない。

「アオちゃん……蒼…っ…」

 其れでも、私は彼を押し退けようとした。違う。私は解っていたのかも知れない。けれど求めていたものとは違う。

「違わないよ」

 私の考える事なんて解りきっていると言いたげに、蒼は冷めた言葉で切り捨てた。掠れて濁って、引っ掛かる様な声色。止めて。変わらないで。

 これ以上『私の弟』以外の何かにならないで。

「僕に彼女が出来たって言った時の茜ちゃんさ」

 するり、と蒼の腕がほどけた。其れでも身体は動かない。彼が頬に滑らせてきた手は温かくて、だからこそ怖かった。

「――――泣きそうな顔してたよね」

 今までの笑みとは違う笑い方で『弟』だった男は笑った。



 お姉ちゃん何だから、我慢しなさい。

 ありきたりで繰り返され続けてきた其の言葉に、10歳だった私は反発していた。今考えると遅い幼児返りを起こしていたのかも知れない。

「やだ!私はお姉ちゃんなんて名前じゃないもん!茜ちゃんだもん!」

 そんな感じの台詞を言っていたらしい。らしい、というのは私自信、余りその事を覚えていないからで。なのに何故、台詞内容が出てくるのかというと。

 当時5歳だった蒼が其の台詞を覚えていたらしく、ある日急に「おねーちゃんが嫌なら、ぼく『茜ちゃん』って言うね?」と言い出したからだ。其れからほぼずっと、私は「茜ちゃん」だった。

 あぁ、そうだ。そうだった。あの頃から蒼は私に優しくあろうとしてくれていた。懐かしい。懐かしくて温かくて、遠い。まるで生まれる前みたいに、遠い。……彼が生まれる前、確かに家族は幸福だった。茜と蒼という、対の名前が付けられる位に。なのに、何故。もうお母さんもお父さんも此処には居なくて。嫌だ。寂しい。そんな時、唯一私を家族として愛してくれたのは、蒼。だったのに。だから、私は蒼が大切だったのに。

「違うよ。僕は家族だなんて思ってなかった。彼女が出来たなんて、嘘だよ」

 彼が言う。

「茜ちゃんはね。見捨てられるのが怖かっただけだ」

 優しげな顔の作りは其のままに。

「だから、誰でも良かったんだ。『弟』でもね」

 薄く笑っている。

「……酷いよね?」

 そうかも、知れない。あぁ、でも、嫌だ。こんなのは。こんなのは――――…。

 そんな私の考えを押し潰して、蒼は言う。

 優しい顔立ちを冷たく歪ませて。

「今更だよ、茜ちゃん。もう、無いんだ」

『家族』なんていう、幻想は。

 ぐじゃりと生臭い音を立てて、柔らかい夢は潰れていった。

 私は家を出た。両親が残してくれたお金を半分持って。

 何時か両親が帰ってきてくれるんじゃないかと願っていた、例え、今すぐにそうなったとしても、もう、私は。

 私は、蒼の姉として居られない。彼は弟では無くなってしまった。私は姉では無くなってしまった。

 私を傍で支えてくれていた筈の弟は、居なくなってしまった。

 ぁあ。私は酷い。酷い女だった。だって、私は蒼を愛していた訳では無かったから。

 私は『弟』を愛していたんだ。そうする事で、幸せな夢の残滓を感じていられたから。

 ……だから、此れは罰だ。

 親戚の家に公衆電話で連絡を入れて『蒼を宜しくお願いします』と一方的にお願いをして通話を切った。私は携帯電話を持っていない。だから、きっと蒼は私を見付けられないだろう。其れでいい。彼は私の事なんか忘れてしまえばいい。彼が歪んでしまったのは私のせいだから。

 だから。

 震えるのは、おかしいのだ。

 ずきずきと痛む下半身が非力で静寂な私を責め立てて来るのをじっと耐えて、耐え続けた。



 ――――立ち直るのに、5年掛かった。

 あの時の私はどうかしていたのだ。今なら解る。当時も解っているつもりだったけれど、其れは「つもり」でしか無かった。……彼がおかしかったのも無理は無いと思う。でもきっと彼の事だ。私よりもずっと上手くやれている筈。そんな事をぼんやりと考えながら、歩いていると人だかりが目に入った。黄色い声援が飛んでいる所を見ると、何処かのアイドルか何かがロケでもやっているのだろうか。テレビを余り見ないから解らないなぁ、何て思いながら通り過ぎようとすると、夕日を背景にして嬉しそうに微笑む青年の姿が目に入った。

 色が白いせいか、肌は赤く染まっているように見える。

 あぁ、何処かで見た事が有る。何処かで――――…。

 思い当たった瞬間に、私の足は震えだした。



 やめて。いたい。ゆるして。いやだ。ごめんなさい。

 無意識に呟かれる音はあの時の言葉。

 其れでも、彼は笑っていた。幸せそうに。

 やめないよ。ごめんね。ゆるさない。きらいだ。

 だいすき。

「……こんな所に居たんだね」

 低くなった声は、あの時とは随分違っていた。私も多分変わっているに違いない。

 其れでも彼は私を呼ぶだろう。手を差し伸べながら。次はきっと逃がしてはくれない。



「―――― 茜ちゃん。迎えに来たよ」



 彼はもう、弟でも子供でも無いのだから。

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茜色の明日 @haiirosan

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