第2話

 すぅっ、と。周りの温度が下がった様な感覚。

「……ねぇ、教えてよぉ。茜ちゃん」

 急に甘えた様な声で私に笑い掛ける弟。

 ……弟?

 彼は、本当に私が昔から知っている蒼なのだろうか。

「え、と……違う、よ?」

 何故か、私の声は震えている。目の前にいるのは、蒼なのに。私の、たったひとりの大事な家族なのに。それなのに。

「……そっか。良かったぁ」

 にこりと笑う顔も、何時もと変わり無いのに。

 指が白くなる程、強く私の袖を掴む力だけが、違っていた。

「…………」

「…………」

 ご飯を咀嚼する音が、やけに大きく聞こえる。

 何時もよりずっと時間を掛けて食べているのに、食べ物が喉につっかえそうになる。

 何時もの蒼なら、注意しなくちゃいけない位、私に話し掛けてくるのに。どうして今日に限って黙り込んでるんだろう。

「……茜ちゃん」

「っえ…ぁ、な、なに?」

「茜ちゃんは……何処にも行かないよね?」

「……っ…」

「僕を、置いていったりしないよね……?」

 どうして、そんな事を言うの?

 そう、尋ねたかった。でも、出来なかった。

 泣きそうな声で、蒼は。

 笑っていたから。

 ぁあ。ぁあ。久し振りだ。こんな蒼を見るのは。懐かしさすら覚えるほど。だから。

「あんな奴等みたいに……ぼくだけ置いていったりしないよね?」

 だから。私は。

「しっ…しないよ! しないっ!」

 どう対処すればいいのか、忘れていた。

 其の私の言葉を聞くと彼は。

「――茜ちゃん、だいすき!」

 アーモンド型の目を細めて、とても可愛らしく笑った。

 其れから、蒼は私にべったりとくっついてくる様になった。まるで小さな子供みたいに。……確かに蒼はまだ子供だけれど、幾らなんでも……。

「えーと……アオちゃん?」

「なーに?茜ちゃん?」

 ソファーの上で、べたぁっと私にもたれ掛かって、蒼はにこにこしていた。

「もたれ掛かるなら、私じゃなくてソファーに……」

「あ、見て見て、茜ちゃん! おいしそうだねー!」

 グルメ番組を見てきゃっきゃとはしゃいでいる姿は中学1年生というより、小学1年生の様だ。蒼はまだ声変わりしていないから余計に。

 いや、だからと言って、これは余り宜しく無いのではないか……位は私にも解る。流石に。

 言っても聞かないだろうと思って、無言で蒼から身体を離してみる。

 蒼は姿勢を正そうともせずに、其のままもたれ掛かってくる。ごろんと転がって。私の膝の上に頭を乗せる。

 しまった。

「ひーざーまーくーらー♪」

「――――ドラえ○ん!?」

 あぁもう、どうしよう。放っておけば治るのかも知れないけど、何だか不安だ。

「……もう、あんまりくっついちゃ駄目だよ。アオちゃん」

「なんでー?」

 くぅっ……!

 こういう時、何て説明すればいいんだろう。

「えぇと、蒼ちゃんはもう大きいでしょ?」

 仕方無しに、子供を諌めるような風に言ってみる。

「茜ちゃんよりは小さいよ」

 屁理屈! 子供の屁理屈だ!

「そういう意味じゃなくって……」

「……僕の事、嫌いになった?」

「……そういう、意味じゃなくて……」

 嫌では無い。蒼には悪いけれど、子犬が膝の上で丸まっている様な安心感がある。

 だけど。

「じゃあ、どういう意味なの? 茜ちゃん?」

 じぃっと私を見詰めてくる其の目が。

 何だか怖い。

 何でか解らないけど。

 解っては、いけない様な気がする。

 だから。

「……重いから、どいて欲しいなぁ、って……」

 当たり障りの無い言葉を吐いて、私は全てを誤魔化した。

「え~酷いよぉっ! 茜ちゃんっ!」

 くすくすと蒼は笑う。私の中身の無い言葉に対して。

「これからどんどん、ボク大きくなっていくんだよ?」

 蒼は楽しそうに笑う。

「そうかなぁ……もしかしたら、ずっと小さいままかも知れないよ?」

 私は、蒼に合わせるように笑ってみせる。そんな私に対して、蒼はもっともっと楽しそうに笑う。

「そんな事、無いってば……僕、男だよ?」

 少しだけ、不安になる様な、引っ掻き傷を残して。

 考えない様にしていた。

 蒼が、私の事を、どう思っているのか。

 所々見せる執着は、両親が余り、彼を構わないせいなのだ、と。私を母親代わりにしているだけなのだ、と。

 そう。

 そうだ。

 そうであるべきだ。

 こんな考えは蒼に対して失礼だ。

 こんな事を考えてしまう私の方が、おかしいんじゃないのか?

 だから私は必死で考えを『直す』。

 蒼は寂しがっているだけだ。側に居る『家族』は、私だけだから。だから。私が蒼の支えにならなければいけないんだ。だって。蒼はまだ子供なんだから。

 そこで

 ―――ふと、蒼の言葉が頭を過る。

『そんな事、無いってば……僕、男だよ?』

 ざり、と。

 引っ掻き傷が痛んだ。

 もし。もし、私の『勘違い』が本当だったら?蒼が『大きく』なったら、どう、なって、しまうんだろう――…?

 そんな筈は無い。

 そんな筈は無い、と。解っているのに。

 私は次の日、蒼を待たずに、初めて一人で登校した。

 蒼の「どこ行くの、茜ちゃん」と言う無邪気な声を、愛想笑いで誤魔化して。私は、蒼を置いていった。

「――……また、珍しい時間に会うな」

 考え事をしながら歩いていたせいか、後ろから近付いてくる人の気配に気が付くのが遅れた。

「あ。おはよう、香君……」

 そう挨拶をすると、香君は軽く微笑んだ。

「おう」

 相変わらず、気さくな男の子だなぁ。蒼も此れくらい堂々と振る舞えれば、もう少し友達が……。

「……っ」

 違う。

「……どうしたよ。山里」

 香君の気遣う様な声に対して、小さく首を振る。

 私は蒼から距離を置こうと思っていたのに。心配する何て今更だ。そんな資格なんて無い。

「……何でも、無いよ」

 曖昧に笑って、誤魔化す。

 香君の表情が一瞬だけ曇った様に見えたけれど、私は気が付かない振りをした。

 授業中も放ってきてしまった蒼の事が気になって、集中できなかった。……自分でも、気にしすぎだとは解っているんだけど。

 でも。私は。

「――山里。ちょっといいか?」

「――っ!?」

 びくりと、必要以上に肩が震える。

 あれ……? 私は何を考えていたんだっけ……?

「悪い。……驚かせたか」

 声の主は、香君だった。頭をぽりぽりと掻きながら、真っ直ぐな目で此方を見詰める彼。

「――何。香君」

 其の真っ直ぐな目に気圧されて、自分で思っている以上に固い声になってしまった。

 そんな私に怯んだ様子も見せずに、香君は

「――…弟さんと、何か、あったのか?」

 そう、心から心配する様な声音で、尋ねてきた。

 ぎりぎりと、心臓が、痛む。

「――何も、無いよ」

 そう。実際に何も無かった。

 あの言葉は何時もの冗談で。

 そうに決まっている筈なのに。

 弟に怯えている自分が嫌だ。怖い。

 家族を見捨てようとしてしまっている自分が怖い。

「――だから、大丈夫。さよなら、香君」

 私は酷く慌てながら、学校を後にした。

「――――あ、お帰り。お姉ちゃん」

 柔らかく笑って、蒼が私を出迎える。其の表情は何時もの見慣れたもので、不安に怯えながら帰宅した私を、拍子抜けさせた。

「あ……うん。ただいま……」

 普通に返事をしてしまってから、蒼の呼び方が何時もと変わっている事に気付く。

 ……でも、気にするほどの事じゃない。わざわざ聞くのも躊躇われて、私は何時も通り蒼に話しかけた。

「ごめんね。遅くなっちゃって……」

 言いながら、玄関を上がって。夕食の準備を始めようとする私に対して。

「あ、いいよ。ボク食べてきちゃったから」

 言って、蒼はにこりと笑った。

「……っ、あ。そ、そうなんだ……」

 発した声は震えていた。何でもない言葉である筈の其れが、強い違和感を持って心臓を締め付ける。

 蒼が今まで外食をしてきた事なんて無かった。一度も。そう、今まで一度も。

 ……だから、何だっていうのだろう。私は気にしすぎなんだ。こんなんじゃ、弟の事を言えない。

「えっと……」

 何か話さなくては、と焦燥感に駆られて私は口を開いた。そんな私の思いを食い千切る様に、弟が笑う。

「もう、ボクのご飯は作らなくていいよ。お姉ちゃん」

 びくり、と心臓が跳ねた。ただの、言葉に。ただの、何でも無い言葉に。あぁ、私は。

「此れからは彼女と食べてくるからね」

 自分から彼を手離そうとしたくせに、手離されるのが怖いのだ。

 今さら、気が付いたって、もう遅い。

 其の日、私は夕食を作らなかった。食欲が無いというより、料理を作るという作業が、急に億劫になってしまったのだ。

 だから、何も食べずに布団に入った。

 蒼はずっと、彼女の話をしていたらしい。……らしい、というのは、私が其の内容を、殆んど覚えていないからだ。

 ただ、楽しそうに笑っている蒼の表情ばかりが、記憶に残っていた。

 ……良かった、んだ。うん。良かった。やっぱり、あの蒼の台詞は私の勘違いだったんじゃないか。

 本当に、馬鹿みたいだ。……あぁ。本当に、何て馬鹿なんだろう。

 もう少し、先だと思っていたんだろう。私は。其れが急に来たから、戸惑っているんだ。其れだけ。其れだけの、話。

 結局、私は蒼の彼女の名前すら思い出せなかった。

 朝、起きるともう蒼は家を出ていて。何時もなら私が起こすまで彼は寝ていたのに、と思い。あれは私に気を使っていたんだ、とそこでやっと気が付いた。

 ……そうだよね。今の蒼には彼女が居るのだものね。そりゃあ、そっちを優先するよね。

 其れは当たり前だ。だって家族と恋人は違うのだ。……家族は、離れてしまうものだから。

 そう。そうだ。そうだった。私は知っていた。両親で知っていた。だから。だから蒼は私にずっとずっと気を使っていたのだ。出来るだけ、側に居ようとしていたんだ。なのに。其れなのに。

 蒼の手を離したのは、私。

 そう。私の方。私は蒼の「お姉ちゃん」という肩書きすら、自分で捨ててしまった。

「……ごめんなさい」もう、冷えているだろうベッドに向けて呟いて、私は家を出た。1人で。

 もう、隣に蒼は居ない。

 蒼は、変わらなかった。相変わらず、私に優しかった。

 其れに対して、ぎこちない笑顔で返す事しか出来ない自分が嫌で。そんな私の様子に、いち早く気が付いたのは香君だった。

「……ウザいの承知でまた言うぞ」

 眉を潜めて、辛そうに香君は言う。

「……弟さんと、何か有ったんだろ?」

「……何か、あった?」

 私は馬鹿みたいに言葉を繰り返した。

 違う。何も無い。何も、無いんだ。ただ、蒼が私から自立しようとしているだけ。

 其れは喜ばしい事で。でも、私には何も。

「……何も、無いの」

「そんな……気を使うなよ」

 ぽつりと呟いた私の言葉に被せて、香君の少し困った声が聞こえる。優しいね。香君は。

「違うの。蒼にね、彼女が出来たの」

 為るべく穏やかな、優しい声になるように、調節する。あれ。どうして、調節する必要が有るんだろう。

 ふとそんな疑問が浮かんだけれど、一度溢れた言葉は少しずつ洩れていく。

「だからね、ちょっとびっくりしちゃって。早いよね。まだ13歳なのに」

 私は笑った。笑おうと努力した。

 けれども其れは失敗してしまった様で、香君は益々困ったような、辛いような不思議な表情を浮かべていた。

「……そんなに、信用無いかなぁ、俺」

 ぽりぽりと頬を掻きながら、彼は小さく、寂しそうに笑う。其の表情は蒼に少し似ていた。

「そんな風に誤魔化されると、ちょっと悲しいというか」

「……え?」

 誤魔化してなんて、いない。どうして彼は、そんな事を言うのだろう。そんな疑問は、香君の一言で他愛なく崩れていった。

「それで、何で山里がそんな顔するんだよ?」

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