初歩的なこと
「2人とも怪我は?」
先ほどとは別のもう少し柔らかい口調の声もした。こちらの人物の話し方にはなんとなく上方の抑揚がある。
前を向くと、小ぎれいな身なりの、同じ年頃と思われる武家の少年が椿と同じく地べたに転がっている。少年がゆっくり立ち上がると、椿はその少年の左の掌から血が流れているのに気づいた。
「ちょっと待って」
腰に下げていた巾着袋から新しい手ぬぐいを取り出し、椿は少年の手の汚れを払ってから手ぬぐいで血を拭き押さえた。
「おい、君」
「ごめんなさい、私のせいで」
申し訳なく思い、椿は少年の顔を覗き込んだ。ぶつかられたせいであからさまに不機嫌さが表れている。武家の装いではあるが、顔も手も色白で、背丈は高く体つきもしっかりしているがどういう訳か剣術が強そうというよりは算術とか書類作成の方が得意に見えた。
少年の鋭い目つきに少し怯んだ椿は、視線を落として手ぬぐいの位置をずらした。
「君さ」
「え?」
「良家のお嬢さんに茶屋仕事なんて無理だよ。まぁ、お母上のことは気の毒だが……」
「どうして知ってるの!?」
少年は相変わらず冷ややかな眼差しで椿を見下ろしている。椿は再び少年を見たが、どう考えても初対面で椿の身の上など知らないはずだ。それなのに、今から自分がしようとしていたこと、そうせざるを得なくなった事情までもわかっているような口調だった。
椿が何も言えずに動揺していると、別の少年が溜息をついて言った。
「文吉くん、文吉くん、お嬢さんが怖がってるよ。ごめんよ、こいつ、ちょっと変わり者でね。あ、僕は城次郎。お嬢さんこそ怪我ない?」
「え、ええ、平気よ」
城次郎と名乗った少年は椿の不安を和らげようと微笑んでいる。やはり話し方が大坂の人のようだが、わざと江戸言葉を使っているような印象を受けた。そんな彼は、若い女なら思わず目を留めてしまうような爽やかな美男子だ。
「通りで立ち話もなんだからさ、そこの甘味処に行こうか」
「待ってくれよ、ジョージ。俺はこれからやることがあるし、ぶつかってきた娘と甘味なんか食べてる暇はない」
「急ぎの仕事じゃないだろ。まがりなりにも君の怪我の手当をしてくれたんだから、お嬢さんに報いるべきだ」
椿が了承する間もなく、城次郎に背中を押されて近くの甘味処の暖簾をくぐってしまった。
3人は店の奥の机に座り、葛餅を注文した。ほどなくしてできたての葛餅が運ばれてくると、多少釈然としない気持ちはあったが、椿は改めて文吉にぶつかってしまったことを謝罪した。
「もういいよ」
文吉の態度はさきほどよりも軟化したようだが、ぶっきらぼうであることには変わりない。
「あの、私、小川屋の松と言います。でも、椿って通り名があるからそれで呼んで」
「可愛らしい通り名だね。君にぴったりだと思うよ、ねぇ、文吉?」
「さあね」
興味がなさそうに短く答えた文吉を見て、城次郎は苦笑した。たぶんこの2人にとっては、日常的なやりとりなのだろう。
「でも、どうして彼女のことがわかったんだ? どこかで会ったことあるの? えらいべっぴんさんやで」
「いいや、こんなに不注意な娘さんに会うのは初めてだよ。まぁ、初歩的なことさ、ジョージ」
文吉はどうやら城次郎を異人風にジョージと呼んでいるらしい。奇妙に聞こえるが、城次郎は元からジョージであるように思えてしまうのは不思議だ。
文吉は完食した葛餅の皿を脇に寄せ、身を乗り出すようにして説明を始めた。
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