茜色の明日

@haiirosan

第1話

「茜ちゃん。迎えに来たよ」

 聞き慣れた声に振り向くと、夕日を背景にして嬉しそうに微笑む弟の姿があった。色が白いせいか、肌は赤く染まっているように見える。

「――別に、わざわざ来なくても良かったのに」

 口ではそう言いながら、自分の顔は緩んでいるんだろう。そう、まるで他人事みたいに自覚する。私は弟が可愛くて仕方が無いのだと。

 其れは多分、弟も解っているのだろう。

「茜ちゃん、ひどいよぉ」

 言葉とは裏腹に、蒼(あおし)は笑いながら腕を掴んでくる。男の子の割に、其の力は余り強くない。……元々、線の細い子だ。まだ13歳とはいえ、此のまま成長したら、女の子に負けちゃったりしないかな。何て考えて居ると、ぐいぐいと袖を引っ張られた。伸びちゃうってば。

「――どうしたの?はやく帰ろうよぉ、茜ちゃん」

 ぼやっとしている私に痺れを切らしたのか、蒼は更に私の袖を引っ張りだした。

「わ…わかった。解ったから、離してアオちゃん」

「やだー!」

 くすくす笑って、彼は腕を組んでくる。無理矢理、連れていくつもりの様だ。ぁあああ。どうしてこういう時だけ力が強いのかな、この子は!?抵抗も虚しく、私は引き摺られる様にして帰路についたのだった。

「ただいまぁー!」

「……ただいま」

 そう言ったものの、家の中に親の姿は無かった。昨日も。今日も。たぶん、明日も。私の両親は仲が良くないのだ。とても。……私が知らない誰かと、デートでもしているのかも知れない。

「あーかねちゃんっ♪」

「……っ!?なっ、何っ……!?」

 暗い思考に沈んでいた私の目の前に、弟がずいっと顔を突きだしてきた。驚いた私の表情をからかうかの様に、にこにこ笑って。

「ボクお腹すいたぁー何か作ってー?」

 首をかしげた。

 ――――あぁ。気を、使わせてしまっている。

 この子はまだ、小さいのに。

「……うん。解った。チャーハンでいい?」

 私も彼の様に笑顔を返す。

 上手く笑えたかどうかは、解らなかった。

「おいしかった!」

「……そっか。良かった」

 でも、ちゃんと『ごちそうさま』って言おうね、と続けると蒼は『茜ちゃん先生みたい』と文句を言った。其れでも、彼はちゃんとお皿洗いを手伝ってくれる。いい子だ。

 片付けも終わって、テレビを見ながらぼんやりしていると、

「――――お風呂の用意出来たよっ!」

 台所からひょいと顔を覗かせて、弟が言う。

「え?あ、そっか……ありがとう、アオちゃん」

 よしよしと頭を撫でてあげると、蒼は恥ずかしそうにうつ向いて、其れでも嬉しそうに笑っていた。子犬みたいで可愛いなぁ。髪の毛もさらさらだし。大きくなったら、結構、格好良くなったりして。

「えっと、じゃあアオちゃん先に入る?」

「ぼ、ボクはいいよ……茜ちゃん先に入っていいよ」

 ぶんぶんと首を横に振って、彼は私から離れた。子供扱いしたのが良くなかったのかな?……これから気を付けよう。

「じゃあ、先に入るね。ありがとアオちゃん」

 にっこりと笑顔を作ると、蒼も笑顔を返してくれた。


 ――――お風呂から出た事を彼に告げると、気だるそうな弟の返事が返ってきた。もう眠いのかも知れない。

「……アオちゃん?」

 リビングまで足を運ぶと、ソファにもたれている弟の姿があった。ここからだと、ソファの背もたれしか見えないので、寝ているのかどうか解らない。

 そろりと近付いて、顔を近付けてみる。……やっぱり、半分眠っているみたいな顔で、うとうとしていた。

「お風呂、上がったよー」

 ゆさゆさと肩を揺らすと、ぼんやりしていた目が、急に見開かれた。

「わっ! えっ……あ、茜ちゃんっ!? な、なになにっどしたのっ!?」

 あ。寝惚けてびっくりしてるんだなー。可愛いなー。

「お風呂入っちゃってね」

 ぽんぽんと肩を叩きながらそう言うと、

「えっ、あー…う、うん……」

 まだ寝惚けているせいなのか、何処かぼうっとした声で彼は返事をした。

「じゃあ、先に寝るね。おやすみ」

 そう声を掛けても、まだ蒼はぼんやりとした顔をしていた。

『寝るね?』と言ったものの、なかなか寝付けなかったので、リビングでホットミルクを飲むことにした。

 ……あれ?

 弟はお風呂からまだ上がっていない様だった。大丈夫かな……まさか覗く訳にはいかないし……。

「……茜ちゃん? 寝たんじゃないの?」

「――――うひゃい!?」

「……なぁに、どしたの?」

 恐る恐る振り返ると、蒼が苦笑いを浮かべて居た。……や。別に本気で変なことを考えていた訳じゃ無いんだけど、えーとえーと……。

「……あ。うん。眠れなかったから……」

 最後の方はごにょごにょした、良く解らない発音になってしまった。ぅう……。

「……そうなんだ……大丈夫? 驚かせてごめんね、茜ちゃん」

 ――彼が謝る事では無いのに、あぁ、もう、ダメだなぁ私……。

「え、ぁ、じゃあ、あの……お休みなさいっ」

 自分よりずっと小さい家族に気を使わせてしまっているのが申し訳なくて、情けなくて、私は逃げるように部屋へと戻った。

 だから。

 彼がどんな表情で私を見つめていたのか、解らなかった。


「お早う、茜ちゃん」

 多分蒼は、何時も通りの笑顔を浮かべているだろう声で言う。

「うん。お早う、アオちゃん」

 私は振り返る事無く返事をする。

 私も彼に笑顔を返したかったのだけれど、ちょっと寝坊してしまったので急いで朝御飯を作らなければならないのだ。

「もうちょっと待ってね。ごめんね」

 手を動かしながら、そう彼に声を掛ける。

「……そんなに、頑張らなくてもいいんだよ?」

 ――――不意に、直ぐ後ろから声が聞こえた。

 ……思い詰めた声。

『どうして、そんな事言うの?』そう、振り返って尋ねる前に。

「……ボクが、もっと大きかったら、茜ちゃんの力になれるのに」

 こん、と背中に柔らかくて暖かい物が触れる。蒼の額だと、直ぐに解った。彼は昔から悲しくなると、私の背中に額を当てる癖がある。

「――アオちゃ」

「……邪魔して、ごめんね」

 心地好い暖かさと、重みが離れる。急に、背中が冷えてしまった様な気がした。

 ぁあ。駄目だ駄目だ。

 私は首をひとつ振って、目の前の作業に集中する振りをした。

「――茜ちゃん、ありがとう!」

「いいよ。ついでだから」

 さっきの言葉も行動も。何も無かった様に蒼は笑う。私も、同じ様に笑っている。……筈。だと、いい。

 きっと、蒼は気付いているんだろう。

 もう私達が、両親にとって邪魔でしか無い事を。

 私が、其れを知られないように振る舞っている事を。

 でも、私はどうしようも無く不器用だから。上手に隠していられなかった。

 ごめんね。

 ごめんね。蒼。

 本当だったら、私が蒼の支えになっていなければならないのに。

 ……私は、駄目な、姉だった。


「……ね。茜!」

「えっ、あ、何……?」

 朝の事で自己嫌悪の海に沈んでいた私は、友人の呼び掛けに気付け無かった。

 そんな私を見て、友人は心配そうに目を潜める。

「……大丈夫? 何か、あったの?」

 笑顔を取り繕って、私は言う。

「大丈夫だよ。私は」

 そう。私は。

 ……でも、蒼は?

 ぐるぐると思考が巡る。お金は大丈夫。両親が振り込んでくれているから。今は、まだ。でも、お金があればいいって物でも、ないだろうし……。

 どうしたら、私は蒼の力になれるんだろう。

 ――――考えてみれば、昔から弟は聡い子だった。だから、もうずっと前から、気付いていたのかも知れない。とぼとぼと、帰り道を歩く。足が地面を引っ掻く様に、ざりざりと音を立てる。……こんな状態で帰ったら、益々、蒼は私に気を使ってしまうに違いない。

 何処かで気をまぎらわせよう。そう思ったけれど、制服のままお店に入る訳にもいかない。

「公園にでも、行こうかな……?」

 一人でそう呟いて、私は公園へと向かった。

 夕焼けが眩しい。……考えてみたら、帰りが遅い方が心配されるんじゃないか……なんて事に、今更気付いた。

「うーん……」

 こんな風だから、5歳も年下の弟に心配されちゃうんだなぁ……私。そろそろ暗くなって来たし、もう帰ろうかとベンチから立ち上がった所で、声が聞こえた。

「――あれ? 山里じゃん。どうしたんだよ。こんな所で」

 自転車を引きながら、見覚えの有る男の子が近付いてきた。

「……えっ? あ、えと…香(こう)君?」

 確か、香君は同じクラスの男の子だ。名前の字が女の子みたいだったから、印象に残って、良く覚えていた。

「……今、何か失礼な事考えなかったか?」

 じろりと、香君の目が私を睨む。

「っ!? いっ、いえいえ何もっ!」

 香君は体育会系に見えて、意外と勘が鋭いなぁ。……たぶん、名前の事気にしてるんだろうな。言わないでおこう。

「ま、いいや……今から帰るとこなのか?」

 さっきまで怒った様な表情を浮かべていた彼は、直ぐに気さくな顔に戻った。この、さっぱりした所が香君が人気者で有る所以なんだろう。

「うん。香君も?」

「ぁあ。俺は部活の帰りだけど……山里ん家この辺だっけ?もう暗いから、送ってこうか?」

「うん……え? ――――えぇ!?」

 突然の申し出に、変な声を上げてしまう。香君もびっくりして、支えていた自転車が、ガシャッと音を立てる。

「……や。別に嫌ならいいんだけど……」

 ぽりぽりと、ばつが悪そうに頬を掻きながら、彼は言う。きっと親切心で言ってくれたのだろう。変に意識して、驚いてしまったのが恥ずかしい。

「じゃあ…その、お願いします……」

 思わず頭を下げると。

「――――大袈裟だなぁ」

 と香君は笑った。

 他愛の無い話をしながら暫く歩いていると、家の明かりが見えて来た。

「もう、ここまで来れば大丈夫だから……ありがとう。香君」

 そう言って笑うと、香君も人懐っこい笑みを浮かべた。

「おう。明日なー…。……ん?」

 香君は、先の方へ目を凝らしながら、瞬きを繰り返している。

 ?

 何を見ているのか気になって、振り返った。

「――――茜ちゃん!!!」

 音がしそうな程強く、蒼が私にぶつかって来た。本人的には、抱き着いてきたつもりだったのだろう。

「茜ちゃんが帰って来ないからボク心配だったんだよ!? 探しに行こうと思ったんだけど行き違いになったら困ると思って……だから前からケータイ持ってってあれ程……」

 息を吐く暇も無く捲し立てる弟に、どう返していいのか解らずに、おろおろしていると。

「あー…えっと…弟…さん?」

 香君が呆気に取られた表情で、蒼を見ていた。

 其れに蒼も気が付いたらしく、慌てて私から離れる。

「あ……えっと、ごめんなさい…。ボク、茜……お姉ちゃんが心配で……」

 ……元来、人見知りの蒼は気恥ずかしさのせいか酷くうつ向いて、香君の顔ではなく、自分の爪先を見ていた。

 そんな弟の態度にも気を悪くした様子を見せず、香君は笑う。

「あーいいよいいよ。愛されてるなー茜ちゃんは」

 そんな軽口を言って。ぽんぽんと蒼の頭を撫でる。蒼はくすぐったそうに、身を捩った。

「――じゃあな。また明日」

「うん。またね」

 と、言っても、クラスで顔を合わせる程度だけれど。ひらひらと手を振りながら帰っていく彼に合わせて、私も手を振った。

 香君の影が少し長くなってきた辺りで、私は蒼の手を握って家に入ろうとした。

 と

「――――あの人、茜ちゃんの彼氏?」

 今まで聞いたことも無い程冷たい声で、蒼が呟いた。

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