アカデミア・マルヴェシア

木葉

長屋暮らしのお嬢様

 十代半ばの少女が小さくて大きな決意を胸に、雑然とした長屋の一角から歩み出てきた。

 次第に強くなる初夏の光に眩しそうに目を細めると、がたつく自宅の戸口を閉め、通りに向かう前に忘れ物がないか確認する。すれ違った近所の大工のおじさんに大きな声で挨拶をすると彼女は進み始めた。

 腰にぶら下げた、母親が作ってくれた縮緬の巾着袋の鈴がちりんと鳴る。

 少女の名前は椿、本名は小川屋の松というが、天性の華やかさからいつの間にか真冬でも咲き誇る花の名で呼ばれるようになっていた。色白で大きな瞳は一見すると人形のようだが、両目から発せられる輝きから勝ち気であることが察せられる。

 椿は長屋暮らしに似つかないしっかりとした身なりで、着物には汚れなど見当たらない。それもそのはず、椿はつい先日までは、大伝馬町の問屋街に軒を連ねる中型呉服問屋の一人娘だったのだ。

 父親が営む呉服小川屋は、越後屋や大丸屋ほどの豪商ではなかったが、取引先の中心が幕府や大名など一定の顧客を得ていた。そんな裕福な商家の年頃の娘がどうして長屋住まいをしているのか。まずは椿の行き先を見てみよう。

 大伝馬町と神田川の中間あたりに位置する長屋を出発した椿は、とりあえず西を目指す。自宅から遠いと毎日通うことができないし、近いとご近所さんに知られてしまう。東の深川なら誰にも知られることはないだろうが、隅田川を越えるのは遠い。南の方角は町奉行所があって、なんとなく気が引けてしまう。別に悪いことをするわけではないのだが、役人に目をつけられて面倒事になるのは嫌だ。

 神田小川町のあたりにたどり着くと、椿は十字路で立ち止まった。

 実は商家のお嬢様育ちの椿はほとんど一人で外出をしたことがなかった。店の周辺や、今の自宅の近隣には出掛けるものの、それ以上の距離になると必ず店の女中さんか小僧さんが付き添ってくれたものだ。ほしいものがあれば、商人が小川屋までやって来て、所狭しと上等な品物を椿の目の前で陳列してくれた。そういうわけで、今、椿が道に迷ってしまったことは不思議ではない。

 2年前に桜田門付近で大老が暗殺されてから不穏な政情が続いているが、町人の暮らしにそれほど変化はないように見える。心地よい気候に誘われるように、通りの往来はどこも激しく、人混みに紛れて自分が一体どこにいるのかわからなくなってしまい、椿は懐から行き先の地図が描かれた半紙を取り出した。

(神田明神の近くだから、こっちに行けばいいのかな)

 顔を上げてきょろきょろと十字路を見回し、地図を掲げて向きを変えたりした後、椿は勘に従って進んだ。

 椿の目的地は、笹野という名の茶屋だった。神田明神の参道から少し奥に入った場所にある最近人気の店で、以前、お店のお得意様が抹茶風味の美味しい団子を椿に持ってきてくれたことがあった。

(おかしいなぁ。参道らしきものは全然見えないし、それどころか武家屋敷っぽい建物がある……)

 もう一度、椿は地図を取り出して上下逆さまにしたり、首をかしげながら歩いていた。そして、曲がり角に差し掛かった時、椿は体に衝撃を感じた。

「きゃっ」

 短い悲鳴を上げ、椿は後方に倒れ尻餅をついた。

「ってー。ちゃんと前見て歩いてくれよ」

 何が起きたのか把握する前に、誰かの怒った声が聞こえた。

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